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玉置神社
2004年9月26日 上甲晃 | 個別ページ
「この場所は、標高千メートルあります。周囲にはおよそ二千本の杉が、取り囲んでいます。樹齢は二千年から、三千年。この辺りは、とにかく雨が多く、湿度が高い。そこにもってきて、冬の寒さが実に厳しい。氷点下十度以下に気温が下がり、雪も降ります。私のように心臓に持病を持つ者にとっては、まことに具合が悪い。だから、冬になると、神社は若い人達に任せて、私は、さっさと下に降ります。ここで心臓の発作が起きてもどうしようもありませんからね」。そんな話から切り出したのは、熊野奥宮と呼ばれている玉置神社の老宮司さん。正式参拝利の後、鼻をぐすぐすと鳴らしている老宮司さんに、「五分だけでも、この神社の由来を話していただけませんか」とお願いしたことに対して、「話し始めると、いくらでもお話できるのですが」と前置きしての話である。
それにしても、熊野信仰の中心とも言うべき熊野本宮退社の神域で研修してきた私達は、この玉置神社にすっかりと魅せられたのである。思わず、「これが熊野だ」、「これこそ世界遺産だ」の声が、誰からともなく聞こえてくる。それほど、実は、熊野本宮大社の雰囲気に、私はもちろん、『青年塾』の諸君も失望していたのだ。
俗化した神域は、心に響くものがない。熊野本宮大社も、昨年訪問した那智大社も、私には、霊的空間と言うよりも、観光的空間にしか見えなかった。だから、古代から多くの人たちの魂に響いてきた霊的な力を、何も感じない。まして、陳腐で、低レベルのサービスしか提供できない商人が、軒を並べて、私を失望させた。それは、とても世界遺産と言うほどの魅力がなかったのである。
深山幽谷、うっそうとして古木が茂り、霧が幻のように現れたり消えたりする。山々の間を這うように白雲がうねり、水墨画を見るような風情。それこそが、私のイメージにある熊野であった。ところが、熊野詣での中心となるスポットは、そんなイメージとはほど遠いものであった。それだけに、玉置神社に参拝して、「本当の熊野を見つけた」ように思った。
玉置神社の歴史は古い。千数百年前に開かれた。かつて、吉野から熊野にかけてそびえる千メートル以上の高さの山々を飛ぶようにして歩いて修行した修験道の道筋に、玉置神社はある。「昔から、修験道の宿坊でした」とのこと。「ここには神々が宿ります」と言った宮司の言葉にみんなが肯いた。熊野に行くなら、玉置神社だ。神が健在だ。
熊野詣
2004年9月25日 上甲晃 | 個別ページ
和歌山、奈良、三重の三つの県にまたがる熊野が、世界遺産に登録されたのは、今年の四月である。私がいつも利用する南海電車は、車内のポスターはもとより、ターミナルや駅などにも、「世界遺産に登録」を大きく売り出している。また、熊野に関係する美術展なども、開催されている。今、ちょっとした゛熊野ブーム゛である。
この三日間、熊野の中心とも言える熊野本宮大社の入り口にある瑞鳳殿を借りて、『青年塾』関西クラスの研修を行った。大社へ上がる階段のすぐそばにある建物は、もともと、昭和四十二年に篤志家から大社に寄付されたものである。現状は、かなり老朽化しているし、何よりも掃除を始めとする手入れが行き届いていない。お借りしながら言うのもはばかられるが、「いささか居心地の悪い建物」になっている。ただ、熊野本宮大社の境内にあるから、神域の雰囲気を味わうことができるのはありがたい。
朝六時、まず、かつて本宮大社が建っていた場所まで散歩した。その地を、「大斎原」と呼ぶ。熊野川の中洲にある。古来、盛んであった熊野詣は、この大斎原にある神殿をめざしたのである。明治二十二年、今から百年少々前、熊野川の氾濫で起きた大洪水が、神殿を襲った。辛くも流失を逃れた社殿は、そのまま現在の場所に移築された。だから、中州にはごく最近建立された大鳥居が建つものの、あとは平地である。
