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縄文杉を訪ねて
2001年5月28日 上甲晃 | 個別ページ
樹齢7200年と言われる縄文杉は、巨木の林立する屋久島のなかでももっともシンボル的な存在である。やはり、一目見たい、だれでもにそんな願いをもたせる魅力がある。
ただ、縄文杉は、簡単に人にその姿を見せてくれない。パスや自家用車では、行くことのできない山奥に、静かに、悠然と、そして密かに立っているのだ。今回は、最初から、縄文杉を見に行くことは、スケジュールにしっかりと書き込まれていた。うれしいような、ちょっと不安な気持ちで縄文杉を見学するスケジュールを眺めた。
早朝3時45分、起床である。私も妻も、早く起きなければならないと思うあまり、しはしば目をきました。寝たような、寝なかったような変な気分のままに、床を離れた。集合時間の4時30分、ホテルのロビーには今回の研修参加者34人が、すでに顔をそろえていた。日頃、美客室のなかを歩く程度の運動しかしていない人が多いだけに、不安と緊張の表情がみんなの顔に表れている。バスは、4時45分に出発。車中で、手渡されたパンを食べて、腹拵えをした。5時半、登山口に到着した。すでに、登山口の駐車場には、数台の車が止まっていた。
軽い準備運動をしたあと、いよいよ出発だ。往復12キロ。ほとんどはかつて屋久島の巨木を切り出すために作られたトロッコ道の上を歩く。線路の枕木を踏んで歩いたり、線路の間に渡された板の上を歩く。この辺りは、むんむんするほどの苔と羊歯の群生地である。よほど湿気があるのかまるで蒸し風呂のなかにいるようだ。倒木のうえにも苔は、鮮やかな緑色を誇っている。「モモノケ姫の世界」と誰かが言う。平地を歩くコースは比較的負担が軽い。この花は何、この木は何と、余裕の雰囲気がまだまだ健在だ。「日頃の行いが悪いから、雨が降らない」と冗談が出るのも、余裕のあらわれだ。月に35日雨が降る屋久島にめずらしく雨が降らない。
余裕の鼻歌が止まったのは、トロッコ道から山道に入ったとたんだ。極端な高低差を一気に登るのである。もう、誰もしやべらない。みんなの苦しげに吐く息づかいだけが、静寂の森のなかに聞こえる。平坦な地が少ないので、とにかくこえる。妻は、気持ちは前へ、リュックは後へといった具合にバランスを何回も崩して、よろける。この辺りから、樹齢数千年の屋久杉が姿を現す。やはり他を圧する風格をそなえている。決まって、わたしたちの一行は、立ち止まって、驚嘆の声を上げた。手付かずの森は神秘の世界である。かつて切り倒された株のうえに、種子が落ち、そこから新しく木が育っている。息を飲むばかりだ。
幹の下に人間が何人も入れるような空間をもつウイルソン株は江戸時代に切り倒されて、今は幹の一部と根を残すだけ。しかし、その大きさはけたはずれに大きい。幹の下の株のなかは、10人は入れる広さがある。そこから空を見上げると、不思議な景色が広がる。
ウイルソン株から縄文杉に向かう行程は、いっそう厳しい。私は裂目が入ったかと思うほどの激痛を膝に感じた。それでも、歯を食いしばり、誰にも気が付かれないように、痛みを堪えて登り続けた。
もうだめか、もう止めようか、何度思ったことだろう。しかし、ここまできて止めるわけにはいかない。「顔で笑って、膝で泣く」、そんな冗談を言いながら、痛みに堪え続けた。私と妻を除く他のメンバーは、さすがに若い。苦しさを訴えながらも、どんどんと前へ進む。
やがて、縄文杉が、目の前に表れた。それと同時に、雨が降り始めた。縄文杉は、他を圧する太さと大きさを以て、森に君臨している。まるで、孤独に生きる獅子のように、どっかりと、だけど何となく淋しそうに立っていた。今、縄文杉に直接手を触れることは許されない。人間が手を触れるために根を踏むことが、この老いた巨木をいじめることになるそうだ。お立ち台と呼ばれる舞台があって、そこから縄文杉と向かい合える。
私は、足の痛みを忘れて、縄文杉と対面した。なにか少し哀しげ、そんな風にも見えた。7200年の樹齢は、必ずしも正確ではないとも言われる。2000~3000年程度の樹齢説も有力である。しかし、ここではそんなことはどうでもよかった。人間の命の短さをはるかに凌駕している時間、縄文杉はこの場所で風雪に耐えてきたのだ。
