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松下幸之助の知名度
2003年11月27日 上甲晃 | 個別ページ
松下幸之助の生誕日である。松下政経塾出身の卒業生諸君は、この日を覚えているのだろうかと、ふと思う。松下幸之助が亡くなったのは、平成元年四月二十七日である。まるで、昭和天皇の後を追うかのように、崩御の直後に、松下幸之助は九十四歳の生涯を閉じた。ちなみに美空ひばりが亡くなったのも、この年である。昭和の終わりを告げるかのように、昭和の代表的な人物が相次いで亡くなったのである。もし、松下幸之助が今も生きておれば、百九歳。「百二十歳まで生きるのだ」と口癖のように言っていた年齢に近づいている。
昨日、名古屋市内で、中部生産性本部の主催する研修会に出かけた。参加者は、二十七名。受講者の大半は、愛知県か岐阜県の企業から派遣された若い人たちである。中には、髪の毛をすっかりと染め抜いた若い人も混じっている。
私は心配になって。話を始める前に聞いてみた。「みなさんの中で、松下幸之助という人をいささかでも知っている人、手を挙げてくれませんか?」との質問をぶつけたのである。数こそ数えなかったものの、「知っている」と答えた人が、三分の二だ。あとの三分の一は、「そんな人知らない」と言う。とりわけ、髪の毛を染め抜いたような若い人たちは、「知らない」と答えた方にほとんどが入っている。
私も瞬間、戸惑った。私の話から松下幸之助を抜いたら、後に何が残るのたろうと思うと、話がとどこおる。話は、まず松下幸之助という人を紹介するところから始めなければならない。「松下幸之助は、小学校中退して働き始め、ついには現在の松下電器をつくった人です」。そんな説明をしながら、これではみんなぴんとこないだろうなと反省した。しかし、「経営の神様、商売の神様と呼ばれていました」と説明しても、「国民の間で大変に人気のある経営者でした」と説明しても、今ひとつ迫力がない。松下幸之助の名前さえ知らない人に向かって話す苦労を途端から味わった。
それだけではない。「松下政経塾という名前を知っている人」と質問を続けると、今度は、半分ほどしか手が挙がらない。私の話から、松下幸之助と松下政経塾を除いたら、後は壇を下りるしかないようだ。そこでいささかやけくそ気味に、「河合塾を知っている人」と聞いてみた。こちらの質問に対しては、全員が知っていると手を挙げた。
松下幸之助も没後十五年。どんどん忘却のかなたに消えていきつつある。それだけに、松下幸之助の志を忘れてはならないのだ。
運動会
2003年11月18日 上甲晃 | 個別ページ
こんな運動会は初めてである。
運動会の会場になったのは、休校になった世屋小学校の体育館。床にぺたりと座り込んでいるのは、ほとんどがお年寄り。と言っても、老人会の運動会ではない。世屋地区としては、年間で一番大きな行事であるこの運動会に集まったのは、世屋地区の住民である。「世屋地区住民の半分ぐらいの人が集まっています」と、公民館長の橋本智明さんが説明してくれる。今までは、五つの地区の集落が、地区別に競争をしていた。今年は、競走するための選手の数が少ないために、紅白二つのチーム分けになってしまった。
ちなみに住民の数を集落別に聞いてみた。畑が二十八人、木子が十二人、下世屋が七十人、上世屋が二十二人、松尾が八人である。これではとても集落別対抗などは無理だ。
この日の競技は、十二もある。風船割から始まり、パン食い、ざる引き、玉入れ、魚釣り、樽ころがしなど、お年寄りに配慮したものばかりだ。競技別に出場する人を選ぶのが大変だ。腰の曲がった人や歩くこともおぼつかない人が、駆り出される。無理やり競技に駆り出されて、「無理するなよ」と声がかかるのも面白い。ここではあまり、「がんばれ」の声援がない。あまりがんばり過ぎると、何か事故が起きても困る。
「この地区では、ゲートボールをする年寄りがいない」と橋本さんは言う。農業を営んでいる人がほとんどだから、時間さえあれば、ついつい畑に出てしまう。体が起き上がれる間は、畑で働くこと。そんな習慣が身に染み付いているから、ゲートボールでもしながら、ゆったりと過ごすことを知らないのである。勤勉な農村のお年寄りらしい。