私は、この中州の雰囲気が気に入った。いかにも、神々の宿る地を体感させる雰囲気に満ちているのだ。大斎原は、熊野川の川原とつながっている。川の向こうは、熊野の山々がそびえる。辺りを見回すと、すべて山、山、山。その山々に白い雲が低くかかっている様子も、神の住まう地を髣髴とさせる。日本一の高さを誇る鳥居と、手水だけがあるのもいい。
かつての社殿の跡には、二つの石の祠が、頑丈に鍵をかけられて、立っている。それ以外は、緑の芝生である。石の祠が何かは、どこにも、何の説明もないので分からない。祠の横にも、後ろにも、文字は何もない。私は、その素性を確かめるのをあきらめて、静かに石の祠に向かって拍手を打った。後で分かったことだが、石の祠には、流失された社殿の神々が祀(まつら)れている。
古来、゛ありの熊野詣゛と呼ばれ、都にいる天皇や上皇、皇族、貴族はもちろん、庶民が蟻(あり)のように行列をなして参った地に立ち、私は、先人と魂が通い合うような不思議な気持ちを味わった。
熊野本宮大社の苦難時代
2004年9月24日 上甲晃 | 個別ページ
「熊野が世界遺産に認定されて、今、全国から注目を浴びています。みなさまが参拝いただいた時にも、きっとたくさんの参拝者がおられたことでしょう。しかし、私の父である名誉宮司が、昭和二十六年、この熊野本宮の宮司として赴任してきた時には、それはひどいものだったらしいです。戦争が終わった直後でもあり、神道がまるで戦争責任のようにとらえられていて、お参りにくる人などほとんどいなかったそうです。記録によると、昭和二十六年当時の参拝者は年間千人にも満たなかったのです。神社としての収入源とも言える初穂料やお賽銭も限りなくゼロに近く、宮司の妻であった私の母などは、本気で逃げ出したいと思ったそうです。ところが、名誉宮司は違いました。これはありがたいことだ、私の使命が与えられたと受け止めて,張り切ったそうです」。そんな話をしてくれたのは,熊野本宮大社の宮司である九鬼さん。
私は、ぺんぺん草が生えるような名門の神社の宮司を任された時に、「これはありがたいことだ」と受け止めた当時の宮司さんの志に注目した。人が逃げ出したいと思う状況を、「私の使命が与えられた。喜ばしいことであり、感謝感激である。自分を磨いていくために最高の場だ」と受け止めることができた当時の宮司さんに敬意を表した次第である。
宮司さんは、神社にとってシンボルとも言うべきお札を一杯持って、夜行列車に乗って東京に向かった。そして東京中を歩き回り、お札を配りながら熊野本宮大社のことを話し、「一生に一度はお参りに来てください」とお願いして歩いた。
また、神社で神様にお供えする野菜にも事欠いたために、宮司さんは、自ら畑に立ち、鍬や鎌を持って、野菜作りにも精を出した。神社の伝統の建物が痛み始め時には、自ら、はしごに登って補修した。
そんな努力は、「熊野本宮大社を再建することこそ、自分の使命である」と受け止めたからこそできたのである。人は、自らに与えられた境遇や条件をどのように受け止められるかによって、結果が大きく変わってくるのだ。良い条件や恵まれた境遇なら、誰でも喜んで受け入れることができる。問題は、悪い条件、悪い境遇が与えられた時だ。たいていの人は、逃げ出すことを考えるか、「自分ばかりどうしてこんな目に遭わなければならないのか」と不遇を嘆く。不遇と考えるか、ありがたいチャンスと受け止めるか、人生にかかわる大問題だ。
出世頭
2004年9月15日 上甲晃 | 個別ページ
「率直なご意見をお聞きしたいのですが」。そんな切り出しで質問されると、答えにくいものが多い。
