痛み

上甲 晃/ 2001年4月30日/ デイリーメッセージ/

私は、「これからは、”保護型の社会”から、”自立型の社会”へ転換しなければならない」と思っている。その転換に際しては、日本人の一人一人が、痛みを感じなければならない。

小泉首相は、「構造改革こそ、新しい発展への必須条件」と主張する。私も同じ考え方である。構造改革か、景気浮揚かといった二者択一の選択が取り沙汰されるが、それは決して二者択一ではない。構造改革に成功しなければ、景気の本格的な浮揚が望めないのである。

保護型の社会から、自立型の社会に転換することの意味は、親の扶養家族から、自ら所帯をもつ苦労に似ている。どんなに偉そうに言っても、親の保護のもとにあるときは、骨を切るような痛みを感じることはない。自立することは、言葉で言うほど簡単ではない。自分の足で立つことは、想像を超えた厳しい試練なのである。

日本では、景気が悪くなると、政府の景気浮揚策をまず期待する。「自分で何とかする」のではなく、「政府に何とかしてもらう」姿勢である。政府もまた、赤字財政にもかかわらず、公共投資という名の大判振る舞いをする。地方に行くと、経済の屋台骨をささえているのは、建築業だ。地方へ行けば行くほど、地域経済のなかに建築業の占める割合が大きいのは建設業が健闘しているからと言うよりも、建築業が経済の屋台骨を背負う構造になっているからなのである。

葱やネクタイなどの業界で、中国からの超安価な製品が市場を席巻して日本の業者は悲鳴を上げている。当然、政府に何とかしてもらいたいと泣き付かざるをえない。日本のほとんどすべての業界は、何らかの方法で、自由競争を規制して、保護されていることは事実である。

業界だけではない、個人の生活においても、日本では保護が行き届いている。これからの高齢化社会、老後の生活は、政府に何とかしてもらいたいと期待する。IT技術の習得も、国に依存。何もかも、国が何とかしてくれることを期待する。

保護型社会は、私たちの生活のすべてに浸透している。例えば、駅のホームに立ってみるといい。構内アナウンスは、行き届いていると言うべきか、うるさいほどこまごま注意してくれる。欧米の駅では、構内アナウンスなどない。「自分で自分のことは自分で責任をもて」というわけ。電車一つをとってみても、欧米では駅名を告げるだけの車内放送だから、緊張感が必要だ。すべて、自立型社会は、「自分で自分のことに責任をもつ」つらさをまず感じるところから始まるのだ。