『青年塾』諸君への手紙

上甲 晃/ 2004年8月26日/ デイリーメッセージ/

塾生諸君の中には、「『青年塾』は、いったい何をするところですかと人に聞かれても、なかなか答えられない」と言う人が多いようです。確かに、一言で『青年塾』の本質を明快に答えるのは難しいかもしれません。私だって、様々に工夫しながら、できるだけわかりやすい説明をしたいと、努力を繰り返しています。しかし、私は、説明が難しくていいと思っています。なぜならば、全国各地に類似の団体や組織が存在しないからです。『青年塾』は、日本唯一、世界唯一、当代唯一、そんな存在です。だから、一言で説明するのに苦労するのは当然です。

最近、私は、「志ネットワーク活動、そしてその一環としての『青年塾』活動は、゛まともな日本人になる運動だ゛」と説明するようにしています。みなさんは、自分がまともな日本人であると思っていることでしょう。それはそれでまことに結構なことであります。しかし、私達の周りを見回してみたらいかがでしょうか。゛地に落ちた日本人゛、それも゛精神的に地に落ちた日本人゛が多すぎるような気がしてなりません。時々。あまりにも情けなくて、涙が出そうになるぐらいに悲しい思いをすることさえあります。

地べたにしゃがみこんだ若者達、股を広げてタバコを吹かす高校生、漫画に読みふける働き盛りの大人、責任ある仕事をしたがらない若者達、儲けのためなら手段を選ばない経営者、髪の毛を染めてくわえタバコ姿で育児する母親、公衆の面前で恥じらいもなく化粧する女性達、所構わず大声でしゃべるおばさん達。ひとつひとつの例を挙げ始めたら、私は気が狂いそうなぐらいに腹が立ち、情けなくなってしまいます。

私が一番嫌いな日本人。それは、「凛々しさを失った男、慎みを失った女」です。古来、まともな日本人は、もっと誇り高い存在であったような気がしてなりません。それも経済的な誇りではなく、精神的な誇りです。

人が人として生きていく上で、精神的な誇りを失ってしまったら、まことに醜い存在に落ちてしまいます。そして、戦後間もなく六十年、日本人は、精神的には完全に堕落したような気がしてなりません。さらに言えば、「精神的には滅びてしまっている」といっても過言ではないぐらいに、ひどい姿になっているようです。もっとも、多くの日本人は、今の姿をそれほど堕落しているとは思っていません。私はそのこと自体が問題であると思います。もしも大多数の日本人が、「これは困ったことだ」と思っているとしたら、既に問題は解決の方向を向いていると言えるかもしれません。

私は、現状を嘆く時間があったら、少しでも、解決の努力をしようと決意して、『青年塾』を始めました。『まともな日本人』を一人でも増やしていくこと、それが私の一番の思いです。

『まともな日本人』とは、他人を思いやる心を持った人のことを言います。精神的誇りとは、他人のために惜しげもなく力を差し出すことのできる心であります。「自分の言動、自分の立ち居振舞いによって、他人に迷惑をかけないでおこう」と考え始めただけでも、大変身です。

『青年塾』は、そうした心を養うために、平凡な日常生活をしっかりと励むことを最大の研修方法としています。普段の生活の中で、「他人を思いやり、他人に迷惑をかけない行動」を心がけるだけで、人は生まれ変わることができると確信します。

普段の生活をおろそかにして、特別な修行をしても、絶対に生まれ変わることができません。「生まれ変わった」と錯覚するだけです。莫大なお金をつぎ込んで、自己変革セミナーなどに参加する人もいます。それも一概に否定はしません。しかし、人間は、そんなお金を使わなくても、立派に生まれ変わることができるのです。「目覚めるのに、そんなに多額のお金など要らない」と私は思っています。゛凡事徹底゛という言葉は、「生活を励む」ことと同じ意味です。普段の生活は、平凡の繰り返しです。平凡な日常生活は、私達の人格を磨く、最大の道場であります。

それを少し気の利いた言い方をすると、《万事研修》と言います。その気になれば、日常生活のすべてが勉強になるとの考え方であり、『青年塾』の教育の真髄であります。

箸の上げ下ろし、ゴミの捨て方、大根の切り方、履物の揃え方、歩き方、しゃべり方、すべて修行なのです。自分の立ち居振舞いを通じて、人に迷惑をかけない、人のお役に立つ、そんな心がけを繰り返していけば、必ず、『まともな日本人』に生まれ変わることでありましょう。

そして、『青年塾』から、六百人以上の『まともな日本人』が送り出せれば、日本の国の未来は明るくなると確信します。

諸君、『まともな日本人』を目指そうではありませんか。