屋久島では、1000年を越える樹齢のものを屋久杉と呼び、それ以下の自生のものは小杉、人間が植えた杉は地杉と呼び分けている。そもそもどうして屋久島の杉は長寿なのか。一つには、花崗岩の上で育つという苛酷な厳しい条件があるからだ。ふわふわの豊かな腐葉土のうえに植えられたら成長は早い。岩のうえにぐっと根をはっていくために、とにかく成長が遅い。その分、強さが秘められて、寿命が長くなる。また、岩のうえに根を張るので、十分な栄養を摂取できない。油分を貯えながら、粗食に堪えているのだ。「厳しい環境と粗食」が長寿の秘訣なのだ。「人間に似ているな」と、誰言うともなく、ささやき合った。
縄文杉と向かい合うお立ち台で、昼食のおにぎりをほうばった。本当に久しぶりに、おにぎりのおいしさが実感できた。雨が容赦なく、降り注いでくる。
立ち姿、歩き姿に感動
2001年5月11日 上甲晃 | 個別ページ
「青年塾の入塾式に参加して、私がいちばん感動したことは、四期生の安田智子さんの歩き姿、立ち姿でした。先輩諸氏が、凛とした姿と何度も強調されていましたが、私は安田智子さんの姿のなかに、それを見付けることができました。私もまた、たくさんのことはできませんが、落ちているゴミを拾う、背筋を伸ばして人の話を聞くことを心がけます」、そんな葉書が、入塾式を終えたばかりの第5期生である平松薫君からきた。
平松君の指摘を待つまでもなく、安田智子さんは、めりはりのきいた行動ができることにおいては、青年塾生のなかでも出色である。「はい」と返事をする、そんな当たり前のことが実はなかなかできない。安由智子さんは、どんな場合でも、「はい」と返事をする。他の人たちがほとんど返事をしないから、安田さんの返事の声は一層目立つ。
立ち居振る舞いも、いつもめりはりがきいている。要するに、凛とした雰囲気で立ち、歩き、座ることができる人なのである。その姿勢を見ていて、心に感じる人が出てくることが、とても興味深かった。先輩の姿に、後輩が学ぶ。すばらしい教育のあり方だ。「精神風土」というものは、このようにして育まれていくものだと、私もおおいに学ぶところがあった。
私たちは、しばしば、ロで言って聞かせよう、口で言って人を動かそうとする。私も同じだ。「凛としろ」と、ロを酸っばくして言う。そして、「何回言わせるのだ」と叱責する。その繰り返しであったことを反省させられる。ロで言うことも必要ではあるが、口で言うだけでは、人の心を動かすことはできないのである。口で言い続けていると、相手は、「うるさいな。何回も同じことを言って、しつこい」と、ロに出さないまでも、露骨に顔に表す。
一言も言葉を発するわけではないが、歩いている姿で、人の心を動かすことができるのである。そのことに注目したい。さっそうとしている、りりしい。それは、自分から言うことではなく、相手が心に感じることなのである。まず、もって範を示す。しかも、人にやらせるために、意識して範を示すのではない。そういう範の示し方は、全身から嫌味がふんぷんとかおる。人の目を意識して行なうのではなく、自分自身の姿勢として、自分自身の美学として、自分のために行なうことなのである。
私の一つの理想。それは、私が何も言わなくても、先輩諸氏の立ち居振る舞いを見ていて、後輩が、自然のうちにそれをならうことだ。一言も指示・命令はないけれども、『青年塾』に学ぶうちに、自然と、他人を思いやるような振る舞いができるようになる、そんな雰囲気力を作りたい。
高い精神から、ほとばしる生命力
2001年5月 4日 上甲晃 | 個別ページ
―― 悠々自適の老後は、過去の話
「20年から30年後、日本の将来はこのままでは大変なことになる。食糧飢饉、食べるものがない。そんな危機が近い。飽食の時代にそんな馬鹿なことあるはずがないとみんな思っている。食糧なんか足りなくなればどこか外国から買えばいいではないか。そんな考え方が、日本にはびこっている」。とても91歳の人とは思えない声が、部屋全体に響き渡る。少し風を入れようとして開けられた戸の隙間から、絶叫に近い大きな声が外にまで届く。外を歩く人がいたら、きっとその大きな声に驚いて、家の中をのぞき見ることであろう。
その人は、小谷純一さん。紀ノ川のそばにある小豆(あず)島で、今も農業を営んでいる。京都大学農学部で農業経済を専攻した。教授の勧める役人への道を断り、農業者として一筋に歩いてきた。「職業に貴賎あり、農業こそ尊い仕事である」と信じている。その尊い農業の仕事をする人が少なくなっていることに危機感を抱いて、自ら、三重県に愛農高校を設立した。以来、36年が経過する。
