志ネットワーク 青年塾:「志の高い日本」は、「志の高い日本人」によってこそ実現するとの思いに立ち、志ネットワーク活動を展開。 主宰:上甲晃

ザルツブルグコース

2009年6月20日 上甲晃 |

 益田ドライビングスクールは、益田のM、ドライビングのD、そしてスクールのSの頭文字をとって、゛MDS゛と称していた。ところが今回出かけてみて、゛MDS゛の意味が変わっていることに気がついた。Mは、マインド、即ち心。Dは、デザイン。Sは、スクールになっている。「心をデザインする学校」というわけだ。そこには、会長である小河さんの、熱い思いが込められている。「左脳は、損か得かの計算ができる能力。24時間、損得ばかり考えるのを止めて、右脳を働かせよう」と小河さんは、MDSの持つ意味を変えた思いを語る。車の運転は技術。技術だけをどんなに習得しても、運転する人の心が成長しないと、本当に安全な運転はできないと、小河さんは考えている。


 MDSと名称の中身を変更した一つの典型的な実例がある。益田ドライビングスクール全体を見渡すことのできる丘の一角に、新しいコースが完成した。そのコースの名前を、゛ザルツブルグコース゛と呼ぶ。モーツアルトの生誕地であるザルツブルグの森をイメージして名付けられた。そのコース作りをしたのは、モーツアルト部である。やがて何年か経てば、木々か育ち、深い森の中を走るコースになっていく予定である。


 そもそも、自動車教習所のコースは、警察の指導の下、すべてが数ミリ単位にまで管理されている。「森の中の見通しが悪いコース」など、認められるはずがない。しかし、小河さんは、「反骨精神と自主独立の気構えがなければ、本物は生まれない」と、押し切ってしまった。「滝や橋まで作りました」と、モーツアルト部の責任者は笑う。運転技術の習得だけが、自動車学校の仕事ではない。運転する人の心のデザインまでやるのだと、関係者はおおいに張り切る。
 
 近くには、レンガで作った迷路が完成した。迷路は、瞑想の道でもある。「人間、とどのつまり、行き着く先は自分である。すべては、自分のせいだ。瞑想は、その自分と向き合うこと。瞑想すれば、人は、右脳を働かせるようになる」と語る小河さんの口調は熱い。それにしても、゛ザルツブルグコースト゛といい、゛瞑想路゛といい、MDSの名称変更の実例は、まことにユニークだ。


 「不況は深刻である。しかし、嘆いたところで、どうにもならない。不況を味方につけること。考えてみたら、゛これぐらいはいいだろう゛と手抜きしてきたツケが、どっと出たのだから、治療方法は簡単。やるべきことをやってこなかったのだから、やるべきことをきちんとやればいい。それには、損得ばかりではなく、精神性、心、愛情を注ぎ込むことだ」。明快。

レジ袋

2009年6月 6日 上甲晃 |

 スーパーやコンビニで買い物をすると、どんなわずかな品であっても、ビニールの袋に入れてもらえる。そして、その袋は無料で提供される。環境保護が大声で叫ばれる昨今、無料でレジ袋をばら撒くのは止めようではないかと考えたのは、東京・杉並区長の山田 宏氏だ。一般論として話を聞いた人達は、「まことに結構な試みである」と賞賛してくれた。ところが、いったんそれを具体化しようとすると、利害に直接関係ある人達は、いっせいに反対派に回る。今回も例外ではなかった。

 とりわけ反対派の急先鋒は、区の境界線にある商店街の人達だった。中には、商店街の通りが、そのまま、隣の地域との境界線になっている地域がある。そういう所では、杉並区側の商店街は、ポリ袋有料、通りを挟んで向かいの店は、ポリ袋無料となることもある。

 商売をしている人達からすれば、「そんなことをしたら、みんな隣の区で買い物をして、杉並区の店では買わなくなり、干上がってしまう」と、猛烈な反対運動を繰り広げることになる。商店街の人達が集まった会合でも、全員が反対し、山田区長も、進退きわまる場面に何度も遭遇した。

 万策尽きたとも思える時、山田区長は、並み居る商店街の人達に向かって、一つの質問をした。その答えによっては、ポリ袋の有料化は断念せざるを得ないかもしれないと、腹をくくった。

 「みなさんは商売のベテラン、プロばかりです。そこで敢えて教えていただきたい。ポリ袋を無料で配り続けることは、本当に正しい商売のあり方、正しい商売の道なのでしょうか」。私はその場に居合わせなかったから、会場の雰囲気は想像の域を出ない。しかし、きっと、水を打ったような静寂の瞬間がしばらく続いたのではないだろうか。

 山田区長は、その時、会場で手を上げた若い商店主のことを決して忘れることはないと言う。「私も、今まで、おかしいと思ってきました。しかし、なかなか止められなかった。本音を言えば、しようがなくやってきただけです」と発言した。その声は、会場に集まっていた商店の人達の気持ちでもあったようだ。あれだけ反対していた人達が、雪崩を打って、有料化に賛成してくれた。みんなの心が、みごとに一致した瞬間だ。

 杉並区は、ポリ袋を有料にした。その後、区民から、反対の声が轟々と起きるようなことは、なかった。それどころか、環境問題が声高に叫ばれれば叫ばれるほど、「早々にポリ袋を有料化に踏み切った杉並区は、先見性があり、意識が高い」と、評価されるようになった。まさに、目先の損得のために止むを得ずやってきたことを克服できた、『志』の話だ。 

セールスマンの良し悪し

2009年5月20日 上甲晃 |

 朝、地元の金融機関の投資担当責任者が二人、交代のあいさつにやって来た。今までの担当責任者と新任の担当責任者である。二人とも、かつて証券会社に長い間勤めていたことがあるというベテランだ。銀行の窓口でも、証券会社と同じように投資信託商品を扱うようになって、証券会社のOBが、急遽、担当責任者として採用されたのである。

 私はずばり、「おたくの銀行でも、投資信託商品を買えるようになったことは、一面、便利です。しかし、私から見たら、販売の仕方がなっていない。端的に言えば、売りっ放しで、フォローがない。その上に、担当者が次から次に変わるので、一体誰を頼ったらいいのか、まったく分からない。だから、今後、投資信託商品をお宅から買うことには躊躇します」と、率直に意見を言った。ベテランの担当責任者は、「同感です」と言う。そして、「機会があったら、私共の銀行のトップにも、ぜひとも、そのことを言ってくださいよ」と言われる。そう言われても、私も困る。

 投資信託商品が、値上がりし続けている時には、担当者は、うるさいと思うほど、しょっちゅう訪ねてくる。そして、「次は、この商品はいかがですか。先日の商品は、こんなにも値上がりしました。新しい商品はいかがですか」と、矢の催促だ。ところが、最近のように、激しく値下がりすると、セールスマンはぴたっと来なくなってしまう。それどころか、いつの間にか担当者も交代している。売買の相談をするにも、いったい、誰に相談したらよいのか、分からない。まさに、売りっ放しだ。

 私は、「投資信託商品が値上がりしている時には、しきりに訪問し、値下がりすると訪問しなくなるようなセールス活動をしているようでは、絶対に信頼されませんよ。私なら、値下がりした時こそ、セールスマンの腕の発揮しどころだととらえて、果敢に活動すると思います。値下がりすると、お客様は面白くない。セールスマンの顔を見れば、愚痴の一つも言いたくなる。それが嫌さに、お客様の所には行かないというセールスマンは、ダメです。値下がりした時こそ、お客様に寄り添い、お客様の愚痴もしっかりと受け止め、共に辛い思いを共有する。それが、信頼されるセールスマンになれる道だと思います」と、持論を披瀝した。

 客だって、セールスマンに愚痴を言ったところで、何の解決にもならないことは、十分に承知しているのだ。それでも、愚痴の一つも言いたくなるのは、誰かに思いをぶつけたいのだ。セールスマンは、常に、お客様の思いに寄り添い、喜びや悲しみを共にする心掛けが必要だ。本物のセールスマンを見分けるのに、逆境期は、絶好のチャンスだ。

松下幸之助の教え

2009年5月 5日 上甲晃 |

 ゴールデンウイークを利用して、佐賀・有田の陶器市を訪ねた。そして、石川慶藏さんと出会った。石川さんは、松下電器に入社後、PHP研究所に配属され、31年間勤務した。その間、松下幸之助に直接薫陶を受けた。私は、石川さんの経験に自らの経験を重ね合わせ、初対面にもかかわらず、非常な親しみを覚えた。この日、初めて会ったはずなのに、かつて、何度も会ったことのある人のような懐かしい思いがしたのだ。


 有田市内にある、石川さんが副社長を務める佐賀ダンボール商会は、有田焼を梱包するケースを作ることが本業である。平成13年、妻の実家の家庭事情から、松下電器を退社して、現在の仕事に携わった。時あたかも、有田焼は、大逆境の中にあった。最盛期の3分の1に落ち込み、産地には先行きへの絶望感が漂っていた。

 
 実家の仕事をする時、妻の母は、「松下幸之助さんの理念や言葉を、この地では語ってはならない」と釘を差した。絶望の淵に沈む産地にとって、松下幸之助の存在は、余りにも縁が遠い。いきなり松下幸之助のことを話せば話すほど、石川さんが地域から浮いてしまうという義母の心配からだ。石川さんは、義母の言葉を忠実に守り、有田では、松下幸之助のことを人前で話すことはなかった。 
しかし、仕事に取り組むに際しては、徹底して松下幸之助の教えに従った。まず、「大不況は、大発展のチャンス」という松下幸之助の教えが頭に浮かんだ。石川さんが有田で仕事を始めたころ、有田焼は最盛期の三分の一ほどの規模に落ち込んでいた。産地には絶望感が漂い、人々は将来に対する希望、夢をすっかりとなくしていた。
 
