生きた勉強

上甲 晃/ 2003年6月16日/ デイリーメッセージ/

「色々勉強になりました」。研修が終わった後、そんな程度の感想しか出てこないような学びでは弱すぎる。私は、最近、「厳しく学ぶ」ことを、『青年塾』の人たちに求めている。人材教育のための研修は、様々な形で行われている。しかし、私が見てきた範囲では、受講者をお客様にするような研修が多すぎる。すなわち、研修の受講者は、黙って座っておればいいといった程度の学び方である。

講師が次々に現れて、受講者はただ座って聞いているだけ。そんな学び方では、これからの厳しい時代は生き残れないと思う。もちろん、生き残れないといった表現が適切ではないだろう。「骨身に刻み込むような学び方をする研修」が、これからの時代には強く求められると言ったほうが適切であろう。

“受け身で選ぶ時代”から、”主体的で、能動的で、積極的な学ぶ時代”である。そのために、今回の東海クラスで強調したことは、「教えてもらうのではなく、つかみとれ」。何か一つでも良いから、確かなものをつかむ、何かをつかまなければ帰るものか、そんな厳しい学び方である。そして、つかむためには、求める意識、強烈な問題意識がなければならない。もし、今回の研修でも何かつかむぞといった気構えで出席すれば、目つきも変わってくるはずだ。目つき、らんらん、ぎらぎら、そんな気風がみなぎっていたら、『青年塾』はいっそう実りの多い学びの場に変わることができることであろう。

来年の塾生募集のキャッチフレーズは、「教えません。つかんでください」としようかなと考えている。「手取り足取り教えるようなことはしない。自ら何かをつかみ取る」、そんな意味をこめている。

研修のまとめとして、東海クラスの全員には、「何をつかんだか」について発表してもらった。「こんなことが勉強になりました」と言った人には、「勉強になりましたではだめだ。これをつかみましたと発表して欲しい」とやり直しを命じた。言葉のあやのようであるが、そうではない。「つかむ」という言葉には、主体的な意志、積極的な学び、能動的な姿勢が表れている。それに対して、「勉強になりました」という言葉は、どことなく受動的で、静的で、消極的に聞こえてならない。

もう一つ、「つかむ」との言葉には、「その学びを生かす」といった姿勢が含まれている。今必要なことは、”生きた学び”である。”生きた学び”とはいったいどのような学び方か。それは、自分の人生に生きる学び方、自分の仕事に生きる学び方、普段の生活に生きる学び方である。

学んだことは、生きなければならない。「何かをつかむ」ことにより、その瞬間からその学びによって変わる自分がいなければならないのだ。『学ぶことは変わること』である。もちろん、すぐに変化の現れる変わり方もあれば、ゆっくりと時間をかけて変わる学び方もある。その遅速は別としても、変わらない学び方は、「勉強のための勉強」でしかない。

実社会での学び方は、学びを普段に生かす。学びを仕事に生かす、学びを行動に生かす、学びを人生に生かす、すなわち、”生きた勉強”をしなければならない。「つかむ」という言葉には、そのような意味も込められていることをよく承知しておきたいものである。

例えば、今回、『青年塾』では、歴史用語の勉強をした。発表が終わったら、「やれやれこれでおしまい」と思う人は、研修のための研修、学びのための学びで終わっている人である。それに対して、そのことをきっかけとして歴史に目を向けて、いっそう歴史に興味をもって自分なりに勉強をし始めるひとは、既に、「学ぶことにより、変わった人」なのだ。

あるいは、研修の中で、座布団の前後ろを初めて知った人が、家に帰ってからは、常に座布団の前後ろを意識し始めて、常に正しく揃えることができるようになったら、「学ぶことによって変わった人」となる。「つかむ」内容は問わない。しかし、研修のたびに「一つつかみ」、「一つ変われば」、一年間でどれほどの変化が現れることであろうか。想像もつかないぐらいに、成長していくはずである。

「生きた勉強」とは、学んだことを自分の人生に生かす努力によって実現できる。『青年塾』は、「生きた勉強の場」である。また、「生きた勉強の場」でなければならないのだ。