志ネットワーク 青年塾:「志の高い日本」は、「志の高い日本人」によってこそ実現するとの思いに立ち、志ネットワーク活動を展開。 主宰:上甲晃

生き方の「一流人」めざせ

2001年1月29日 上甲晃 |

 「志」について、伝紀作家の小島直記先生からは、本当に多くのことを学んだ。特別にお願いして、松下政経塾の敷地内にある職員住宅に居を移していただき、隣同士の閑係で学ぶ機会まで与えていただいた。小島先生との出会いがなければ、歴史のなかに生きた偉大なる先人たちとも出会えなかったかもしれない。また、自らの生き方を、厳しく問い掛けることもしなかったかもしれない。

 「志」という言葉は、今や流行り言葉の感さえある。それだけ、日本社会の全件に、「志」が失われてきた顕著なあらわれかもしれない。それでは、「志」とは何かと問われると、これがなかなか明快に答えられない。意味するところは何となくわかるのだが、言葉の定義として、誰もが了解するような明快な答えには巡り合えない。

 小島直記先生は、「志には三つの条件がある」と教える。三つとはまず人生のテーマを持つこと、そして、生きる原理原則を持つこと、最後に言行一致であった。まことに明快で、端的である。私は、今もなおその三つに当てはめてみて、自らの「志」を常に問い直している。

 "人生のテーマ"。それまでの私は、仕事についてはいつもテーマをもっていたつもりである。しかし、仕事のテーマと人生のテーマは違う。仕事のテーマは、仕事を離れると消えてしまう。転勤したら断ち切れるし、退職すれば消えてしまう。それに対して、人生のテーマは、「何のために生きるのか」という根源的課題であるから、生きているかぎり離れられない。それまでの私は、自分の生涯かけて求め続けるテーマなど、ほとんど意識せずに生きてきた。小島先生から、「人生のテーマは何か?」と問われたときから、ようやく考え始めた次第である。

 「若い人たちを育てたい」。松下政経塾で、若い人たちの指導に当たってから、私のなかに芽生えた思いである。次代を生きる青年たちに、高い精神をもって、命の躍動するような人生を送ってほしい。人間として、一流の生き方をめぎしてほしいのである。とかく世知辛い世中、「自分さえ良ければそれでいい」、「目先がおもしろおかしければそれでいい」、そんな風潮が若い人たちの間に広がっていることが悲しかった。

 31年1か月勤務した松下電器を退職して、「青年塾」を、平成9年に設立したのは、私の「人生のテーマ」の始まりである。「次代を担う青年たちが、高い志に生きるための切磋琢磨の場づくり」を願ってのことである。幸い、すでに、300人近い人たちが、門をたたいてくれた。

 次に、"生きる原理席則"。「志高く生きること」を若い人たちに求める以上、私の"生きる原理原則"は必然的に決まっている。私はいつも自分自身に言い聞かせている。「おのれ一身の損得をこえて、つねに大きな損得を求めて生きること」である。人は、誰に教えられなくても、自分の損得計算をして判断することはできる。、しかし、自分の損得だけで生きることは、まことにけち臭く、狭量で、いじましい。相手の損得、みんなの損得、国全体の損得、子鉄や孫まで含めた損得、地球全体の損得を計算して判断できるとすれば、どれほどすばらしいであろうか。それこそが、生き方の一流人である。

 そして、最後に、"言行一致"。「人に求めるかぎりは、自らが実行する」という姿勢である。威厳、権威というものが、日本の社会から、ほとんど消え去ってしまったかのように見える。威厳のある人、思わず頭の下がるような権威を備えた人が、きわめて少なくなった。人間の威厳や権威は、その人の生きぎまからにじみ出るものである。「語らずして教える」「教えずして教える」ためには、救える立場にある者の厳しい生きぎまのほかにはない。問われているのは、「今時の若い者」ではない。厳しく問われているのは、「今時の大人たちの生きぎま」なのである。

 致知出版社から「志のみ持参」と題する本を出版していただいたのが、今から5年前である。私の思いをはるかにこえて、たくさんの方々にお読みいただいた。今回、致知出版社の藤尾社長の勧めにより、松下電器を退職し、自らの人生のテーマとも言うべき「青年塾」を設立するとともに、ささやかながら独立経営者の道を歩んできた5年間の経験を、「志のみ持参」の続編として一冊の本としてまとめていただいた。しかも、私が進めてきた(志ネットワーク活動)の10年という節目に合わせるために、書籍編集部の安藤さんが大車輪で、作業を進めていただいた。この本を、我が「人生のテーマ」実現への改めての決意とすることにより感謝の意をあらわしたい。
  (この文章は、3月に発売していただく予定の「続・志のみ持参」の前文です)

10年を記念して

2001年1月22日 上甲晃 |

 そのままサラり-マン生活を続けていたら、今年の10月31日をもって、定年退職の日を迎える。時々、サラり-マンを続けていたら、今頃、どんな生活をしているのだろうかと思ってみたりする。定年までの日数を指折り数えているかもしれない。あるいは、青息吐息でどうにかゴールにたどり着けることに、安堵しているかもしれない。

