- ホーム
- 2006年11月
今村大将
2006年11月 6日 上甲晃 | 個別ページ
今村 均などといった名前を、今の若い人は誰も知るまい。大東亜戦争の時、ジャワ(今のインドネシア)に派遣された部隊の総大将である。私も、今まで、名前程度しか知らなかったから、若い人に偉そうなことは言えない。『夢甲斐塾』の研修として、今村 均大将について詳しく知る機会があった。正直なところ、「こんなに責任感のある、立派な指導者が日本軍にいたのか」と驚くとともに、大いに尊敬の念を抱いた。指導者とは、かくあらなければならないと、教えられた。
今村 均大将は、いつも聖書と歎異抄を携えていた事実一つ取ってみても、人間的に立派であったことは、よくわかる。しかし、その人間性の立派なことは、戦争後に遺憾なく発揮されたのある。戦犯としての囚われの身から開放された後、自らの自宅の庭に、三畳一間の小さな小屋を建て、八十四歳で亡くなるまでの十四年間、部下に対する責任を果たすために、自ら謹慎の伏屋の中で謹慎をし、亡くなった兵隊達の霊を慰めるために、全国を行脚したのである。
今、今村大将が、自ら、謹慎するために建てた伏屋は、山梨県韮崎市の小高い丘陵の上にある。今村大将のかつての部下であった中込藤雄さんが、大将の亡き後、焼き捨てる運命にあった小屋を貰い受けて、自らの家の庭に移築し、今日まで守り続けてきたのである。九十歳になった中込さんは、まるで今村大将の魂を守るかのように、伏屋を大切に維持管理するとともに、多くの人達に紹介してきた。
私達一行は、中込さんが開けてくれた伏屋の中に入った。押入れと上がり口のたたきを除けば、畳三枚だけ。聞くところによると、巣鴨刑務所の独房と同じ広さ。違うのは、刑務所には三畳の中にトイレがあるが、ここにはない。今村大将は、家族の誰にもこの部屋に入ることを許さなかった。ひたすら、自らを慎み続けたのである。戦後、位に就き、あるいは財を成した元軍人幹部とは、対照的な生き方を選んだのだ。
私達八人が入ると、三畳の間は身動きが取れない。「中は、閣下が生きておられた当時のままです」と、中込さんが説明してくれる。伏屋の中で書を読む今村大将の写真がある。押入れを開けると、大将が片時も話さなかった聖書がある。そのほかに、戦後、几帳面に集めた新聞などの切抜きをしたノートが並んでいる。既に変色した新聞の切抜きを見ていると、戦後の世相や社会風潮に対する深い嘆きが伝わる。細かい字で書き込んである鉛筆書きの文字もまた、今村大将の国を思う気持ちにあふれていた。