 石川さんは、松下幸之助の教えを思い起こした。「かつてない困難は、かつてないチャンス」。そうか、有田焼がかつてない困難に遭遇しているということは、見方を変えれば、かつてないチャンスにあるのだ。しからば、どうすれば、この困難をチャンスに転じることができるのか。再び、松下幸之助の教えを思い起こした。「一人の知恵には限りうる。衆知を集めれば、道は開く」。そうか、多くの人の知恵を集めればいいのだ。石川さんは、松下幸之助の教えのとおりに実践した。箱屋が、箱屋の枠を飛び越えて、新しい分野に挑戦した。万華鏡は最初のヒット商品だ。石川さんの会社で、万華鏡を手にして、私はその魅力に取り付かれた。また、洞爺湖サミットで、各国のトップに贈られたお土産は、石川さんの手で完成した有田焼の万年筆。万華鏡、万年筆が、有田に新風を吹き込んだ。そして何よりも苦難にあえぐ産地に、希望の明かりをともした。

声の直訴状

2009年4月21日 上甲晃 |

 標高100メートルばかりの甘樫の丘に立つと、明日香村(奈良県)の柔らかな全貌が望める。ゆったりとした田園風景に、いぶし銀色した瓦屋根の並ぶ集落が、美しく調和している。春、かなたの段々畑では、黄色の菜種畑が、景観にアクセントを加える。棚田が、山に向う斜面全体を律儀に刻んでいる。満開の桜や桃の花が、別世界を演出する。目の不自由な鍼灸師だった御井敬三さんは、この景色を後世に残すため、渾身の努力をしたと聞く。私は、甘樫の丘から見える景色にため息をつきながら、「景色を見ることのできない人が、どうして、この景色に日本人の心のふるさとを感じることができたのだろうか」と、考え込んでしまった。


 目の見える私には、大阪と奈良県の境の山々を起点として、飛鳥に向う開発の大波が、目の当たりにできる。マンションが無秩序に林立し、けばけばしい色の建物や看板が至る所に見える。目の不自由な御井さんが、どうしてこの開発の波から、明日香を守らなければならないと、目の見える人達以上に強い危機感を持ったのか、不思議でならなかった。

 
 ゛空気や風、匂いで明日香を感じる゛といった言葉を、明日香の地ではしばしば耳にする。御井さんは、空気、風、匂いに明日香の魅力を感じると共に、それが侵されつつある危機をもまた、空気や風、匂いによって感じたのであろうか。目の見える私には、目が見えていながら、実は見えていないものがあるのだと、強烈に教えられた。
 
 この地を開発して経済的利益を求めることに熱心な人には、明日香の景観の素晴らしさは見えない。その目に映るものは、どこに空き地があり、そこにどんな建物を建てれば、いくらぐらいの利益が得られるかといった見方しかできない。まさに、目が見えていながらも、自分の求めるものによっては、見えないものがいっぱいあることを教えられる。明日香を守らなければならないという御井さんの悲痛な訴えが、テープに吹き込まれ、松下幸之助を通じて、時の総理・佐藤栄作に届けられた。「明日香古京は、日本民族にとって、日本の国にとって、偉大な価値を持ちながらも、今日これを保存し、これを愛し、これを活かす態勢は非常に遅れています。もしも、このままに放置するならば、近代化の波に浸蝕を受けて、いくばくもなくその価値は消滅してしまうことでしょう。日本の故里である明日香の自然と史跡は、どんなことがあっても守らなければなりません」。佐藤栄作を動かした直訴のごく一部分である。声の直訴によって、佐藤総理は明日香に足を運んだ。そして、それが明日香保存の法律を作り、明日香を開発の大波から救った。

地図から消し去られた島

2009年4月 5日 上甲晃 |

 無数の島が点在する瀬戸内海に、ある時期、地図から抹殺された島がある。大久野島と言う。周囲4キロ強の小さな島だ。広島県竹原市の桟橋から渡ると、船でわずか10分ほどの距離にある。かつて、瀬戸内海に突入してくるかもしれないバルチック艦隊を迎え撃つために、砲台を設置した以外、歴史の場面に登場するような島ではない。


  昭和2年、島に官営工場ができると聞いた時、島人の喜びはひとしおだった。昭和4年、晴れやかな開所式が開かれるころ、島人の喜びは最高潮に達した。工員を80人募集したところ、6,000人が応募したという事実一つ取っても、地元の熱い期待がわかる。しかし、島人が開所を喜んだ官営工場は、大量殺戮兵器の毒ガス製造工場であった。そのために、軍事機密として、島は、地図の上から消し去られたのである。

  ゛今、環境の島゛として注目されている大久野島で、今年の秋、私の主宰する志ネットワークの全国会議が開催される。下見のために、私は初めて島に渡った。そして、毒ガス製造島の歴史をつぶさに見学した。

  竹原から乗った船が、島の港に近付くと、リゾート気分を吹き飛ばしてしまう巨大な廃墟が目に飛び込む。毒ガスを製造するための電力を供給する発電所の廃墟だ。枯れたツタがからむ建物の前に立った。ガラスと言うガラスは、ほとんどすべて割れている。この島が、環境の島として売り出す前、怖いもの見たさに中に入った人達が、至る所に落書きをしている。歳月と共に色あせていった多数の落書きさえ、歴史の悲しさをさらに引き立てているように感じられる。

  毒ガスの貯蔵庫は、外からできるだけ目立たないように、崖の影に造られている。周りの草の色と見間違うように緑の色に塗られていた痕跡が、所々に残る。アメリカ占領軍が、毒ガスを処分するために、火炎放射器を使った。貯蔵庫の内部が黒ずんでいるのは、そのためである。大久野島で製造された毒ガスは、6,600トン。製造後、日本各地はもとより、中国各地にも配置された。工場にあった毒ガスは、終戦と共に、土佐沖の海に大量に廃棄された。しかし、敗戦のドサクサで、未だに日本各地の地中に埋もれている物も多い。中国大陸にも、行方の分からなくなった毒ガス爆弾が、無数にある。明治23年、オランダのハーグで、『毒ガスは人類にとってあまりにも残忍な兵器であるから、使わないようにしよう』と取り決めた。日本が毒ガスを作ったのは、それからはるか後のことだ。アメリカは、ベトナム戦争で枯葉剤を大量に撒き、今、ベトナムの人達を苦しみ続けている。人は、悲しいほど残忍にもなる。

送り人

2009年3月24日 上甲晃 |

  永年の友人である本多邦年さんは、長崎県島原市で葬祭業を営んでいる。数年前、本多さんに招かれて、゛やすらぎ講演会゛と名付けられた会合で、話をさせてもらったことがある。その時、私は、「葬祭業は、本来、大変に大事なお仕事です。もしみなさまの仕事がなかったら、人はおちおち死ぬこともできません。目の前の遺体を前にして、どのように扱ったらよいか、途方に暮れてしまうことでしょう。みなさまがいてくださるからこそ、死んだ後も安心して任せておける。その意味では、本当はもっともっと胸を張ってもいいはずの仕事です。ところが、業界の人達は、必ずしも胸を張っていない。みなさんの子供さんも、お父さんの職業を聞かれた時、葬儀屋ですと胸を張って答えていないのではないでしょうか。まことに残念なことです」と話した。


  永年、死を扱う仕事は、忌み嫌われてきた。死を忌み嫌う気持ちが、死を扱う仕事まで忌み嫌ってきたのである。また、葬祭業を営む人達も、みんながどうしても必要とする大事な仕事をしているのだといった使命感を必ずしも持ち合わせてこなかった。そこに、業界や仕事に対する偏見を生んできたのである。


  「送り人」という映画が、最近、アカデミー賞の外国語映画のグランプリに輝いたことは、周知の事実である。本多さんは、「あの映画のおかげで、私達の仕事も随分見直されるようになりました」と言う。私も、今年の初めにシンガポールに向う飛行機の中で見た。゛送り人゛という名前もいい。また、人の死を、尊厳を持って送る仕事の意義が、見ている人達の心を打つ。まさに、葬儀業の本当の意義が見直されるきっかけになったのだ。本多さんは、「あなたから教えていただいたとおりの映画ですね」と言う。「その通り。私の言ったことを映画にすれば、゛送り人゛です」と答えた。自慢するわけではない。どんな仕事でも、儲け仕事としてやると、人に嫌われる。逆に、どんなに゛汚れ仕事゛と嫌われてきた仕事も、使命感を持てば、光り輝くのだ。


  私は、本多さんに、一つの提案をした。「葬儀業という名前を改めて、゛一世一代業゛と変えたらどうですか。人間にとって、゛一世一代の舞台゛と言えば、葬式しかない。結婚式は、二度三度やる人もいるし、やり直せる。ところが、葬儀は、すべての人にとって、一回きりなのだ。゛一世一代゛そのものである。そしてさらに提案した。「セレモニーデザイナーという職業を作るのです。生前のうちに、自らの一世一代のセレモニーをどのように挙行するかを企画してくれる仕事です。私も頼みたい」。 

不況期の過ごし方

2009年3月 5日 上甲晃 |

 不況期になると、松下幸之助が、なぜか見直される。既に亡くなって21年が経過する。しかし、松下幸之助は、今もなお、経営の神様としては、健在のようである。何よりも、松下幸之助は、「好景気良し。不景気なお良し」と言う。そのたった一言が、世の多くの経営者の心をとらえるようだ。みんなは、「好景気は良し。不景気は悪し」と思っているから、松下幸之助の言葉は、ある種、衝撃的なのだ。