「松下政経塾から、たくさんの政治家を輩出されましたが、あなたの目から見て、将来性がある人、日本の政治を変えることが期待できる人、あるいは出世頭は誰ですか」。そんな率直な質問が最初に出た。大分県別府市で開催された商業界九州ゼミナールにおける夜なべ談義の席上のことである。会場の人たちは、目を覚ましたかのように、私に好奇の視線を向けていることがわかる。
「松下政経塾出身の政治家なら、全員期待できますよ。私は、みんな日本を変えてくれる、日本の政治を良くしてくれると確信しています」と答えた。質問者は明らかに失望の様子である。しかし、私は質問をそつなく逃げたつもりはない。本音なのである。松下政経塾の現場責任者として、「日本の政治、そして日本を変えてくれる」期待を込めて育てた者が、卒業生を信じられなくて、誰が信用するだろうか。それは親が子を思う気持ちと同じである。世間の人がみんな、「あんなぼんくらはいない」と思っていても、親はいつまでも、「きっとうちの子供はいつか頭角を現してくれる」と信じているものだ。たとえそれが゛親ばか゛と言われようと、親が子供を信じられなくて、他の誰が信じてくれるか。松下政経塾の卒業生にかける私の思いは、まさに子供を思う親と同じようなものだ。
「三十代で横浜市長になった中田 宏君などは、今のところ、世間的に言う出世頭です。しかし、私にはそれさえも心配の種なのです。この成功が、早すぎる成功として、後々彼にとってマイナスにならないように祈るばかりです」。私は、付け加えて説明した。なるほど若くして、人もうらやむような立場や地位に付くことは、誇らしくもあり、輝かしくもある。ところが人生は一筋縄では行かないものだ。早すぎる栄光が、かえってあだになり、挫折につながる場合も少なくない。
今の段階では評価できても、それが最後の評価につながるかと言えば、人生はそれほど単純ではない。「大器晩成」などといった言葉は、古来、言い得て妙なのである。
「政治家の評価は、歴史が決めるものです。現職時代、どれほど国民的人気がある人でも、歴史の評価に耐えられない人が多い。むしろ、現職中は、国民や有権者から恨みを買うような改革者が、歴史的に評価できるケースが多い。政治家の評価は、私のような者が下すものではなく、歴史が下すものではないでしょうか」。みんな少しは納得したようだ。
四十七年連続増収増益
2004年9月11日 上甲晃 | 個別ページ
寒天の専門メーカーである伊那食品工業は、四十七年間、売上、利益を伸ばし続けてきた。四十七年連続して増収増益という実績は、きわめてまれである。少なくとも、私の知る範囲に、そんな会社はない。
『青年塾』東海クラスの研修を、長野県伊那市に本社のある伊那食品工業さんで開催させてもらった。二泊三日の研修の最初は、同社の塚越 寛社長の話を聞くこと。連続増収増益を可能にしてきたのは、塚越社長の経営手腕によるだけに、話はまことに興味深い。そして、私は、塚越社長の話を聞くたびに、「志」の大切さを確信する次第である。
「急成長させないこと」。塚越社長は、連続して売上と利益を伸ばしてきた秘訣を教えてくれる。「物事の一番良い姿は、末広がり。すなわち、時間と共に良くなることです。社員にしても、将来に渡って毎年給料が上がっていく状態にあると、安心して人生設計できます。浮き沈みのある姿は、非常に困るのです。私はいつも、無理して成長させなくてもいい、大事なことは、前の年よりも少しでも良くすることだ」。急成長させないと聞くと、恣意的、あるいは経営の手法のように聞こえる。しかし、それは間違いだ。急成長させずに、一歩一歩成長させるためには、あらゆる活動を最大限に取り組まなければできることではない。
