困難なことにまず挑戦

上甲 晃/ 2001年7月16日/ デイリーメッセージ/

水俣市長の吉井正澄さんのえらいところは、逃げないこと、さらに言うならば、「困難なことから解決していく姿勢」である。今からおよそ8年前、吉井さんが市長に就任したときの水俣は、まだまだ地獄絵のような争い渦巻く地域であった。「水俣の悲劇は、加害者であるチッソという会社と地域が不離一体の関係にあったことです。加害者と被事者が、地域のなかで複雑に入り乱れていたことです。チッソを責めると、自らの生活基盤を失う人たちがたくさんいる。しかし、水俣病の患者からしたら、チッソに責任を果たしてもらわなければならない。その葛藤が、地域をずたずたに切り裂いてしまいました」と、吉井市長は解説してくれる。

このずたずたになった地域の関係を修復せずして、水俣の再生はない。それが、吉井市長の基本の考えであった。今までの市長が、手をつけようとして手をつけられなかった課題である。「すべて、精神状況が整わなければ、再生はない」。吉井市長は、固くそのことを信じていた。

だから、8年前に市長に当選したとき、市長就任までの20日間、患者団体を順番に回って、膝を突き合わせて話し合ったのである。当時、患者の団体も、利害入り乱れて、20近くに分裂していた。吉井市長は、一つ一つの団体を訪問して、和解へのテーブルにつくための根回しをしたのである。行政不信に凝り囲まっていた患者団体が、初めて、市長の訪問を受けて、戸惑ったことは事実である。吉井市長の根気のよい説得活動が、のちに、和解の道筋につながっていったことは誰もが認めるところである。市長として最も困難と思われている課題から取り掛かるところが、吉井市長の立派なところである。まさに、”逃げない姿勢”だ。

もうひとつ、吉井市長の立派なところは、市長としてはじめて、明確に謝罪したことである。就任早々の慰霊祭で、吉井市長は、「水俣市の責任を痛感するとともに、患者の皆様方に耐えがたい苦痛を与えてきたことに対して、心からお詫びします」と、頭を下げた。当初は、謝罪がまかりならないと、県や国から、猛烈な圧力がかけられた。「しかし、結局、次に県知事が謝罪し、さらには大臣が謝罪するようになりました」と言うように、吉井市長の謝罪が、事態解決の引き金となったのである。

私が吉井市長を尊敬するのは、他からの圧力や過去のしがらみに決して屈することなく、自らの信念に従い、謝罪すべきは謝罪し、話し合うべきことは徹底して話し合う姿勢である。水俣病裁判も、ひとつを除き、すべて和解した。国も、県も、明確に責任を認めた。そして、解決の道筋がついたときから、水俣の再生は始まったのである。