今も、「本当の独立国家とは、食料の自給できる国である」との確信のもと、「国民が農業自給の必要性に目覚めて、立ち上がること」を説き続けているのだ。私が主宰する『青年塾』の有志が、小谷純一さんを訪ねて憂国、とりわけ憂農の思いに耳を傾けた。次代を担う青年たちは、91歳にして、「使命を果たすために、あと10年は生きなければならない」と言い切る強い言葉に、心をとらえられたようだ。
私は、小谷純一さんのすぐ斜め前に座っていた。4時間、とにかく話はとどまることなく続いた。手元のお茶にも、コーヒーにも手を出さない。声は、終始、明瞭、そして大きい。人は、果たすべき使命をもつと、こんなにも生命のエネルギーがほとばしるものかと驚くばかりであった。「骨と皮だけの身になっても、私の霊は熱く燃えているのです」、そんな言葉が極付けの迫力をもって私たちを包み込んだ。
小谷純一さんの目は、激しい気持ちの高ぶりから、涙ぐんで見えることもしばしばあった。その目を見ているうちに、ふと、一つの思い出がよみがえった。松下幸之助が松下政経塾を設立したとき、月に一回は、一晩泊りで塾生を指導した。そんなある日、朝起きてきた塾長の目が赤かった。「どうされたのですか」と心配して尋ねた塾生に、「日本の将来のことを考えていると、心配で心配で、目が冴えてとうとう眠れなかった」と松下幸之助は答えた。そのエピソードは、今も、塾の卒業生の間では語りぐさになっている。そのときの松下幸之助もまた、90に近い年令であった。
生きるエネルギーは、体力や年令ではなく、「生命の使い道」、まさに「使命観」にあることを強烈に教えられる思いがする。体をいたわることも長寿の必要条件であるが、それ以上に、「高い使命観」をいかにそなえていくかが長寿の必須条件であるのだ。
"年金をもらって悠々自適"、そんな老後は、もはや過去の話になろうとしているようだ。すなわち、老後を余生として楽しむ時代ではなくなっているのである。老後を"余生"と考えるのは、定年退職するまでを人生の本番とすることの裏返しである。第一、悠々と過ごすほど、十分な年金がもらえない時代は目前だ。昭和40年、松下電器に入社した私の同期生は、今年、次々に定年退職を迎えている。長いサラリーマン生活から解放される安堵感の裏に、将来の生活不安を共通して感じているようだ。
私は、"余生なき時代"、"人生、生涯現役の時代"がきたと、内心、ほくそ笑んでいる。「死ぬまで働いてください。それでなければとても皆様を養い切れません」、これが日本の近未来の現実なのである。年金事情はますます厳しくなる。とても、大勢の老人に悠々自適して、趣味に生きるような老後を保障できない現状は、誰の目にも明らかである。
ならば、開き直って、生涯現役の老後をひらいてみようではないか。私は、そんなやせ我慢も交えた決意で、54歳6ヵ月で、松下電器を退職し独立稼業に入った。妻と二人の零細家内経営であるが、誰はばかることなく、生涯現役であり続けられる。細々とではあっても、働いているかぎりは、収入もある。社会との生々しい接点がある分、老い込んでおれない。
中でも私が決意したことが一つある。「自分のため以上に、何か社会のためになる使命をかかげて歩んでみる」ことだ。自分のため、自分の家族のためには、もう十分に働いてきた。そして、子供も独立した今、それほど大きな出費の予定もない。「世のため、人のため」に生きる条件は十分に揃った。まさに、使命に生きる最適の時期であることに思いが至った。
『青年塾』を私は、今から4年前に設立した。次代を生きる青年たちに「高い精神、志」を植え付けることを目的として立ち上げた。今、全国に5つのクラスがある。塾生の数も、今年の第5期生は77人。すでに、過去の5年間で、350人の青年たちと出会うことができた。松下幸之助が設立した財団法人松下政経塾で現場の責任者として働いてきた私の過去の経験がすっかりそのまま生きるのがうれしい。
90歳を越えた老人の熱い心に触れて、私は、改めて「使命」、「志」こそが生命のエネルギーの原動力、源であると教えられた。そして、「使命」や「志」に生きる人生に踏み切るのに、定年退職は格好のチャンスである。余生、余った人生など存在しない。「今日までのすべての経験は、明日からの人生の本番のために準備されてきた」のだ。