  どうして不景気が良いのか。「好景気の時にはな、誰が経営しても、そこそこにうまく行くものや。経営力よりも、景気力が、後押ししてくれるからな。ところが、不景気の時は、経営力がなければやっていけない。だから、経営の本当の差は、不景気の時に付くものや」。私なりのとらえ方を、松下幸之助風に語ってみたら、こんな台詞になるのだろう。


  経営の本当の差は、不景気の時に付く。そう言われると、私が在職中、゛松下電器は不景気のたびに伸びる会社だ゛と世間で言われていたことを思い出す。不景気のたびに伸びたら、他社との差はみるみる開いていくのは当然であろう。松下幸之助が、゛経営の神様゛などといった言われ方をしたのも、その辺りに秘密があるようだ。

 
  なぜ、不景気は、好景気の時よりも、゛なお良し゛なのであろうか。

 
  先ず、経営の改革は、不景気の時にしかできない、と言う。業績が好調な時は、社員に自信を与えるものの、「この調子で行きましょう」と、現状を肯定する傾向にあり、本当の反省ができない。反省がなければ、改革はありえない。反省は、改革の始まりである。さらに言えば、「このまま行けば、会社がつぶれるかもしれない」といった危機感が浸透すると、今までのやり方を抜本的に変えなければならないと、誰しもが思う。゛かつてない困難は、かつてない改革のチャンス゛だと、松下幸之助は、社員を励ましたものである。また、不景気の時は、好景気の時に手が回らなかったことに着手するのには、きわめて良い機会だ、と言う。「好景気の時は仕事が忙しい。猫の手を借りたいような時には、社員の教育をじっくりしている余裕がない。不景気は、基本的には、暇である。社員教育に一日掛けても、なお時間が余る。不景気の時にしっかりと社員を育てた会社は、やがて好景気になったら、どんどん伸びていく」。そんな言葉も、私の記憶の中に鮮明に残っている。好景気の時は忙しくて手が回らなかったことを順番に挙げていけば、不景気の時にやることが一杯、見えてくる。やることが多いと言うことは、゛不景気もまた良し゛なのだ。

死刑囚

2009年2月20日 上甲晃 |

 免田 栄さんは、昭和23年12月、熊本県人吉市で起きた殺人事件の犯人として捕まり、死刑の判決を受けた。二審の福岡高裁で控訴を棄却されて、死刑が確定した。そして福岡拘置所で死刑の執行を待つだけの身になった。その免田さんが、死刑執行を免れるどころか、最終的に無罪まで勝ち取った事件は、゛奇跡゛とさえ言われた。


  私は、熊本市内にある慈愛園の現在の園長である潮谷愛一さんを訪ねた時、愛一さんの父親である潮谷総一郎さんの話を聞いて、強い衝撃を受けた。総一郎さんが、゛奇跡゛と深く関わっていたのである。総一郎さんは、死刑執行を待つ免田さんに、教誨師として面接した。その時の印象が、逆転判決のきっかけになった。総一郎さんは、免田さんと会った時、目を見て、「この人はやっていない」と直感したのである。

  総一郎さんは、免田さんの無実を証明するために、終始一貫、免田さんの心の支えとなり続けた。そればかりか、自ら、事件の経過を確認して歩いた。まるで、警察か検察の取調べを地で行くような綿密なものであった。重要な証拠になったのが、事件の起きた時間、免田さんと共にいた女性の証言である。年端も行かない女性は十代だった。警察や検察脅され、虚偽の証言をしたと言う。女性は、「本当は免田さんと一緒にいた。私の証言は、強要されたもので、嘘でした」と話した。

  事件はそこから大きく展開して、34年の苦闘を経て、免田さんの無罪が確定した。死刑が確定していながら、無罪を勝ち取ったケースは、まことにまれである。総一郎さんが、免田さんの目を見て何も感じていなければ、奇跡は起きなかったかもしれない。また、総一郎さんが、無実を証明する活動をしていなければ、奇跡は起きなかったかもしれない。私は、息子の愛一さんから話を聞き、身震いする感動を、全身に感じた。

  免田さんは、34年ぶりに自由の身になった。自由の身になったら、今度は、引き受ける人がいない。総一郎さんが、自らの運営する慈愛園に身柄を引き受けた。それから一年、免田さんは、ふつうの社会人としての感覚を取り戻すのに、七転八倒の苦労をした。持ちつけないお金を持って、身を持ち崩すような事件もあった。人との関係に慣れないために、様々なトラブルも起こしたこともある。しかし、その間、総一郎さんは一言も、何も言わなかった。「これから先は自分の足で立ち、自分で起こした問題は自分で解決しろという父の方針でした」と、愛一さんが言う。免田さんはそのおかげで、後に結婚し、さらには人権擁護活動に身を捧げている。それにしても、すごい人がいたものだ。

世界一の駐車に挑戦

2009年2月 5日 上甲晃 |

 空気が違うと、私は感じた。長野県伊那市に本社のある伊那食品工業の新しい工場の社員駐車場の中を歩いている時のことだ。私と並んで歩いていた社長の井上 修さんが、「ここの社員駐車場では、今、世界一の駐車の仕方に挑戦しています」と言う。駐車場の設備や大きさで世界一をめざそうというわけではない。社員が、決められた駐車スペースの中に、世界一、整然と車を停めることに挑戦しているのだ。
  そう言われて、改めて駐車している車の列を見て、納得した。駐車スペースの中に、どの車も、隣の車の駐車スペースとの境界に引かれた白い線から、ぴたりと等間隔に並べられている。私がどこか空気が違うと感じたはずである。
  私自身、車を停める時、そこまで考えたことはなかった。時々、駐車してから車の外に出て、「あまりにも行儀が悪いな」と、車を停め直したことはある。しかし、世界一美しく停めようなどと意識して駐車したことなど、一度もない。『いい会社をつくろう』という社是を掲げている伊那食品工業の゛いい会社度゛は、かなりレベルが高いようだ。
  井上さんは言う。「車をきちんと停めることと、仕事をきちんとすることは関係ないと思う人もいます。しかし、それは間違いです。車をきちんと停めようと努力することは、そのまま、仕事をきちんとこなしていく力を養うのです」。私は、膝を打つ思いがした。多くの会社では、車を停めることと、仕事をすることを切り離して考えている。「車をきちんと停めたら経営が良くなるようなら、苦労しない」とうそぶく人もいる。それは、大きな間違いだ。車をきちんと並べる努力は、丁寧に、そしてきちんと仕事をする実力を養っていくのだ。仕事をする人の心が変わっていけば、それが仕事に影響しないわけがない。
  昨年、伊那食品工業では、創業50周年を迎えた。そのご褒美に、社員全員を、希望によって、ヨーロッパやニュージーランド、オーストラリア、国内では北海道、沖縄へと旅行に行かせた。同社の塚越会長によると、「お世話した旅行社が、400人もの人が旅行に出掛けて、何一つトラブルがなかったことは、奇跡だと言ってくれました」。怪我や病気はもとより、忘れ物、スリの被害に遭うといったトラブルがまったくなかったことは、まさに同社の社員の心掛けがいかに行き届いているかを表わしている。゛社員駐車場の車の並べ方世界一゛をめざす努力と、海外旅行に出て、トラブルゼロという事実は、関係ないようで、深く関わっている。また、深く関わっていることが理解できないと、いい会社はできない。

グリーン・ツーリズム

2009年1月20日 上甲晃 |

かぼちゃの出荷体験 夕張郡長沼町は、札幌・新千歳空港から、車なら30分ほどの距離にある。広大な平原に、豊かな農業地帯が広がっている。農家の数は、およそ800戸。稲作、畑作、果樹、酪農など、農業なら、何でもござれ。とりわけ、大豆の生産では、北海道一を誇る。その長沼町の農家には、もう一つ゛北海道一゛を誇るものがある。全国各地から来る小学生、中学生、高校生を自宅に泊めて農業体験させるグリーン・ツーリズムにおいても、北海道では飛び抜けた実績を誇っているのである。


大豆畑の草取り体験 同町が平成16年にグリーン・ツーリズムに取り組み始めてから、実績は急激に増えている。初年度は、188人であった。翌年度は、早くも1,000人の大台に乗り、さらに次の年にはほぼ2,000人、さらに3,000人台と、急速な勢いで伸びてきた。あまりの急速な伸びに、農家からは、「ちょっと一服」といった声が出たこともある。それでも勢いは止まらず、ついに20年度は5,000人の大台を突破した。地域も、首都圏、関西圏から、最近は九州にまで広がりつつある。


田植え体験 北海道の中には、子供達を受け入れて泊めることを営業として行うことを認可されている農家は、223軒あるが、そのうちの159軒、およそ7割は長沼町の農家。まことに、熱心である。
 ここまでグリーン・ツーリズムが盛んになった理由の一つは、行政と農業協同組合が、一体になったことだ。゛小異を越えて大同団結゛することは、物事が成功する秘訣だ。もう一つの理由は、長沼町が有名な観光地でなかったことである。名の通った観光地では、ホテルや旅館が、自分達の領域を侵されると、グリーン・ツーリズムに対しては反対が強い。同町は、有名観光地でなかったことが幸いして、抵抗がなかった。


