再び、みぞぎ

上甲 晃/ 2000年6月26日/ デイリーメッセージ/

志ネットワーク、並びに「青年塾」特別講座として、伊勢神宮を訪問しました。そして、再び、激しく雨の降るなか、五十鈴川で再びみそぎの体験をしました。その様子をレポートしました。

「五十鈴川 清き流れの水汲んで 心を洗え 秋津島人」。何度も練習したはずの和歌ではあるが、五十鈴川の流れの中に身を沈めると、声が自然に震えてくる。部屋でみんなで唱和したときには、朗々と歌い上げたはずなのに、声が揃わない。明らかに、間違えている人もいた。

私も偉そうなことは言えない。声が上ずっている気がする。心を落ち着けなければと自らを叱る。雨脚が一段と激しくなる。「えい」との合図で身体を流れに沈めると、暮色に黒さをいっそう増した川の水面が目の前に迫る。雨が叩きつけるように川面に差し込む。川の流れに身体を洗われ、頭の上からは冷水を浴びせ掛けられているような感覚だ。

昨年、五十鈴川でみそぎをしたときは、蒸し暑い日であった。天候も良かった。だから、まことに快適そのもの。まるで水遊びの感があった。だから、みそぎを気楽に考えていた。川原でふんどし姿になったとき、寒さに思わず身震いした。そのうえ、肌を打つ雨が寒さを増したのだ。寒さを増した分、みそぎらしくなったことも事実である。

ぐっと歯を食いしばり、全身に力を入れる。準備の運動にも、入念さが増す。腹に力を入れる。そんな当たり前のことが目の前の切実なテーマとして、迫ってくる。ここでは、手抜きができない。手抜きすると、とんでもないことが、我が身にふりかかってくるような緊張感があるのだ。

それにしても、不思議な儀式である。インドのガンジス川で、私には汚れ切った泥水にしか思えない川に頭から突っ込んでいき、みそぎをするヒンズー教の人たち。そして、冷たい川の流れに首まで浸かって、自らの心の汚れを落とそうとする私たち。異文化の人たちが見たら、とても理解できないような世界において、私達は精神の浄化をはかっているのだ。

「みそぎ」とは、身を削(そ)ぐことと聞いた。「自らの身を削るような思いをして」といった意味合いである。だから、必ずしも、冷たい水のなかに身を沈めることだけが、「みそぎ」ではない。日々の仕事も、「みそぎ」なのだそうだ。耳から入ってくる良い話もまた、「耳から注ぎ込まれる」、すなわち「みそぎ」なのである。

冷たい水の中で、懸命に腹に力を込め、全身を緊張状態におくと、やがて、言い難い温かみが感じられるようになってくる。冷たい水に慣れて、冷静さを取り戻したら、静かな心持ちが全身を包んでくれる。人は、温泉のような快適な状態に身も心も休めるとともに、身を切るような冷たい水のなかで、精神を研ぎ澄ますこともできるのである。人間のもつ可能性のすばらしさを改めて実感して、ずぶぬれの身体で歩き始めた。