志ネットワーク 青年塾:「志の高い日本」は、「志の高い日本人」によってこそ実現するとの思いに立ち、志ネットワーク活動を展開。 主宰:上甲晃

人間業の怖さを知る

2001年12月31日 上甲晃 |

 孫の世話に追われていると、例年のように、除夜の鐘を聞きながら、行く年来る年に思いをはせることはむずかしい。まして、天下を語るなどといった悠揚迫らない気分の余裕がない。

 私の年末の掃除は、一応の計画がある。玄関から始まり、外回り、二階、1階と進む。そして仕上げは、玄関の土間の拭き掃除とトイレ掃除である。家全体を掃除するのに、1週間はかけている。だから、掃除し終わったあとには、自分の心身を洗い上げたような充足感が広がる。今日大晦日は、土間の掃除とトイレ掃除である。孫が二人とも、手伝うと聞かない。手伝うどころか、掃除を済ませた後から土足で歩き回るから、掃除にならない。しかも、ちょっと目を離した隙に、1歳の孫は、バケツの濡れた雑巾をそのまま抱えている。水の滴り落ちる雑巾を取り上げたら、勢い余って、水に濡れた土間にそのまま座り込む。

 トイレ掃除も、大騒動である。便器をスポンジで洗う私の様子を、二人が便器に手をかけながら見ている。子供はすぐに真似をしたがるから、掃除が進まない。今年ばかりは、早々に切り上げざるを得ない。何となく、全身洗い上げた快感を、今年は感じることができなかった。

 しかし、考えてみれば、『青年塾』の大半の諸君は、こんな日々を送っているのだ。ついつい空をさまようような天下国家論を語りたくなる私に、天は「少しは現実に根ざすように」と孫の世話をする機会を与えてくれたのかもしれない。

 孫を寝かせるために、妻が寝室に行ったわずかな時間に、デイリーメッセージの本年の最終版を制作している。「激動」と言われて久しい時代である。毎年のように、「激動」という言葉が枕詞になる時代である。なぜ、時代は激動するようになったのか、そんなことを最近考える。「平穏」が、人間社会から遠ざかりつつあるのだ。

 一つには、グローバル化が進みつつあることが、そのまま、「激動」の原因になっている。地球が一つになっていくにつれて、多くの出来事は即時に地球の裏側まで影響を与える。一つの事件が地球全体を震撼させるようになったのだ。また、狂牛病のように、一つの国で起きたことが、たちまち世界的規模に拡大していく危険性も大きくなった。

  もう一つ、「激動」が当たり前になった原因は、人間業の怖さだ。科学技術を含めて、進歩への盲信がさまざまな危険を次々に引き起こしている。来年もまた、「激動」は間違いない。「激動」が、時代潮流だ。

生地をつくる

2001年12月23日 上甲晃 |

 「この文章、どこが取り立てて悪いというわけではないのです。ただちょっと気に食わないのです。どうしてかと尋ねられても、明確に答えられません。あえて言えば、品がないのです」。ある人が、自分のことを紹介された文章に目を通しながら、不満をもらした。

 どこがどう悪いのか、はっきり指摘してもらわないことには、直しようがないと普通は考える。「品がない」といった抽象的な表現では、対応しようがない。しかし、私には、そのニュアンスが読み取れるのである。「品がない文章」というものもあるのだ。書いてある事実関係は何も間違っていない。文章も、どこが足りないというわけでもない。しかし、行間に「品の悪さ」がにじみ出るのだ。

 これはもはや、文章の技術の問題ではない。書いている人の人格そのものの問題なのである。だから、書いている人の品が良くならないと、文章に品が出てこないのである。これは文章だけのことではない。すべてのことに当てはまる。要するに、技術においてどんなにレベルの高いものを習得しても、本人の人格が高まらない限りは、作品に品格が表れてこないのである。

 私の次男が学んだ自由学園は、「人間の生地をつくる」ことを教育の根本の目的にすえている。私はすばらしい教育方針であると、心から共鳴し、共感してきた。知識も技術も、しょせんは道具にしか過ぎない。どんなにすばらしい道具をそろえても、使う人の品格・品性が低いと、やはりレベルの低いものしか生まれてこないのだ。使う人の品格・品性、すなわち人格を、「人間の生地」と呼んでいる。

 確かに、どんなにすばらしい仕立てをしても、生地が劣悪であれば、仕立てが生きない。仕立てとは、技術であり、知識である。そして、生地とは、その人の人柄そのもの。

 文章の技術は、練習により向上させることができる。しかし、文章そのものからにじみ出る「品格・品性」は、書く人の人格が良くならない限りは良くならない。

 昨今、技術、資格が万能のようにまかり通る時代になった。「資格さえあれば」と、資格の習得に目の色を変えている人も多い。もちろん、資格の習得を否定するものではない。私が言いたいのは、同時に、自分自身の人間としての値打ちを上げる努力、「生地を良くする」ことも欠かせないことを承知しておかなければならないということだ。