「世の経営者の多くは、゛追い風゛と急成長を混同している人が多いようです。゛追い風゛は、実力ではありません。それを自らの努力や実力と誤解して、過大な投資をしたり、人を大幅に増やしたりして、結局は行き詰まってしまうケースが非常に多いようです」。塚越社長は、自らの力を冷静に認識すれば、急成長などありえないと確信しているのだ。
塚越社長は、いつも、社員が持てる力を最大限に出してもらうためにはどうすればいいかを考えてきた。そのことが、四十七年間、連続増収増益の経営の実現を可能にしたのである。仮にも、経営者が、自らの金儲けのことばかり考えていたとしたら、とても今日の姿はない。
社員がのびのび、はつらつとして、気持ちよく倍の働きをしてもらうためにはどうしたらよいのか。脅かしたら、倍働くか。ノルマを課して、徹底して締め上げたら、倍働くか。給料を倍にしたら、倍働くか。塚越社長は、様々に頭を巡らせた。「寝ても覚めてもそのことを考えていました」と言う。そして塚越社長が得た結論は、「この会社は、自分の会社であり、自分の職場であると思うことができたら、きっと社員は生き生き働いてくれるに違いない」。その結論は、塚越社長の経営の原点であり、伊那食品工業の経営の志である。
全国会議
2004年9月 8日 上甲晃 | 個別ページ
私が主宰する「志ネットワーク」の全国会議は、年に二回開く。一度は、年初め、私が主催して、神奈川県箱根・芦ノ湖と富士市の株式会社イエローハット富士営業所で開催する。そして、もう一度は、全国持ち回り。各地の会員諸氏が主催してくれる。今年は、名古屋市での開催である。名古屋市在住の会員はそれほど多くはない。しかし、会員諸氏の力の入り具合は、人数の少なさをはるかに越えていた。まさに、少数精鋭の体制で、魅力的な企画を準備してくれた。
参加者の数からして、名古屋大会は、今までになく力が入っていた。最近の「全国会議」は、平均して、五十人ぐらいの参加である。ところが、今回は最初から、「百人が目標」と威勢が良い。私は、最近、行事内容が多岐に渡るために、会員の人達が、自分の興味ある企画に参加される分散型になっていると見ていた。だから、全国会議参加者の目標を百人に置くのは、正直なところ、高すぎるとも思った。
しかし、思いのある所に道は開けるものだ。実際には、目標をはるかに超えて、百二十人以上の会員が参加された。最近では、他に例のないほどの多人数であった。これだけ参加者の人数が多いと、にぎやかだし、自然に盛り上がる。名古屋在住の会員諸氏が、手分けして、全国各地の会員に声をかけた努力は、みごとに結実したのである。
参加者が多いと、懐かしい顔、いつもの顔、新しい顔など、多士多彩。人数が多いと、自然に喜びがこみ上げてくる。恒例の近況報告は、人数が多いために、延々と時間がかかる。それでもこだわって、会員の人たちには、全員に話してもらった。「みなさんのパワーに元気をもらった」とか、「お話が上手な人が多く、魅力的」とうれしい声が聞こえてきた。
私が一番印象的だったことは、『青年塾』の若い塾生諸君が、下働きで、献身的な動きをしてくれたことだ。真夏を思わせる太陽の強い光を浴びながら、道案内の看板を持って立っている人達、強い雨の中、自分はびしょぬれになりながら、お客様に傘を差し掛ける人達。志ネットワークの会員の人達を支えている若い力が芽生えてきている。
一泊二日の短い会合ではあったが、内容は濃かった。とりわけ最近元気な東海地区のエネルギー源を見せ付けられる思いがした。この地域には、もの作りを中心にして、人が育ち、事が起きてきている。新しい時代を予感させる福祉施設の理事長の話。老舗のミシンメーカーを再生して、新しい時代を開くブラザー工業の会長さんの講話、さらには新設学校の校長先生の話など、見ごたえ、聞き応え十分の集まりであった。

