襟裳の春

上甲 晃/ 2004年07月20日/ デイリーメッセージ

私が、『青年塾』北クラスの講座を襟裳岬で行うことを決めたのは、緑化事業について詳しく学びたかったからである。今回の講座に岐阜県から参加してくれた田中義人、美鈴ご夫妻は、「NHKのプロジェクトXで、襟裳岬の緑化事業の取り組みを見て、感動しました。何度も番組のビデオを見直しているうちに、どうしても来たくなりました」と言う。それほど、襟裳岬の緑化に取り組んだ地域の人達の取り組みは、感動的であった。

゛襟裳砂漠゛。五十年前、地元では、襟裳岬一帯の荒廃した砂地を、そのように呼んでいた。当時の写真がある。一枚の写真は、目だけを出して、顔全体をすっぽりと布で隠した男が、砂塵の中を行く姿を写している。どこからどう見ても、中近東の砂漠の風景である。

襟裳岬は、最初から砂漠であったわけではない。元々は、広葉樹が生い茂る緑豊な土地だった。ところが、この地に昆布を求めて、住み着いた人達が、生活のために豊かな森の木を切り始めた。それは、家を建てるためであったり、薪のためであったりした。昆布漁が盛んになればなるほど、木は減り続けた。そして気が付けば、丸裸の土地になっていた。おまけに、日本一風の強い場所である。岬に吹き付ける風は、大地の砂をはるかかなたの海にまで飛ばした。やがて、青い海は赤土のために、赤くにごり始めた。当然、昆布の収穫は減るばかりか、収穫した昆布に砂が付き、どんどんと質の低いものになってしまった。

気の利いた人、頭のいい人、そしてお金を持っている人達は、襟裳を捨てた。しかし、襟裳から離れたくても離れられない人達もいた。その人たちが、「このままの海を子孫に残すのは忍びない」と、木を植え始めたのである。今から五十年も前のことだ。緑化事業は、容易ではなかった。種を植えても、風で飛ばされてしまう。最初のうちは、ほとんどが失敗であった。そんな苦闘の中から、雑海草と共に種を植えると、肥料にもなり、風にも飛ばされないことを見つけ出した。今、「襟裳式」と呼ばれる緑化方である。

襟裳に、緑が蘇ってきた。私達は、かつての゛襟裳砂漠゛が眼下に広がる展望台に立った。赤松の林が、広がっている。四十年前の植えた赤松は、苦渋するかのように立っている。最近植える赤松は、十年ぐらいで、四十年の樹齢の松に追い付く。緑が蘇ってきたのだ。そして緑が蘇るとともに、海が蘇り始めた。私達は、この日、およそ百本の柏を植えた。元々広葉樹林であったこの地を、赤松の林から、広葉樹林の林に戻す。これからさらに五十年先に思いを馳せて、みんなで植えた。

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