こういうときだからこそ

2001年12月16日 上甲晃 |

 「うちは、経営に余裕があるから、賃上げしたり、人の採用をしたり、雇用の安定や安心を図っているのではないのです。こういう厳しいときだからこそ、何を大事にしなければならないかを考えて、やるべきこととは断固としてやる、それだけのことです」と、白元の鎌田社長は言う。

 例えば、白元さんは、毎年、新しい社員の採用は継続して行っている。人員削減、新規採用の中止が、まるで経営改革の最先端の取り組みのように取りざたされている昨今にあっては、まことに珍しい会社と言わなければなるまい。また、鎌田社長が言うところの゛贅肉経営゛も、今どき、耳を疑うような姿勢である。「企業はどんなに苦しいときであっても、目一杯の体制ではいけない。贅肉とも言うべき余力を持たなければならない」、そんな思いを゛贅肉経営゛という独特の表現にして、鎌田社長は訴える。贅肉の殺ぎ落としに必死になっている企業の経営者からすると、今どきなんと恵まれた会社かと思うことだろう。

 鎌田社長は、それを言下に否定しているのだ。「余裕があるからではない、必要だから」と。私はその姿勢に共鳴共感したのである。どんなに苦しいときでも、社員の生活の安定を必死で図る。それは、「社員の生活の安定と安心を、会社は本気で考えている」ことを示すためなのだ。経営状況が厳しくなると、とたんに社員の昇給を止めたり、賞与のカットをするならば、「社員の生活の安定と安心を図ると言ってきたが、口先だけではないか」と、社員は会社の本音を疑う。

 苦しいときは、本音を試されるときであり、本気さを問われるときとも言える。例えば、文化事業の支援。かつてバブルのときには、日本中の会社が、競い合うように文化事業に乗り出し、さまざまな支援活動にも力を入れた。そのときは、日本の企業が、単なる儲け主義を脱皮して、文化に対する深い理解をする円熟した存在に成長したような雰囲気があふれていた。ところが今どき、どうか。慌てて止めることばかり考えている。要するに、あれは、お金が有り余っていたときの、気まぐれのようなものでしかなかったと疑われても仕方のない現状である。

 経済情勢が極めて厳しい今日だからこそ、『本気を証明』する好機である。こんな苦しいときにも、社員の生活の安定・安心を真剣に考えている会社があるとすれば、社員はきっと会社を一層信頼することであろう。厳しいときだからこそ、先のことを考える。厳しいときだからこそ、人を育てることに力を入れる。何に本気かを示す、今がチャンスだ。

約束

2001年12月 2日 上甲晃 |

 北海道クラスは、一人でも塾生がいる限りは存続する」、そんな約束をして、『青年塾』の北海道クラスは3年前にスタートした。極端な言い方ではあるが、私の固い決意を述べたものである。

 昨日からスタートした、『青年塾』の北海道クラスは、初日、3人の参加であった。もともと、5人のクラスであるから、半分以上の塾生が参加してくれていることになる。しかし、3人はいかにもさびしい。この講座のために、私と妻と、妻の妹の3人が、事務局として参加している。夕食の時間には、6人でテーブルについた。アットホーム、そんな雰囲気がある。本来は、アルコール抜きで食事をして、それから近況報告をする段取りになっている。3人では、それもかなわない。ビールでも飲みながら、ゆっくりと食事をするかと、方向転換をした。

 これだけの少人数では、もちろん、赤字の運営である。私たち3人の参加は、手弁当である。自分で費用を支払って、講座に参加した。「一人でもやる」と大見得を切った以上は、参加者に費用を負担させるのは無理である。私は、本当は、『青年塾』の運営については、可能な限り、手弁当でありたいと願っている。ただ、他に収入源の限られている私としては、すべてを手弁当にする余裕はない。だから、最低限の費用については、負担をお願いせざるを得ない。ただ、北海道クラスは、人数が少なすぎるから、それさえもお願いできない。今のところは、講演料などの収入をもって、北海道へ出かける私たちの費用は、自前の負担にしている。要するに、『青年塾』は、私の儲け仕事ではなく、志の仕事であるということである。

 「一人でも応募者があれば、北海道クラスは存続する」。私がそんな約束をしたことを、誰も覚えていないであろう。誰も覚えていないから、適当な時期に止めても良いだろうというわけにはいかない。採算が合わないからというのも、「志の仕事としてやる」と宣言した私としては、理由にならない。まことに、志というものは、厄介で、しんどいことだと思う人も多いことであろう。しかし、志とは、厄介で、しんどいところに値打ちがあるのだ。これは、「生きる美学」なのである。

 誰も覚えていなかったとしても、私自身が覚えているから、止められない。だから、やる。今、第6期生の応募をしている。今年は、第二番目に願書が送られてきたのが、北海道クラスへの応募者であった。これで、北海道クラスの来年の存続は決まったわけだ。


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