この運動会に、『青年塾』の塾生が特別参加した。もちろん、地元の熱い招請を受けてのことである。お年寄り中に若い人たちがたくさん混じったので、「いつもの運動会と雰囲気が変わった」と、地元の人たちに大いに喜ばれた。地元青年の綱引き大会は、みごとに『青年塾』の負け。地元の人たちは、とても青年とは思えない人たちが主力であった。それでも、農作業で鍛えた体力は、若い者には負けんとばかりの力強いものであった。
この地区の小学生の数は、わずかに三人。そのために、子供の競技ともなると、三人は休む間がない。少子高齢化、そんな言葉が頭の中をよぎった。過疎化した地域の特別な風景と思われているものが、やがて日本全国で当たり前になる日は、そんなに遠くないのだ。
中国人の目
2003年11月11日 上甲晃 | 個別ページ
東京大学客員教授で、中国社会科学院日本研究所教授である金さんの話が、とにかく面白かった。「昨年、中国で話を聞いた時と比べると、ずいぶん丸く穏やかになられましたね」と言う人がいるほど、北京で開催した『中国理解講座』の懇親会で会った時と、今回東京で話を聞くのとは様子が違う。北京では、究めて急進的な意見の持ち主に思えたが、今回は、とにかく話が面白い。それでいて、内容は明快で、興味津々。
ある『青年塾』の塾生は、「東京で話す時は、大胆な内容になりますか」と質問した。金さんは、「そんなことはありません」と即座に否定した。「中国は相対的に政治が小さくなっていますから、北京でも自由に物が言えるようになりました」。それほど、大胆な発言も多かったのである。
金さんの語録を拾ってみよう。
「中国の外交には基準はひとつしかない。それは、経済発展のためになるかどうかだけ。それ以外の基準など何もありません。だから、見方によっては実にわかりやすい」。
「国民に先行きに対する自信がないと、市場経済は回らない。日本人の七割は、先行きを暗いと言う。中国人の九十パーセントは、先行きが明るいと言う。日本がだめになり、中国が良くなるのは当たり前です」。
「経済発展のために中国政府が何をしたか。何もしていない。したことと言えば、開放、すなわち許すことだけです。改革とは、開放すること。それを中国語では、゛放権譲利゛と言います」。
「社会は、経済成長期になると、金持ちになりやすい。だから、これからは、アメリカンドリームに代わって、チャイニーズドリームの時代になる。すでに海外に出ている野心的な中国人や優秀な中国人が、中国に続々と帰ってきている」。
「中国人はみんな、お金儲けのことしか考えていない。それを中国語では、゛向前看゛をもじって、゛向銭看゛と言います。もはやお金儲けについては、抑制が効きません。天安門事件の時の闘士たちも、今やお金儲けばかり。あの頃は幼稚だったと、笑い飛ばしています」。
「中国人にとって、家族以外は他人です。他人のことなど誰も構っていない。自分だけ、自分の家族だけ良ければいいのです」。
「中国脅威論、中国崩壊論など、色々あるけれども、みんな一つの面を指摘しているだけ。それぞれ間違いです。中国はもっと多面的で、複雑で色々な顔を持っています」。
最後に、「衆議院選挙を見ていても、日本は外交が見えない」とずはり。
中国最新事情
2003年11月10日 上甲晃 | 個別ページ
「中国には、゛トラに乗って走る゛という諺があります。漢字で書くと、『騎虎難下』と書きます。どういう意味か。トラに乗って走ると、トラから下りられない。万一下りてしまうと、トラに食べられてしまう。だから、走り続ける以外に方法はない。そんな意味です。現在の中国は、まさに、゛トラに乗って走る゛の状態にあります。中国の乗っているトラとは何か。それは、経済発展です。もはや経済発展を止めるわけにはしかない。経済発展というトラを止めてしまうと、食べられてしまいます」。中国の最新事情について、いきなりから、わかりやすく、しかもきわめて面白く話してくれたのは、東京大学客員教授で、中国社会科学院主任教授の金 煕徳さん。来年の三月まで日本に滞在すると聞いて、私の主宰している『日本の進路研究会』の講師を依頼した。
