生地をつくる

上甲 晃/ 2001年12月23日/ デイリーメッセージ/

「この文章、どこが取り立てて悪いというわけではないのです。ただちょっと気に食わないのです。どうしてかと尋ねられても、明確に答えられません。あえて言えば、品がないのです」。ある人が、自分のことを紹介された文章に目を通しながら、不満をもらした。

どこがどう悪いのか、はっきり指摘してもらわないことには、直しようがないと普通は考える。「品がない」といった抽象的な表現では、対応しようがない。しかし、私には、そのニュアンスが読み取れるのである。「品がない文章」というものもあるのだ。書いてある事実関係は何も間違っていない。文章も、どこが足りないというわけでもない。しかし、行間に「品の悪さ」がにじみ出るのだ。

これはもはや、文章の技術の問題ではない。書いている人の人格そのものの問題なのである。だから、書いている人の品が良くならないと、文章に品が出てこないのである。これは文章だけのことではない。すべてのことに当てはまる。要するに、技術においてどんなにレベルの高いものを習得しても、本人の人格が高まらない限りは、作品に品格が表れてこないのである。

私の次男が学んだ自由学園は、「人間の生地をつくる」ことを教育の根本の目的にすえている。私はすばらしい教育方針であると、心から共鳴し、共感してきた。知識も技術も、しょせんは道具にしか過ぎない。どんなにすばらしい道具をそろえても、使う人の品格・品性が低いと、やはりレベルの低いものしか生まれてこないのだ。使う人の品格・品性、すなわち人格を、「人間の生地」と呼んでいる。

確かに、どんなにすばらしい仕立てをしても、生地が劣悪であれば、仕立てが生きない。仕立てとは、技術であり、知識である。そして、生地とは、その人の人柄そのもの。

文章の技術は、練習により向上させることができる。しかし、文章そのものからにじみ出る「品格・品性」は、書く人の人格が良くならない限りは良くならない。

昨今、技術、資格が万能のようにまかり通る時代になった。「資格さえあれば」と、資格の習得に目の色を変えている人も多い。もちろん、資格の習得を否定するものではない。私が言いたいのは、同時に、自分自身の人間としての値打ちを上げる努力、「生地を良くする」ことも欠かせないことを承知しておかなければならないということだ。