お遍路の心

上甲 晃/ 2002年8月25日/ デイリーメッセージ/

弘法大師にも、納経にもまったく縁のない若い人たちが、お遍路の体験をいかに受け止めるかは、私には大いに関心のあるところであった。お遍路は、トレッキングでも、ウォークラリーでもない。目標を決めて歩く行為は同じであったとしても、お遍路は一つの信仰の姿であり、宗教的な行為である。その宗教的な行為を、ふだんまったくといってよいほど信仰や宗教に縁のない若い人たちは、どのように感じ取り、何をつかむであろうか、どうしても知りたかった。

サマーセミナー最終日の研修は、まず体験発表である。十人単位に十一に分けた班の代表者が、それぞれの班メンバーの感想をまとめて発表した。

「急な坂道を歩き、ようやくのようにたどり着いたお寺で、静かに手を合わせながら祈ることの大切さを知ることができた」、「願い事を書いて参拝の時にお札にして入れるのですが、人のために祈ることの大切さを知りました」、「山道を歩きながら、静かに吹く風や鳥の声などに耳を傾ける心をもてました」、「急な坂を登ってくる老夫婦と出会った時、声をかけましたが、二人の目が怖いほど真剣でした」、「納経帳にお参りしたしるしとして、記帳してもらいました。八十八のうち、たった三つだけに記帳してもらっただけですが、いつ全部埋めてみたいと思いました」、「今度は少人数で来たい」。

若い人たちに、お遍路体験に対して拒否反応はまったくなかった。どうしてこんなことをしなければならないのか、これは信仰の自由を侵害する研修ではないか、こんな古臭いことをして何になる、そんな声はまったくなかった。むしろ、若い人たちが、まことに素直な心で、新しい何かを見つけた感動・感激を口々にしたことは、私には驚きに近いものであった。「教えない罪」、「伝えない罪」もある。若い人たちにもっともっと色々な体験をしてもらいたい、そして自らの心の拠り所となる原体験をしっかりと積み重ねて欲しいと、私自身、つくづく感じたしだいである。聞くところによると、最近は、お遍路に若い人たちが増えてきているとのこと。物質的豊かさの中に浸りながらも、若い人たちは、心の拠り所、精神の足場を強く求めているのだろう。

お遍路は、日本人の心の遍歴そのものである。浮世で葛藤する人間が、現実のどろどろとした世界をひと時離れて、お遍路に出る。それは、まさに日本人でなければ感じられない心の世界であろう。若い人たちに、日本人の心の遍歴を体験してもらえて良かった。