「環境問題が深刻化したから、少し経済発展を抑えようとの発想は、中国にはありません。経済発展をより進めるためには、環境問題もなおざりに出来ない、それが中国の考え方です」。金さんは、答え方が明快だ。「教育競争は激しすぎる。お金儲けするために、ますますエスカレートしている。だから、ぼつぼつ抑制しようとの動きもあります。日曜日は勉強を止めよう。みんなはそのように考えています。ただし、自分の子供を除いて。それが中国人です」。これまたわかりやすく、納得だ。
その金さんによれば、日本は社会主義国、中国は資本主義国だと言う。一般には、日本が資本主義国で、中国が社会主義国のはずなのに。「もはや、中国はイデオロギーなどで動いていない。中国は、お金儲けだけで動いている」。言われてみると、その通りだ。会場は、爆笑の連続だ。金さんの話は、妙に納得性があるから不思議だ。
こんな話も納得だ。「中国は十三億人がいる。これだけの巨大人口の国が、経済発展に挑戦するなど、世界ではじめての試みです。余りにも巨大なために、多様性が一つの大きな特徴になっていることを理解していただかなければなりません。超先進国、中進国、途上国、最貧国、その四つの顔が入れ混じっている。それが中国です。だから、最貧国には援助を必要とする。日本人は、有人ロケットを打ち上げる国に、どうしてODAが必要かと言う。それは、中国の多様性を理解していないから出てくる意見である。有人ロケットを打ち上げる一方では、外国からの援助がなければ生きていけない地域、人々もたくさんいる。それが中国なのです」。面白い話は続く。「中国人は、会社のものを家に持って帰る。日本人は、家のものを会社に持ってくる。それが中国と日本の違いです」。
士風頽廃
2003年11月 1日 上甲晃 | 個別ページ
『青年塾』山形・庄内講座。かつて、志高く生きた庄内藩士たちの生きざまに学ぶことが講座の目的の一つである。庄内藩は、日本海岸に面した山形県の鶴岡市や酒田市一帯に広がっていた。元和八年、千六百二十二年、徳川四天王の一人である酒井忠次を祖として、明治時代に至るまで酒井氏がこの藩を治めていたのである。
庄内藩は、幕末、戊辰戦争に敗れた。その戦いぶりの勇ましさは定評があり、また実際に強かった。東北の雄藩がつぎづきに負けていく中で、最後まで闘ったのは庄内藩である。また、最後の最後まで、敵に自らの領地内に足を踏み入れさせなかったことも、今に語り継がれる強さの現れであった。しかし、庄内藩は、ただ単に戦いに強かっただけではない。その礼節の厚さもまた、つとに名高い。
例えば、庄内藩士たちは、どこの地においても、略奪行為をしなかった。当時、戦いの場において、略奪は日常茶飯であった。罪のない一般の人たちを襲い、食糧などを無理やり奪い取ることは、戦場の常識でさえあった。ところが、庄内藩士たちは、決して略奪をしなかった。そのために、庄内藩士たちは、敵地においても、「庄内さん」と尊敬の心を込めて呼ばれていたということだから、確かに立派だ。
また、敵側の死者を手厚く葬ったことでも有名である。敵側の死者をお寺に運び、自らお金を払って、供養をしてもらい、霊を慰めたとのことである。そのために、敵であるはずの秋田藩からは、庄内藩に対して、食糧の差し入れさえあった。私はそんなエピソードの一つ一つを聞きながら、改めて、庄内藩士たちの志の高さを学ぶ気がした。
庄内藩士達がどうしてそんなに志が高かったか、私はそこに一番関心をもった。致道博物館の館長であり、酒井家の次の当主である酒井忠久氏は、次のように答えてくれた。
「九代目の藩主であった酒井忠徳の時代、藩の財政の困窮と士風の頽廃というきわめて困難な状況に直面しました。そこで、忠徳は、この困難を打開していくためには、教育しかないと判断をして、『致道館』と名づけて藩校を創設しました。一番遠回りではあるが、人を育てることこそ国を立て直す根本であると考えたのです」。
どの時代も、どの国でも、またどの組織でも、人を育てることこそ、すべての基本であり、すべての出発点なのである。人間が仕事をする限り、人間を良くすること以外に、仕事を良くする道はないのである。ところが、私たちは、成果を急ぐあまり、時間のかかることに取り組めないのだ。
