志ネットワーク 青年塾:「志の高い日本」は、「志の高い日本人」によってこそ実現するとの思いに立ち、志ネットワーク活動を展開。 主宰:上甲晃

声の直訴状

2009年4月21日 上甲晃 |

 標高100メートルばかりの甘樫の丘に立つと、明日香村(奈良県)の柔らかな全貌が望める。ゆったりとした田園風景に、いぶし銀色した瓦屋根の並ぶ集落が、美しく調和している。春、かなたの段々畑では、黄色の菜種畑が、景観にアクセントを加える。棚田が、山に向う斜面全体を律儀に刻んでいる。満開の桜や桃の花が、別世界を演出する。目の不自由な鍼灸師だった御井敬三さんは、この景色を後世に残すため、渾身の努力をしたと聞く。私は、甘樫の丘から見える景色にため息をつきながら、「景色を見ることのできない人が、どうして、この景色に日本人の心のふるさとを感じることができたのだろうか」と、考え込んでしまった。


 目の見える私には、大阪と奈良県の境の山々を起点として、飛鳥に向う開発の大波が、目の当たりにできる。マンションが無秩序に林立し、けばけばしい色の建物や看板が至る所に見える。目の不自由な御井さんが、どうしてこの開発の波から、明日香を守らなければならないと、目の見える人達以上に強い危機感を持ったのか、不思議でならなかった。

 
 ゛空気や風、匂いで明日香を感じる゛といった言葉を、明日香の地ではしばしば耳にする。御井さんは、空気、風、匂いに明日香の魅力を感じると共に、それが侵されつつある危機をもまた、空気や風、匂いによって感じたのであろうか。目の見える私には、目が見えていながら、実は見えていないものがあるのだと、強烈に教えられた。
 
 この地を開発して経済的利益を求めることに熱心な人には、明日香の景観の素晴らしさは見えない。その目に映るものは、どこに空き地があり、そこにどんな建物を建てれば、いくらぐらいの利益が得られるかといった見方しかできない。まさに、目が見えていながらも、自分の求めるものによっては、見えないものがいっぱいあることを教えられる。明日香を守らなければならないという御井さんの悲痛な訴えが、テープに吹き込まれ、松下幸之助を通じて、時の総理・佐藤栄作に届けられた。「明日香古京は、日本民族にとって、日本の国にとって、偉大な価値を持ちながらも、今日これを保存し、これを愛し、これを活かす態勢は非常に遅れています。もしも、このままに放置するならば、近代化の波に浸蝕を受けて、いくばくもなくその価値は消滅してしまうことでしょう。日本の故里である明日香の自然と史跡は、どんなことがあっても守らなければなりません」。佐藤栄作を動かした直訴のごく一部分である。声の直訴によって、佐藤総理は明日香に足を運んだ。そして、それが明日香保存の法律を作り、明日香を開発の大波から救った。

準備総会のご案内

2009年4月16日 上甲晃 |


準備総会の案内

案内2

青年塾講座のご案内

2009年4月16日 上甲晃 |

青年塾講座のご案内1

青年塾講座のご案内2

司法倶楽部のご案内

司法倶楽部のご案内1

司法倶楽部のご案内2

上甲晃講演会のご案内

2009年4月16日 上甲晃 |

【満員御礼】
お申し込み受け付けは終了いたしました。
多数の参加お申し込みありがとうございました。
講演会のご案内

地図から消し去られた島

2009年4月 5日 上甲晃 |

 無数の島が点在する瀬戸内海に、ある時期、地図から抹殺された島がある。大久野島と言う。周囲4キロ強の小さな島だ。広島県竹原市の桟橋から渡ると、船でわずか10分ほどの距離にある。かつて、瀬戸内海に突入してくるかもしれないバルチック艦隊を迎え撃つために、砲台を設置した以外、歴史の場面に登場するような島ではない。


  昭和2年、島に官営工場ができると聞いた時、島人の喜びはひとしおだった。昭和4年、晴れやかな開所式が開かれるころ、島人の喜びは最高潮に達した。工員を80人募集したところ、6,000人が応募したという事実一つ取っても、地元の熱い期待がわかる。しかし、島人が開所を喜んだ官営工場は、大量殺戮兵器の毒ガス製造工場であった。そのために、軍事機密として、島は、地図の上から消し去られたのである。

  ゛今、環境の島゛として注目されている大久野島で、今年の秋、私の主宰する志ネットワークの全国会議が開催される。下見のために、私は初めて島に渡った。そして、毒ガス製造島の歴史をつぶさに見学した。

  竹原から乗った船が、島の港に近付くと、リゾート気分を吹き飛ばしてしまう巨大な廃墟が目に飛び込む。毒ガスを製造するための電力を供給する発電所の廃墟だ。枯れたツタがからむ建物の前に立った。ガラスと言うガラスは、ほとんどすべて割れている。この島が、環境の島として売り出す前、怖いもの見たさに中に入った人達が、至る所に落書きをしている。歳月と共に色あせていった多数の落書きさえ、歴史の悲しさをさらに引き立てているように感じられる。

  毒ガスの貯蔵庫は、外からできるだけ目立たないように、崖の影に造られている。周りの草の色と見間違うように緑の色に塗られていた痕跡が、所々に残る。アメリカ占領軍が、毒ガスを処分するために、火炎放射器を使った。貯蔵庫の内部が黒ずんでいるのは、そのためである。大久野島で製造された毒ガスは、6,600トン。製造後、日本各地はもとより、中国各地にも配置された。工場にあった毒ガスは、終戦と共に、土佐沖の海に大量に廃棄された。しかし、敗戦のドサクサで、未だに日本各地の地中に埋もれている物も多い。中国大陸にも、行方の分からなくなった毒ガス爆弾が、無数にある。明治23年、オランダのハーグで、『毒ガスは人類にとってあまりにも残忍な兵器であるから、使わないようにしよう』と取り決めた。日本が毒ガスを作ったのは、それからはるか後のことだ。アメリカは、ベトナム戦争で枯葉剤を大量に撒き、今、ベトナムの人達を苦しみ続けている。人は、悲しいほど残忍にもなる。


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