トマトの整枝体験 農家の人達も、この計画にはおおいに乗り気だ。次代を担う子供達に農業を教えること自体、やりがいがあり、楽しいと受け止めている。おかげで、「子供達に励まされて、これからも農業を元気に続けていこうと思える勇気をもらった」と燃えている農家が増えている。
 子供達の反応もいい。「土に触ったことがない都会の子供達にとっては、すべてが新鮮な経験になっています。修学旅行の感想文が送られてきますが、観光地に行ったことよりも、農業体験のことをみんながくわしく書いています」と、町長も意気盛んだ。東京の はさ掛け体験ある有名進学校から来た生徒は、スギナの根を辿って、 2メートルもの長さがあることに驚いた。そして、何より回りが驚いたのは、2時間、高校生が夢中に土を掘っている姿である。子供達も、何か大事なものをつかんでいるのだ。

宝貴的資源

2009年1月 5日 上甲晃 |

シンガポール1 マレー半島の先端に位置するシンガポールは、隣国マレーシアと、水道を挟んでつながっている。国境には、両国を結ぶ三本のパイプがある。三本のパイプは、シンガポールに住む四百五十万人にとっては、生命線である。パイプが破壊されれば、シンガポールは、たちまち干上がる。
 三本のパイプのうち、二本は、マレーシアから生水を輸入するものである。生水は、そのままでは飲料水としては使えない。そこで、技術的にも資金的にも優位にあるシンガポールが、生水を浄化して、残りの一本のパイプを使って、逆に、マレーシアに輸出している。
 国の面積が淡路島と同じ面積のシンガポールには、高い山はない。一番高い山でも、海抜百四十メートル。新しく完成したシンガポール第一の高さを誇るビルは、その倍、二百八十メートルある。高い山がなく、国土が狭いことは、水不足をもたらす。人間、油がなくても生きていけるが、水がなければ生きていけない。自国で国民が使用する水を自給できないことは、シンガポールにとって最大のアキレス腱でもあるのだ。
 一九六五年、シンガポールがマレーシアから独立する際、水を売ってもらう契約を結んだ。三本のパイプが建設されたのも、その後だ。契約は、二〇一一年と二〇六一年に更新の時期を迎える。仮に、将来、両国の関係がこじれたら、価格を今よりはるかに高く売りつけられるかもしれない。あるいは、売ってもらえないことさえ、あり得ない話ではない。シンガポールは、今、水を自前で確保することに躍起となっている。
私は、正月早々にシンガポールを訪問、「水を自給するプロジェクト」を見学して回った。水を自給するプロジェクトは、大きく三つある。まず、下水を上水化すること、海水を淡水化すること、そして溜池方式だ。
ニューウォーター最初に見学したのは、下水の上水化の拠点だ。国内四ヶ所の拠点で、下水を回収して、最新鋭の工場で、高精度の処理をし、完全なる上水、名付けて、゛ニューウォーター(新生水)゛を生産している。現在、九十八パーセントが、工業用水として再利用され、飲料用は二パーセントだ。将来はこれを拡大して、水利用全体の三十パーセントにまでしたいと、担当者は意気込んでいた。下水と聞くと、心理的に抵抗があるものの、データー的には完璧な蒸留水だ。政府は、国民が進んで゛新生水゛を飲むことを奨励している。若い人達は、既に、慣れつつある。
シンガポールは、水を「宝貴的資源」と呼ぶ。日本には、シンガポールの人から見たら、喉から手が出るほど欲しい水が、あり余るほどある。あり過ぎて、ありがたみが分からないことが、いささか残念である。

答え

2008年12月20日 上甲晃 |

 ある大手証券会社の開催した会合。冒頭に、専務執行役員が挨拶に立った。「私の三十一年の証券マンとしての経験の中でも、今回のような事態に遭遇したのは、初めてです。だから、これからどうなるかといった予想もつかないし、どうすれば良いかといった処方箋を示すこともできません。そこで、今日の講演会では、講師の上甲さんに、ぜひとも、今後の対応について、答えを教えていただきたい」と、いきなり、私に向かって、とてつもない課題が放り投げられた。
 私の話の中身は、もともと、時々の変化に対応する方法論とはまったく逆である。時代を越えて変わらない大切なもの、さらに言えば真理といったものを説き続けてきた。「変化よりも、不変」。だから、この日も、同じ話をするつもりであった。ところが、いきなり大きな宿題のボールを投げられたものだから、何か一つの答を示さなければならないと考えた。
 話の最後に、「本物は、いついかなる時代にも生き残れます。それだけは信じても良い。それさえも信じられなくなったら、末世であります。今こそ、本物は必ず生き残れると信じる、そして、だからこそ、今、゛本物に生まれ変わるチャンス゛を迎えたと考えるべきであります」と締めくくった。我ながら、思いを端的に表現できたと思った。
 今こそ、「まず、本物は必ず生き残れる」と信じることだ。明日どうなるだろうかと心配する暇があったら、まず、「本物は生き残る」という真理を信じることだ。そしてその次に、「本物に生まれ変わろう」と決心することである。「本物に生まれ変わる」ためには、厳しい環境の時ほど、やりやすい。このままいけば、立ち行かなくなるのではないかと思うほどの困難に出くわせば、誰でも、自らのあり方を根本から反省できる。そして最後に、「それでは本物とは一体何だろうか」と考えることだ。
 「本物は生き残る。今こそ、本物に生まれ変わるチャンス」。私の締めくくりの言葉が、聴衆にも少しばかり光明になった様子である。講演会の後の食事会では、乾杯の時も、開会の挨拶も、「本物は生き残る。今こそ、本物に生まれ変わるチャンス」の言葉が、みなさんの口を突いて出た。私自身、自分で言いながら、「そうだよな」と自ら納得した。
 それにあえて付け加えるならば、「本物は、当たり前をしっかりと励む」。今回の事態に、特別な処方箋があると考えること自体、既に間違っている。「特別な方法などありえない。誰でもが知っている当たり前のこと、誰でもが当たり前と思っていることを、徹底してやりきることができること」が、本物に生まれ変わる道である。 

無言の叫び

2008年12月 5日 上甲晃 |

CIMG4170.JPG 「戦争は、あってはならないことなのです」。包み込むような優しい言葉遣いで話を進めてきた鳥浜初代さんが、きっぱり言いきった。言葉の後、しばらく静寂の時が刻まれる。大広間の空気が、瞬間、引き締まった。話に、まんじりともせず聞き耳を立てていた『青年塾』西クラスの塾生諸君の背筋が、いっそう伸びた。私達が座っている大広間は、かつて特攻隊員達が、再び生きて帰ることのない任務のために飛び立つ前、つかの間、魂を癒した場所である。この日の語り部の鳥浜初代さんは、゛特攻の母゛として、隊員達から母のように慕われていた鳥浜とめさんの、孫の嫁であり、鹿児島県知覧町にある富屋旅館を切り盛りしている。


 私は、何度も聞いたはずの初代さんの話に、新鮮な思いを持って、引き込まれた。初代さんは、とめさんの言葉をもって、自らの思いを伝える。「僕達が飛び立っていけば、きっと戦争のない平和な世の中がくる、平和の礎が築かれる。特攻隊に散った若者達は、それを信じてこの地から敵に向かって、飛んで行きました。あの子達が命を懸けて戦ったのは何のためだったのか、今の時代に生きる私達は考えなければなりません」。私は、強い衝撃を受けた。


 もはや特攻隊の隊員達の思いどころか、日本がアメリカと戦争したことさえ知らない若い人達が増えてきた今日、鳥浜初代さんの一言は、重い響きを持って、私の胸に迫る。゛無駄死に゛、そんな言葉が思い浮かぶほど、今の日本は情けない姿にある。決して、゛無駄死に゛に終わらせてしまってはいけないのである。


 中でも、印象深かった言葉は、「やがて戦争を知らない人達ばかりの世の中になる。その時、亡くなってしまった゛物言わぬ空気が、ものを言う時がくる。けれども、後の人達に、それを受け取る力がなければ、何の意味もなくなるのです」。今まさに、戦争を知らない人達ばかりの時代を迎えつつある。もう十年もすれば、直接に戦争を体験した人達が、日本にはいなくなる。その時に、「戦争はあってはならないことです」と肝に銘じた先人達の思いは、受け継がれるのであろうか。


 昨今、勇ましい発言が増えつつあるように思う。「武力行使も辞さない」。そんな発言が、喝采をもって国民の間で受け止められるとしたら、もはや、「戦争はあってはならない」と肝に銘じたはずの先人達の戦争体験は、無意味なものにとなり下がる。今の時代、国を守るためには、軍隊の存在も否定しきれない。しかし、その根底に、「戦争はあってはならないこと」と肝に銘じた先人の祈りがなければならない。

二人の死

2008年11月28日 上甲晃 |

 十一月十四日、十五日と連続して、私の知人が亡くなった。二人の死に、私は大きな衝撃を受けた。
 一人は、『青年塾』第六期生の小栗正育君。四十歳の若さであった。死因は、急性心不全。普段どおり出勤した働き盛りの人が、遺体となって帰宅したのである。家族の驚きと悲しみを思うと、胸が締め付けられる。

 その日、小栗君は、岐阜グランドホテルで開催された、一泊二日の研修に参加していた。二日間の研修も無事に終わり、帰り支度を急いでいた時、小栗君は、隣の人にもたれかかるように倒れた。すぐに救急車が呼ばれて、五分ほどしか離れていない病院に運び込まれた。救急車の中ではまだ呼吸があった。しかし、病院では既に事切れていた。