 最近、松下電器は、新しい社長の下で大胆な改革が進められようとしている。大胆な改革のときに、一番身の置き場に困るのが、定年間近の人たちだ。改革の中核になどとてもおけない。新しい組織図を書いても、そこに役割をあてはめることもできない。静かに、粛々と、お引き取り願うしかない。そんな場に立ち合うのも、なかなか厳しい人生修行である。

 私は、零細・家内・手作業経営者である。それでも、一応は、経営者。「可能な限り、現役として生きる」ことが、私のこれからの夢の一つである。そして、さらにその夢にささやかなぜいたくを加えるならば、「自分の儲けやぜいたくのためではなく、はんのわずかであっても、世の中に意味のある時間をもちたい」と願っている。

 私の生きる原理原則は、「志高く」。表現を言い換えれば、「おのれの損得を越えて、少しでも大きな損得の考えられる人間になる」こと。そして、願わくば、そうした思いを同じくする人たちと手をつないでいきたいと思う。『志ネットワーク』は、そういう私の思いを具体化した活動である。それは、「自分さえ良ければいい」、そんな狭量な考え方を克服して、「みんなが良くならなければ、自分も良くなれない」と本気で思い、「みんなが良くなることに本気になれる人」をめざす運動である。

 『志ネットワーク』活動がスタートして、ちょうど満10年目を迎える。最初の全国会議は、17人の参加者であった。神奈川県茅ヶ崎市の湘南海岸にある松下政経塾を会場にして、初めてささやかな会合をもったときには、とても「全国会議」とはおこがましくて言えなかった。だから、この10年間、「全国会義」と称して、会合を重ねてきた。

 その大会も、今年は10年目。3月10日~11日、神奈川県の箱根町芦の湖キャンプ村で、記念の大会を計画している。200人を越える会貞諸氏には可能なかぎり、参加していただきたいと思っている。そして、できれば、家族連れで。外部からの講師は招かない。会員同士が、自らの足場において、どのように志をもち、その具体化に努めてきたかを発表し合うのが、中心の内容。また、松下政経塾卒業生の衆我院議員や首長諸氏にも参加してもらい、「21世妃の日本の針路」を共に考え合いたい。

ゲンコツ

2001年1月15日 上甲晃 |

 「教科書をよこせ」。そんなデモが、ダッカめ市内で行われたと、ホテルの部屋に朝配られた新聞に大きく紹介されていた。デモの大半は、学生たちである。真剣な顔つきで、こぶしを突き上げている学生たちめ表情に私は注目した。バングラデシュでは、教科書の印刷が大幅こ遅れている。学生たちは、そのことに強く抗議しているのだ。日本では、絶対にありえないことである。国が貧しいことは、普通に学ぶ機会さえもままにならないということなのだ。

 私は、「教科書をよこせ」とデモをしている学生たちにある種の感動を覚えながら、帰国の途についた。そして、日本に着いた私を待ち構えていたのは、高知県と高松市での成人式での騒ぎだ。何の主張もなくただ騒ぐだけの日本の若者と、教科書をよこせと街頭でアッピールして歩くバングラデシュの若者たち。あまりの落差に、日本の先行きに対する不安感を深めたことは事実である。

 高松市長は、騒いだ著者たちを起訴した。そして、彼らは、大人になったとたんに、「逮捕」というきわめて厳しい洗礼を受けることになってしまったのである。私は、「逮捕」は当然だろうと思う。何をしても、黙って許される、あるいは見過ごされるというのは、決して好ましいことではない。まさに、「教育上、よろしくない」ことである。

 自己責任を、日本人はもっとしっかりと自覚しなければならない。自らが"しでかしたこと"に対しては、自ら責任を取る姿勢である。責任をどんなに厳しく問われても、それは覚悟の上でなければならない。責任の問われ方が厳しすぎると泣き言を言わなければならないのなら、初めからしてはならないのだ。私は、日本の団が、民主主義、人権などの言葉を振り回すうちに、本当の平等、平和、博愛の厳しさを忘れて、自分勝手で、やりたい放題をのさばらせるような社会になってしまった気がしてならない。

 たまたま、日本に帰って、水上 勉著の『櫻守』という作品を読んだ。桜一筋に人生を送った男たちの物語である。そのなかに、主人企である植木職人のこんな言葉があった。「いまの世に足らんものはゲンコツや。どこの親もゲンコツを忘れた。好きなようにさせるさかい、子は増長する。(略)人間というもんは、山の木と同じで、放っておくとジャングルになる。つるに巻かれてゆがんでしまう」。

 ゲンコツのない社会。暴力ではない。本当にその人の将来を思うならば、ゲンコツを振えるには、大人にもよほどの信念と勇気が必要である。今、問われているのは、大人の側の厳しさであり、信念のある生き方なのだ。

