道の教育

上甲 晃/ 2002年5月26日/ デイリーメッセージ/

キリスト教。イスラム教。仏教。世界宗教はすべて、「教」である。それに対して、日本の伝統的な宗教である「神道」は、『教』ではなく、『道』である。その違いはどこにあるのかを、かつて聞いたことがある。「『教』には、師匠がいて、テキストがある」、即ち、キリスト教にはイエスキリストという師匠がいて、聖書というテキストがあり、イスラム教にはマホメットという師匠がいて、コーランというテキストがあり、仏教にはお釈迦さんという師匠がいて、お経というテキストがあるというわけである。一方、『道』には師匠がなく、テキストもないのである。事実、神道には、師匠に当たる教祖がいないし、また、体系的に教えを説いているテキストもない。

日本の伝統的な宗教である神道は、師匠がいて、テキストに導かれて教えを悟る『教』とは違い、みずから奥義を極め、真理を悟る世界なのだ。私は、この『道』の精神が、日本の伝統的で固有な精神ではないかと思っている。

私の勤務していた松下政経塾は、明らかに、『道』の教育である。松下政経塾には、常勤の先生を一人も置かなかった。当然、テキストもない。「自分で問題意識をもち、自分で考え、自分で苦労しながら、自分で答えをつかみなはれ」、松下幸之助は、松下政経塾の教育の基本指針をそのように示した。自らは、松下政経塾の創設者ではあるが、師匠ではない。「君たちが本当に問題意識をもち、何かをつかもうと真剣になれば、世の中のあらゆる存在が先生になりうる」。これは、『道』の教育である。『道』の教育では、先生から学ぶのではなく、万事万物から学ぶのである。

なるほど、そう言われてみると、日本人の宗教観の中には、すべての存在を神として信仰する心がある。石にも手を合わせるし、山を拝むこともあることは、私たちが普段経験しているところだ。

私は、『青年塾』の教育もまた、『道』の教育であると考えている。「ここでは、諸君が主人公である。『青年塾』は、私がみなさんを教え導く場ではない。諸君が、強い問題意識をもち、何かをつかんでいく場である。諸君が、強い主人公意識をもてばもつほど、あらゆる体験、あらゆる出会いが血となり肉となる。塾生同志学ぶものもある。食事作りやトイレ掃除から、人生の大事なことを学ぶこともある。『青年塾』は、準備も、会場の下見も、研修の司会進行も、すべて学びと考えている」。最初の研修で、いつもこの話をすることにしている。