 小栗君は、愛知県に本社を置く中部飼料株式会社の中堅幹部。とりわけ豚の餌に関する研究部門では、将来を大いに嘱望された人だ。私が何より高く評価するのは、その気骨と筋を通すところだ。「最近ではまれな」と言うと語弊があるが、背筋の通った生き方は、周りの人たちに一目置かせるものがあった。

 それにしても、将来を嘱望された若い人の死は、こちらの気持ちまで悲しみのどん底に陥れてしまう。葬儀の時、気丈に立って、会葬者に対してお辞儀をしている母親の側で、二人の小学生が無邪気に数珠をおもちゃにしている姿は、涙を誘う。私は遺影に向かって、「小栗君、待て。まだ早過ぎる」と怒鳴りたい気持ちに駆られた。

 もう一人の死は、私が松下電器に入社して、初めて配属された報道部で、机を並べていた坂田憲一氏だ。坂田氏とは、いつも机が向かい合わせか、隣り合わせだった。遊ぶのも一緒。仕事も一緒。新入社員のころをともに過ごした、無二の親友の一人であった。年齢も私とまったく同じ。入社年次は、坂田氏のほうが一年早かったが、若手コンビで、ずいぶん暴れまわったものである。

 坂田氏は、定年退職の前、広報本部長の要職にあった。とりわけマスコミの窓口責任者として、心身をすり減らすような激務に追われていた。定年退職して、すぐに胃がんの手術をした。それから後の経過も芳しくなかったようで、「たまに一杯やろう」と声をかけたら、「体調が回復してからにして欲しい」との返事であった。そしてその返事が、坂田氏との最後の会話となったのである。自らのやつれた姿を見られたくないと言い続けてきた本人の気持ちを汲み取り、葬儀は身内だけで行われた。
 二人のかけがえのない知人の死に、私は、深く沈みこんでしまった。

ジレンマ

2008年11月21日 上甲晃 |

PB140025.jpg 「本当に良い酢を使っていただいたら、味はもとより、健康にも良い。健康に良ければ病気をしないわけだから、長い目で見て、医療費も安く済む。だから、買い求める時には、多少、値段が高くても、良い酢を選ぶほうが得だと思うのですが」と、言葉を濁すのは、京都府宮津市でお酢を作る飯尾醸造の社長・飯尾 毅さん。「目先の損得、価格で九割のお客様は買い求められるように思います」と、飯尾さんは肩を落とす。残念無念の心境なのだ。


 飯尾さんは、゛こだわりの酢゛作りに取り組んできた。シェアは、〇・〇五パーセント。全国四百社中の四十番目位の位置にある。しかし、自らの作るお酢については、日本一だという誇りが、飯尾さんにはある。何よりも、無農薬の新米を原材料に使うこと自体、他のメーカーの追随を許さない。しかも、原材料は、一般的な酢のメーカーの六倍から、七倍も使っている。製造時間は、自然に発酵するために、速醸酢の八倍から十倍掛けている。飯尾さんは、三年前、゛他の追随を許さない良質の酢゛を維持し続けるため、価格を大手同等製品の一・五倍から一・七五倍に上げた。「本当に良いお酢を、誰にでも買い求めていただける価格で販売したい」と考えてきた飯尾さんにすれば、断腸の思いだった。


 価格を引き上げた結果、てきめんに影響が出た。それ以来、販売は低迷して、三年連続、前年を下回っている。飯尾さんの悔しい思いの原因はそこにある。「良いお酢を作っている限り、必ず世間に認めてもらえる」との信念が、時には、揺れる。名門、゛富士酢゛のピンチだ。


 それにしても、飯尾醸造のお酢は、天下一品である。地元の棚田で収穫された、無農薬の新米を原材料に使うために、地元の農家から、最高級を誇る新潟・魚沼産の価格を上回る、日本一高い価格で米を買い取っている。米代だけではない。米作りに必要な資材・機材の費用、農協の手数料も、すべて農家に代わって負担している。コストダウンと、自らの利益確保のために、一番安い米を仕入れることに目の色を変えているメーカーからすれば、飯尾さんのこだわりは、とても信じられない。


 それでも、最近、棚田の米を作る農家が減少してきている。そのために、飯尾醸造さんでは、社員が稲作作りに取り組むようになった。そこまでしてでも、無農薬の新米にこだわっているのだ。飯尾醸造さんには、営業部門がない。また、宣伝広告もしない。「良いものを手ごろな価格で」と思うから、お酢作りに全精力を注ぎ込んで、宣伝や営業活動をしない。本物には、どんなことがあっても、生き残って欲しいものである。

帆立貝と秋異変

2008年10月17日 上甲晃 |

帆立貝の養殖をしている舟木耕一さん 「いつもの年であれば、この時期、作業をしている手が寒さにかじかむのですが、今年は、そんなことはまったくありません。それどころか、汗ばんでくる。とにかくこんな暖かい秋は、珍しい」と話し始めたのは、サロマ湖で、三十年にわたって帆立貝の養殖をしている舟木耕一さんである。


 大阪の自宅を出る時、私達夫婦は、覚悟を決め、冬支度をした。オホーツク海に面した北の地は、最早、冬の入り口にあるのではないかと予想したからだ。ところが、連日の快晴、日中の温度は二十度を超えている。「今年、紅葉の色付きが悪いのは、朝夕の温度が下がらないから」と、地元の人達は、一様に口を揃える。北の国は、゛秋異変゛なのだ。


 「海の様子もおかしい」と舟木さんは、言う。例えば、サロマ湖の外、オホーツクの海で、つい最近、本マグロが定置網に掛かった。「本マグロが網に掛かるなんてことは、ついぞなかったことです」と舟木さんも驚いている。どうやら、水温が変化しているために、漁業事情にも異常現象が現れているのだ。本マグロが網に掛かる一方では、本来この時期に獲れなければならないはずの秋鮭が網に掛からない。「水温が高いために、鮭が川に近付かないのではないだろうか」と、地元の漁業関係者は推測するが、詳しいことはまだ分かっていない。


 「そう言えば、昨年の秋、帆立貝の成長がぴたっと止まってしまったことがあります。原因は分かりません。とにかくおかしいおかしいと、みんな、首をひねるばかりでした」と、船木さんは、自らの経験を教えてくれた。オホーツクの海に何らかの変化が起きていることは、事実だ。かつて、寒冷地の北海道で取れる米は、あまりおいしくないと言われていた時期がある。それが、最近は、気温の上昇につれて、おいしい米どころ゛になってきている。陸の変化と同様、海もまた変化しているのだ。


舟木さんの船に乗って 舟木さんの船に乗って、サロマ湖の帆立貝の養殖場を見せてもらった。「海の異変も不大変だが、円高も痛い」と言う。帆立貝と円高が関係すると知り、思わず、「どうして?」と質問した。「帆立貝は、八割が輸出です。だから、円高になると、もろに影響を受けるのです」とのこと。最近、中国でも、帆立貝の養殖が盛んになり始めている。激しい競争下にあって、円高なると、国際競争に勝てないのだ。自然環境の異変、経済環境の異変に、帆立貝も翻弄されているのである。


 今年、日本列島への台風の襲来が少なかった。サロマ湖は、海につながっている。「海の掃除という観点から見ると、海がシケないのは、水質面から問題が多い」と舟木さん。゛帆立貝事情゛も、容易ではない。

師の教え

2008年9月19日 上甲晃 |

kojimabook.JPG 「地位、肩書きで、人は切れない。人を切るとは、人を魅了するといった意味だ」。そんな強烈な一言を、私の背骨に叩き込んだのは、伝記作家の小島直記先生である。小島先生は、地位や肩書きばかりを追い求め、ありがたがる人を、゛俗物゛と決め付けて、極端に嫌っていた。例えば、名刺の裏にあらゆる肩書きを得々と並べて誇る人と出会った時などは、みるみる不機嫌な顔になった。また、世間では立派な人物と評価されている人達の、虚飾の仮面を引き剥がす小説は、痛快そのものだった。私が、人生において、最も影響を受けた師の一人だ。


 その小島先生が、亡くなられた。月曜日の朝、いつものように、日本経済新聞の朝刊に目を通していた。社会面の下に、顔写真入りで、「伝記作家小島直記氏、死去」とあった。新聞の記事は、「明治以降の政財界人の人生を描き、独自の伝記文学の世界を築いた作家の小島直記氏が、十四日午後二時十四分、多臓器不全のため神奈川県内の自宅で死去した。八十九歳であった。告別式は近親者のみで行う」とある。


すぐに妻に伝えた。「うそっ」と、妻も驚く。「本当だ」と私。地位・肩書き、位階・勲章を極端に嫌い、「権勢を誇るような葬儀はまかりならぬ」と常々言い続けてきた先生の声が、記事の行間から聞こえてくるようだ。


 私は迷った。すぐ駆けつけるべきか、日を改めて弔問すべきか。身内だけでひっそりと送ろうとしておられるのに、私が出掛けていくことは、かえって失礼ではないだろうかとも考えた。しかし、妻が横から、きっぱりと言う。「後から来られるのは、かえって迷惑。日を改めるのは、こちらの都合でしょ」と言う。私は、その一言に促されて、すぐに航空便を手配して、神奈川県の逗子にある、小島先生の家に向った。小島先生にひときわ可愛がられた松下政経塾卒業生の金子一也氏も一緒だ。


 小島先生の自宅は、静まり返っていた。玄関のベルを押したら、平服姿の奥さんが出てこられた。側にお孫さんが立つ。家の中にいるのは、二人だけだ。持参した花さえ、何となく場違いな感じがするほど、家の中は普段のままである。小島先生は、狭い寝室に置かれた夫婦のベッドの一方に、入り口に頭を向けて横たわっておられた。顔に掛けた白い布がなければ、静かに休んでいる老人の姿だ。私は、小島先生の額に触れた。冷たかった。「大事なことを、色々教えていただきありがとうございました」と頭を下げた。ベッドの脇に、静かに線香が焚かれていた。