志の人々

2001年1月10日 上甲晃 |

 バングラデシュから、今朝、帰国した。毎年1回、世界でも一番貧しい国の一つであるバングラデシュの訪問を始めて、今回で5年になる。私たち夫婦は5回目の訪問になる。今回のツアーには、18人が参加した。私たち夫婦のほかにも、5回目、4回目、2回目の参加者がいた。「癖になる」と言うと表現が不適切かもしれないが、なぜか捨てておけない気持ちにさせられてしまう国である。

 「癖になる」理由は、それだけはでない。飽食、贅沢にどっぷりと浸かってしまっている自分自身を見直す、最高の機会でもあるのだ。「心の贅肉を殺ぎ落とす」、そんな表現をした人がいた。まさに、言い得て妙である。バングラデシュの田舎では、水が飲めないし、電気もこない。湯水のごとくに、水や電気を使っている私たちには、不便この上ない。しかし、不便さに耐えることによって、精神の贅肉が殺ぎ落とされていくのを実感するのである。物を湯水のごとく使う快感もあるが、簡素で質素に暮らす快感もあるのだ。

今回の訪問で、最大の出来事の一つは、貧しい人のための銀行を創設した人に会えたことである。その銀行の名前は、グラミン銀行。創設者は元大学教授ユヌスさん。この銀行は、担保をもたない貧しい人にしかお金を貸さない。しかも、回収率が98%。この融資により、一千万の人が恩恵に浴している。担保を持つ金持ちを優遇する銀行の常識を完全に変えてしまったのである。

 「銀行は自分の儲けのために仕事をするのではない。人々の役に立つために仕事をするのである」。その当たり前のことを、ユヌスさんは、成し遂げたのである」。世の中で、本当に困っているのは、貧しい人たちなのだ。本当にお金が必要なのは、貧しい人たちなのだ。
「お金のために人があるのではなく、人のためにお金がある」。ユヌスさんは、そんな当たり前を成し遂げたのである。

 もちろん、ただいたずらに貸すだけでない。その融資により、貧しい人たちが経済的自立を図れるようにする。その仕組みは実に考え抜かれた見事なものであった。
 貧しい国だからこそ、志が光るのである。志があるからこそ、困難を乗り越えていく勇気が生まれてくるのである。貧しさの中にあることを少しも嘆かず、貧しさの解決のために立ちあがる人の存在が、この国の大きな救いである。今回の訪問では、たくさんの志高い人たちしたに会えたことが、最大の成果であった。

21世紀 新年所信

2001年1月 1日 上甲晃 |

新年、あけましておめでとうございます。

 20世紀から、21世紀へと、時代は大きく転換しました。百年、あるいは千年単位で変化を捉えようとする試みが、数多く見られます。

 私は、「人と人が対決する20世紀」から、「人と神とが対決する21世紀」を予感しています。20世紀は、世界的規模で、人と人とが対立し、悲惨な殺戮を繰り返してきました。人と人が争い合う姿がなくなることはこれからもなくなることはありません。しかし、21世紀は、それにとどまらない新しい対決が起きてくるように思われてなりません。それは、人間と神との間のきびしい緊張関係です。神という表現は、あるいは不適切かもしれません。天地自然の摂理、人間を超える存在、そういうものをすべて包括して、神と呼ぶことにします。

 21世紀、人間の欲望は世界的規模で肥大していくことでしょう。今までは、ごく一部の先進諸国が享受していた豊かさを、これからは世界的規模で享受する時代の到来です。多くの人たちが貧困から救われる点においては、まことに結構であります。また、IT革命が世界的規模で進むことにより、市場競争はますます激しくなると共に、いっそう大きくなっていくことでありましょう。

 人間の欲望のかつてない肥大の時代、それが21世紀であるとすれば、 何より気になるのは、人間の欲望を「神」とも言うべき天地自然、人間の存在を超えた存在が受け入れてくれるのかどうかということであります。限りなく膨らむ人間の欲望と、「神の意思」、「天地自然の摂理」との戦い、私が、「人間と神との対決時代」という意味であります。

 環境問題、遺伝子操作の問題、これからの時代の脚会を浴びるべきすべてのテーマは、「人間と神との戦い}とも言えます。人間の欲望が肥大すればするほど、地球環境が悪くなるのです。これからの百年は、その悩ましい問いかけの時代なのであります。

 私の思いはただ一つ、「せめて自分ぐらいは」と考えて、自らの行動を律することだけです。世界全体が、「人間と神の戦い」の時代を迎えれば迎えるほど、無力が襲いかかるものです。だからこそ、「せめて自分ぐらい」という美学が光る世紀でもあると言えそうです。

人間が豊かになりたいという思いを否定することはできません。第一、日本もまた、それでここまできたのではないでしょうか。それを、ほかの国の人たちが同様に行動するのはまかりならないというのは筋違いでしょう。みんなが豊かになりつつ、神とどのように同意できるか、21世紀最大の課題ではないかと思います。あるいは、大きな失敗に終わるかもしれません。それでは、人類は滅亡する。21世紀とは、そんな時代です。


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