 「地位・肩書きで人を魅了することはできない。高い志を持て」。そんな厳しい声が、聞こえた気がした。 

りんご哲学者

2008年9月 4日 上甲晃 |

CIMG3701.JPG 青森県弘前市のりんご農家である木村秋則さんは、今、全国各地から求められて、日本中を駆け巡っている。「食べる物を健康にしなければ、日本人を健康にできない」と信じて,農薬も肥料も使わない農業の普及に、各地を走り回っているのである。今回の『青年塾』サマーセミナー最終日、弘前市郊外、岩木山の麓に広がるりんご園に、木村さんを訪ねた。サマーセミナーの実行委員長である伊藤一弘君が、「とにかく木村さんをつかまえるのが大変でした。ほとんど出かけておられる上に、携帯電話を持たない。連絡がつかないのです」と言う。その横で、木村さんは、前歯の欠けた口を開いて、いかにもうれしそうに笑う。
木村さんは、不思議な優しさをかもし出す、魅力的な人である。先ず何よりも、言葉遣いが良い。私は、言葉遣いの良い人が、大好きである。言葉遣いの良い人は、思考が哲学的で、物事の真理をつかんでいる。それは、高い志を持ち、理想に燃えて、血のにじむような実践を続けてきた人達が到達した゛名人の台詞゛でもある。
CIMG3704.JPGりんご園の一角に止めた軽自動車を背にして、木村さんが話し始めた。いきなりから、ぽんぽんと、魅力的な言葉が飛び出てきた。
「りんご栽培の主人公は、りんご。私が育てていると思っている間は、うまくいかなかった。私は、ただのお手伝い」。
「こびりついた常識。常識をまず、疑ってみなければならない。私達が常識と思い込んでいるうちの半分は、間違っている」。
「食べる物を通して、心は良い方向に働くもの。食べ物が脳の一部を刺激して、人間の心を輝かせる」。
「消費者を教育しながら、生産者の意識を改革していく」。
そもそも木村さんが、無農薬、無肥料の農業に取り組み始めたきっかけは、奥さんの病気にある。りんごに農薬を盛んに散布していたころ、一緒に作業している奥さんの体調が非常に悪くなった。その様子を見て、農薬を使うものだという常識を疑ってかかった。農薬を一切使わない、肥料も一切使わない。りんごそのものが持つ゛育つ力゛を存分に発揮させるように土を整える。木村さんの挑戦は、苦闘の連続であった。最初の七年間は、りんごが実らなかった。りんご農家にとって、りんごが実らないことは、死活問題だ。周りからは、当然のごとく、冷笑された。その苦労の歩みは、NHKの番組を通じて、全国に知られた。
 木村さんの話を聞く『青年塾』塾生達の周りに、りんごが豊かに実っていた。木村さんが育てる無農薬・無肥料のりんごは、今や、貴重品だ。

枝豆の誕生

2008年8月19日 上甲晃 |

枝豆が三つ 「あっ、枝豆ができている」。そんな孫の驚きの声が、聞こえてきた。私は、すぐさま、孫のそばに走り寄った。二十九本並んでいる大豆の茎の一本に、確かに枝豆が三つ付いている。そっと上から触ってみたが、鞘の中にマメの手ごたえはない。これからが楽しみだ。


 私が主宰する『青年塾』の今年の研修課題の一つは、大豆の栽培と加工に取り組むことである。今、全国各地で、八十人以上の塾生諸君が、自宅で大豆を育てている。私も、大豆を栽培することにした。


 まず、゛地大豆゛探しから始まった。「そもそも、゛地大豆゛とは何か?」。こんな時、すぐにインターネットに飛びつくのが普通だ。ところが、インターネットで、゛地大豆゛という言葉は検索できないと聞いた。゛インターネット依存症゛にかかってしまっている時代に、インターネットで調べられない課題を決めたのは、大正解だった。インターネットがだめなら、自ら足を運んで、調べて歩くしかない。それが、私の願うところなのだ。


 四月、入塾式の時、それぞれの土地に固有の伝統種である゛地大豆゛を全員が持参した。中には、゛地大豆゛と、地納豆とを間違えて持ってきた人もいる。また、ある人は、「絶対に内密」との約束で、農家からもらい受けた人もいた。要するに、゛地大豆゛を探し出すだけでも、みんなは思いのほか、苦労した。『青年塾』では、苦労することこそが、学びの基本と考えている。塾生諸君は、゛地大豆゛を身に染みて、理解したはずだ。


わが家の裏の塀沿い 私は、農業関係の会社に勤務する姪に頼んで、゛地大豆゛を確保してもらった。その名を、「さちゆたか」と言う。大阪府茨木産だ。六月中旬に撒くようにと教えられたので、六月十五日きっかりに、三粒づつ、三十センチ間隔で撒いた。場所は、わが家の裏の塀沿い。斜面になっているので、日当たりは申し分ない。それなりに、畑らしく一畝を耕した。やがて、芽を出し、花が咲き、枝豆が付いた。来週から始まるサマーセミナーには、「枝豆持参」との宿題が出ている。はたして間に合うか。


 農業を営む塾生から、「あなたの゛自分自給率゛はどれくらいですか?」と聞かれた時は、ショックだった。日本の食糧自給率がカロリーベースで四十パーセントを切っていることは、国として大問題だと指摘してきた私ではあるが、自身の食料自給率はゼロだった。食糧難に陥れば、最初に飢饉に見舞われる組だ。これからは、゛マネー゛より、゛命゛の時代だ。


どれほどお金を儲けても、食べる物がなければ生きられない時代を迎えている。゛自給自足゛こそ、時代のキーワードになってきた。

※このデイリーメッセージは「アイビーエム・ユーザー研究会」ホームページにも掲載しています。

花と武士道

2007年1月14日 上甲晃 |

 世の中、園芸ブームである。゛ガーデニングブーム゛と呼ぶ。イングリッシュガーデンは、とりわけ人気があるとも聞く。私の家の付近でも、実に色とりどりの花を咲かせて楽しんでいる人達が多い。ところが、昔、肥後藩では、殿様の肝いりで、花作りを精神修養として励んできたと聞いて、大いに驚いた。と同時に、昔の日本人は、花作りを単なる趣味としてではなく、花を栽培し、鑑賞する方法について、高い精神性を求めてきた事実に、改めて感心もし、誇りにも思った。
 そもそも私がそのことを知ったのは、全日空の機内誌を見ていた時のことである。「日本人のたしなみ」に興味を持っていた私は、熊本に本拠を構える再春館という名の製薬会社が出していた広告の片隅にあった、虫眼鏡がなければ読めないほど小さな文字に注目した。「細川藩第六代藩主の細川重賢は、武士の精神修養として、肥後六花を栽培し、観賞した」とあった。初めて、肥後六花のことを知り、熊本の人達に詳しいことを聴いてみた。残念ながら、誰も名前こそ知っているものの、詳しいことを知らないと言う。そこで私は、熊本県庁に勤務する山下慶一郎さんに、「これは宿題」と言って、調べてもらうことにした。
 山下さんは、私が熊本を訪ねた日、「熊本の植物界では第一人者」と言われている大御所を伴って、私の講演している会場に現れた。その人の名前は、今江正知さんと言う。膨大な資料を持参しておられるので、いささかたじろぐ思いをした。専門的なことを知りたいわけではない。いったい、細川藩では、園芸を通じて、どのような精神修養をしていたのかを知りたかっただけである。大御所にお出ましいただくほどのことはない。恐縮しながら、大御所の横に座った。
 大御所はいきなり、「園芸はそれを育てる人達の思いや考え方によって、作り上げられていくものであり、文化の反映である」と言われる。「園芸にはひとつは、商売人が作る花があります。それは、見た目が良いものです。それに対して、武士が育てる花は、人の目にどのように映るかよりも、自分の価値観に合い、自らの生き様にふさわしい物を作ります」とのこと。なるほど、武士は自らの価値観を、園芸に投入したのである。
 ちなみに、武士はどんな花を好んだのか聞いてみた。「武士がめざしたのは、気品があって、清明、端正、豪壮な花です」と答えが返ってきた。まさに、゛花と武士道゛である。肥後六花とは、菊、朝顔、芍薬、椿、花菖蒲、山茶花を指して言う。私は、だんだん興が乗ってきて、身を乗り出した。実にいい。日本人は、やっぱりすばらしい感性を持つのだ。

『青年塾』諸君への手紙

2006年12月 5日 上甲晃 |

 クラス別の研修も、第三回目に入りました。北クラスと東クラスは、既に第三回目の研修も終えました。そしてこれから、東海クラス、関西クラス、西クラスを、三週連続で開催します。三回目のクラス別研修が終わると、いよいよ、一月に開催する松山講座、二月に開催するクラス別自主講座を経て、三月九日からの出発式へと向かいます。゛第三期生の研修も、日程的には、いよいよ最終盤に入っていきます。しかし、エネルギー的には、これからが本番とも言えるでしょう。いっそう、本腰を入れていただかなければならない時がきたようです。
 クラス別に現状を見ると、非常に雰囲気が盛り上がっているところもあれば、いささか先行きの運営に不安感が伝えられるところもあります。しかし、私はあまり心配していません。すべてのクラスを最高の状態で仕上げるのは、私の責任です。これから、諸君とともに、「最高の青年塾」、「十期が最高」と胸の張れる仕上げをしていきましょう。゛終わり良ければ、すべて良し゛です。


一人一人の心に、゛志の樹゛を根付かせたい
 そのためには、何よりも、みんなの『志』が問われます。諸君の心の中にしっかりと、『志の樹』が育ってくれば、どのクラスも最高の状態で仕上げられるはずです。もし、何らかの事情で、クラスの運営がギクシャクするとすれば、塾生諸君の『志の樹』が、成長不良になっているからです。
 先日、東クラスで訪問した山形県長井市。農業者が、市内五千世帯の台所から出る生ゴミを活用して土作りを進め、その土で有機野菜を生産し、再び台所に戻す運動を展開しています。名づけて、゛レインボープラン゛。台所と農家の間に、゛夢の虹橋゛を架けようという、実に壮大な『志』の取り組みです。゛レインボープラン゛の最大の特徴は、行政主導ではなく、農業者から発案されたところにあります。農業者の『志』から生まれた構想であるところが、私がこの構想に惚れ込んでいる理由の一つです。


長井市のレインボープランに学ぶ志 
長井市には、志の高い農業者が、何人もいます。中でも。つい最近まで、゛レインボープラン゛の会長職にあった菅野芳秀さんは、『青年塾』の講座のたびに塾生諸君に話をしてくれます。その話の内容に、私は、惚れ込んでいます。何よりも、言葉使いが良いのです。こんな風な言葉遣いのできる人は、よほど哲学的な思考ができる証拠であります。                                        言葉の裏に潜む哲学的思考に、私は、ぞっこん惚れ込んでいると言うべきかもしれません。
 「食糧の危機は、国家の危機」と、菅野さんは言います。食糧飢饉を本気で心配しているのです。゛飽食日本゛の中で、食糧飢饉を心配する人など、まれです。「日本人は、北朝鮮の食糧飢饉を気の毒に思うかもしれないが、食糧自給率は七八パーセント。それに対して日本は、穀物で二七パーセント、カロリーベースで四〇パーセント、北朝鮮のことを云々している場合ではない。日本の農業は、回復不能。もはや戻ることのできない危機にある」と、現状の深刻さを訴えます。


「嘆き節からは何も生まれない」 
 「しかし」と、菅野さんの持論が始まります。「嘆き節からは、何も生まれません。与えられた条件の中で、常に最善を尽くすことが大切です」と切り出して、熟した柿にたとえます。「熟した柿はやがて朽ちて滅びます。しかし、朽ちた柿の実の中には、ちゃんと種があり、未来への可能性を秘めています。危機の中にも、可能性がいつも秘められているのです」と言います。うまい言い回しに、私は、思わず引き込まれました。このあたりが、菅野さんの話の実に魅力的なくだりです。
 私が、ぜひとも塾生諸君に伝えたいと思ったのは、次の一言。この言葉をぜひとも心に刻んで、これからの各クラスの仕上げに取り掛かっていただきたいと思います。
 「批判と反対からは、基本的に、何も生まれてきません。批判と反対は、仲間の心を、離れ離れにする心の冷たさを持っています。仲間を肯定し、相手を肯定するところから、プラスのエネルギーが沸いてきます。どんな時でも、対案と建設的意見を持って参加すれば、そこに希望が生まれ、足し算の論理が成り立つ。あなたはすばらしいと認められた時、人は、私は認められている、私は必要とされていると感じられるのです」。まさに、『青年塾』で、私がいつも求め続けている姿です。
「人の批判をするな。゛せめて私が゛の心構えだ」
 「人のことを言うな。そのように思うのならば、せめて私は、先頭に立ってみんなのために力を尽くそう」。『青年塾』塾生の基本的な心構えです。もしも諸君がそのような心構えで人生を送ることができたら、既に諸君は、゛人間一流゛の道に入り、幸せな人生を手に入れることができること間違いなしです。私達は、人を批判できるほど、立派ではないのです。「人に求める前に、自らを正す」のです。
 組織の中で、「誰が悪い、彼が悪い」などと、厳しい批判をしている人の言葉を聞くにつけ、私は、「そんな風に人の批判をしているあなたが、組織に悪い風を吹かせている張本人」と、厳しく問いかけたい気持ちになります。仲間を肯定し合う風土は、青年塾の目指すべき、一番の特徴です。ぜひとも、そのことを心がけて、山場を乗り切ってください。
         『青年塾』塾長 上甲 晃

今村大将

2006年11月 6日 上甲晃 |

 今村 均などといった名前を、今の若い人は誰も知るまい。大東亜戦争の時、ジャワ(今のインドネシア)に派遣された部隊の総大将である。私も、今まで、名前程度しか知らなかったから、若い人に偉そうなことは言えない。『夢甲斐塾』の研修として、今村 均大将について詳しく知る機会があった。正直なところ、「こんなに責任感のある、立派な指導者が日本軍にいたのか」と驚くとともに、大いに尊敬の念を抱いた。指導者とは、かくあらなければならないと、教えられた。
 今村 均大将は、いつも聖書と歎異抄を携えていた事実一つ取ってみても、人間的に立派であったことは、よくわかる。しかし、その人間性の立派なことは、戦争後に遺憾なく発揮されたのある。戦犯としての囚われの身から開放された後、自らの自宅の庭に、三畳一間の小さな小屋を建て、八十四歳で亡くなるまでの十四年間、部下に対する責任を果たすために、自ら謹慎の伏屋の中で謹慎をし、亡くなった兵隊達の霊を慰めるために、全国を行脚したのである。
 今、今村大将が、自ら、謹慎するために建てた伏屋は、山梨県韮崎市の小高い丘陵の上にある。今村大将のかつての部下であった中込藤雄さんが、大将の亡き後、焼き捨てる運命にあった小屋を貰い受けて、自らの家の庭に移築し、今日まで守り続けてきたのである。九十歳になった中込さんは、まるで今村大将の魂を守るかのように、伏屋を大切に維持管理するとともに、多くの人達に紹介してきた。
 私達一行は、中込さんが開けてくれた伏屋の中に入った。押入れと上がり口のたたきを除けば、畳三枚だけ。聞くところによると、巣鴨刑務所の独房と同じ広さ。違うのは、刑務所には三畳の中にトイレがあるが、ここにはない。今村大将は、家族の誰にもこの部屋に入ることを許さなかった。ひたすら、自らを慎み続けたのである。戦後、位に就き、あるいは財を成した元軍人幹部とは、対照的な生き方を選んだのだ。
 私達八人が入ると、三畳の間は身動きが取れない。「中は、閣下が生きておられた当時のままです」と、中込さんが説明してくれる。伏屋の中で書を読む今村大将の写真がある。押入れを開けると、大将が片時も話さなかった聖書がある。そのほかに、戦後、几帳面に集めた新聞などの切抜きをしたノートが並んでいる。既に変色した新聞の切抜きを見ていると、戦後の世相や社会風潮に対する深い嘆きが伝わる。細かい字で書き込んである鉛筆書きの文字もまた、今村大将の国を思う気持ちにあふれていた。

第29回『志ネットワーク』全国会議を開催

2006年10月15日 上甲晃 |

第29回『志ネットワーク』全国会議を開催
   大荒れの天候下、参加予定者が全員集合


青森・八戸で熱く交流 
 横殴りの雨。傘を飛ばしてしまいそうな勢いで吹きまくる風。八戸駅にたどり着くまでが大変だった。八戸駅の裏口に停車しているバスに乗り込んだ時には、上から下まで、ずぶ濡れである。出迎えのバスに乗って待っている参加者達は、異口同音に、「いやあ、手荒い歓迎ですな」と言う。第二十九回『志ネットワーク全国会議』は、青森県八戸市で開催された。八甲田山の紅葉を楽しむのにはこの時期が最高、ということから決められた日程である。しかし、当初の思惑とは反対に、台風並みの低気圧に見舞われた。発達した低気圧に、台風が合流したのだから、並みの荒天候ではなかった。
 会場は、太平洋をすぐ目の前に楽しめるはずのホテル。この日は、怒涛のように押し寄せる高波の海である。シーガルビューというホテルの名前は、゛カモメが見える゛といった意味だ。ところが、カモメの姿など、どこにも見えない。荒れ狂う波と風雨が、ホテルの窓を叩く。何よりも、参加者は、会場までたどり着くのに、大いに苦労した。お互いが顔を合わせると、まず苦労話で盛り上がる。
 東北新幹線がほぼ平常どおり動いていたのは、助かった。飛行機を利用した人達が、一番苦労したようだ。青森の空港に着陸できないので,欠航になったり、引き返したために、容易にたどり着けなかった。「海外旅行以上に時間がかかった」と言いながら、最後に到着したのは、大阪組の四人。既に夜の八時を大幅に過ぎていた。しかし、一人の欠席者もいなかった。参加の申し込みをした人達は、全員、万難を排して、会場までたどり着いたのである。今回の会議の世話役である八戸在住の畑中大吉さんは、「こんな天候にもかかわらず、一人の欠席者もなかったことがうれしい」と、感激する。天候が大荒れすると、みんなが顔をそろえただけでも、感動と感激が広がるのである。
 スケジュールは、初日、シーガルビューホテルでの勉強会。元八戸市長の中里信男さんが、「北奥羽の沿革と将来像」について、また八戸みなとみらい漁協組合長の熊谷拓治さんが、「人間、このすばらしきもの」と題して、講演していただいた。そして、八戸が誇る食材を駆使した夕食会で、大いに盛り上がった。また二日目は、十和田にある稲生川取水の用水を見学した後、八甲田、奥入瀬渓流、十和田湖を巡った。そして解散した翌日、秋の空は抜けるように青かった。
 「荒天候、それもまた良し」。ある人は、「この大会のことは決して忘れないでしょう」と言う。行くのに苦労した分、旅の記憶が鮮明に心に刻まれる。いつまで、「八戸での全国会議は、すごい風雨でしたね」と、語り草になるはすだ。
幹事役の畑中さんと、畑中さんを手伝った、八戸在住の『青年塾』塾生諸君の働きは、実にすばらしいものであった。天候が荒れれば荒れるほど、応用問題がたくさん発生する。朝の魚市場の見学は取り止め。バスを降りると、決まって雨の中を歩かなければならない。困難の連続である。しかし、困難が、かえって印象深い全国会議を演出してくれた。

プランクトン

2006年8月 2日 上甲晃 |

 畠山さんの本拠地は、奥まった湾の、さらに入り江になっている中にある。気仙沼の港から乗った観光船は、そこに静かに横付けされた。赤松の生い茂る、緑豊かな地である。海は、まるで池のように静かである。入り江の入り口に当たるところには、牡蠣のいかだが並んでいる。畠山さんは、「この海もすっかりよみがえりました。森に木を植え始める前、海にはゴミも多く、赤潮が発生して、ひどいものでした。私の目から見ても、海はよみがえってきています」と教えてくれる。
 私達一行は、畠山さんのところにある二隻の船に乗り込んだ。一隻は、懐かしい伝馬船である。ただし、櫓が四本あり、六人でこぐようになっている。「誰かこいでみたい人いませんか」と、畠山さんが呼びかける。早速、手が挙がる。妻も、「やりたーい」と、手を挙げる。櫓をこぐ指導してくれる元漁師さんが、「学校の生徒達が来た時にも、こいでもらいます。なぜか、生徒達はすぐにこげるようになるのに、先生方がいつまで経ってもこげないのです」と、面白いことを言う。
 何人もの塾生諸君が、伝馬船の櫓をこぐことに挑戦する。元漁師さんは、「この人達は物覚えが言い」と感心する。常に現場で身体を使って仕事をすることを教えてきている成果が、こんなところに現れるのかと、こちらがかえって新しい発見をした。頭で櫓をこぐことはできない。全身を使って動くことを、これからもしっかりと教えていきたいと、改めて教えられた気がした。妻も、子供のころを思い出して、嬉々として櫓に挑んだ。
 畠山さんが、プランクトンを採取してくれる。筒状になり、末端に採取用の容器が付いている白い布を海に落とす。そして引き上げて、目をこらして見ると、海水にプランクトンの混じる様子がわかる。畠山さんは、海水をコップに移して、見やすいようにしてくれる。
 塾生の誰かが、「飲んでもいいですか」と聞く。「牡蠣や魚のえさになるものですから、有害ではありません。多くの人達が飲みましたが、お腹をこわしたとは聞きません」と畠山さん。誰かが、少し口をつける。このあたりも、すぐに行動に移す『青年塾』の特徴だろう。私も、口にしてみた。海水の塩味がする。プランクトンに味などない。
 カツオのえさになるカタクチイワシ、あるいは牡蠣、アワビやウニなどは、プランクトンをえさにしている。畠山さんたちが十七年間、水源地に落葉樹を植え続けてきた成果が、ここに現れたのだ。海水と川の水が混じる汽水域で取れる海産物は年間二十億の売り上げです。そのうちの九割は、大川が運んできた養分のおかげだそうだ。

森は海の恋人

2006年8月 1日 上甲晃 |

 館ヶ森のアーク牧場から、三陸海岸の気仙沼に向かう途中、地元産品の直売所に立ち寄ったのは、トイレ休憩のためであった。直売所の看板には、室根村とある。かなたに、室根山が見える。この室根山が、これから訪ねる畠山重篤さんが、十七年間、木を植え続けてきた山である。
 畠山重篤さんは、私達一行を、船着場で待っていてくれた。畠山さんは、「会議室のようなところで話をするよりは、船の上で説明をしましょう」と、申し出てくれた。おかげで、気仙沼湾の美しい景色を舟から眺めるというすばらしい機会を与えられた。大きく入り込んだ内海、そして海に突き出た唐桑半島。長雨にたたられていささかうんざりしていた私達一行を歓迎するかのように、空はどんどん晴れ上がり、陸地の緑がますます映える。海の青さと木々の緑が、印象的である。
 畠山さんが、マイクを握る。「気仙沼と言うのは、アイヌ語で、ケセモイといいます。ケセは゛終わり゛、モイは゛入り江゛の意味です。つまり、アイヌの人達から見れば、端の港なのでしょう。この気仙沼は、カツオの水揚げでは日本一です」と言いながら、港に並ぶカツオ船を指差す。「あれが三重県から、あれが鹿児島県から、あれが和歌山県から」と次から次に現れる船が、どこから来たかを教えてくれる。畠山さんの説明を聞くうちに、カツオ船が全国のあらゆるところから気仙沼に集まっていることが、よくわかる。「なぜ、この気仙沼でカツオ漁が盛んなのか?」、畠山さんの話は、船のスピードに合わせるかのように、確信に入っていく。
 「カツオのエサは、生きたカタクチイワシです。カツオは冷凍のイワシでは食いつかない。生きたイワシの群れに飛びつく。そのために、生きたイワシが手に入りやすい気仙沼が、カツオ漁の基地になったわけです。それでは、なぜ、カタクチイワシが、気仙沼で手に入りやすいか。カタクチイワシは、川が海に流れ込む汽水域に生息します。気仙沼湾には、大川から豊かなプランクトンが流れてくる。そのために、カタクチイワシが、大量に取れるのです」。畠山さんの話は、早くも核心に迫る。
 牡蠣の養殖は、汽水域で行う。「何もエサはやりません。ただ海水の中に吊るしておくだけで、牡蠣が育つ。かつて漁師達は、海からエサが来ると思っていました。ところが違った。エサは、川の流れに乗ってくる。それは水源地にある落葉樹が豊かであればあるほど、豊富になる。カタクチイワシが集まるのも、牡蠣が立派に育つのも、すべて、プランクトンが川の流れに乗って海に入り込むからです。だから森に木を植えなければならなかったのです」。゛海は森の恋人゛の理由が解き明かされた。

小泉内閣メールマガジン 特別寄稿

2006年7月20日 上甲晃 |

公務員こそ、『志』!

 4月6日、国家公務員合同初任研修2日目。「君の志を問う!」と題した1時間半の講演を終え、肩で息をしながら、控え室に戻った。全身に汗が流れる。その汗をぬぐう間もなく、「受講生の1人がお目にかかりたいと来ておりますが、通してよろしいか」と、主催者が聞く。断わる理由はない。「どうぞ」と、私は控え室の入り口に向かった。そこには、1人の背の高い青年が立っていた。

 「公務員になって、志の話を聞くのは初めてです。感動しました。ありがとうございました」。青年は、いっきにしゃべった。私は、「ありがとう。君にそのように言われたたけで、僕はここに来たかいがある」と感謝の言葉を述べながら、「公務員こそ、『志』です。ましてあなたのようなキャリアの公務員(1種職員)は、全身、『志』の塊でなければならないし、そこに公務員であるあなたの生きがいがあるはず」と激励した。

 「公務員は、安定しているから」と、就職の理由に挙げる人が多い。私はかねがね、それがいかに本音であったとしても、公務員たる者は、口にすることさえ、許されないと思ってきた。公務員は、「天下のために、自らを捧げることの出来る精神を持った人」である。だから、『志』のない公務員は公務員と呼ばない、"私務員"である。

 公務員が社会的評価を得るのは、許認可権限を持つからでもなく、生活が安定しているからでもない。公務員が尊敬される理由はただ一つ、『自らを犠牲にしてまでも、天下のために献身的に働く』からである。その意味で、公務員は、国民の鑑(かがみ)であるべきだ。その鑑が、いつの間にか、こなごなに割れてしまってはいないだろうか。

 公務員宿舎の家賃が、相場の10分の1といったケースもある。公務員が、『天下のために献身的に働く』姿を国民が目の当たりにしていたら、世論は、「私達のためにこれだけ働いてくれているのだから、当然だ」と思うだろう。逆に自分の利益のためにだけ働いていたら、「けしからん。許されないことだ」と思う。

 公務員こそ、公のために献身的であれ。公務員の精神の建て直しは、日本の建て直しの第一歩である。

小泉内閣メールマガジン 公務員の志とは

高野さんの志

2006年6月15日 上甲晃 |

 リッツ・カールトン・ホテルについて、日本支社長の高野 登さんは、二時間、熱く語ってくれた。
 私は、いきなりから、話に引き付けられた。高野さんは、まずリッツ・カールトン・ホテルの歴史から話を始めた。「千八百年代の中ごろ、パリのパンドーム広場にホテル・リッツが開業しました。創業者のセザールリッツさんは、゛ホテルの非常識゛をいくつも試みました。当時のホテル業界では考えられないような非常識なことを次々に試みたのです。例えば、ホテルのロビーに、大きなお花を飾りました。各部屋にシャワーをつけました。お客様の好みに関する顧客情報を記録して管理するようにしました。また、レストランで、自分の好きなものが食べられるようなアラカルトを始めたのも、セザールリッツさんが初めてです。いずれも、今は゛ホテルの常識゛になっていることばかりです。しかし、当時は、ホテル業界の誰もが考えたことのない、゛非常識゛だったのです」。
 リッツ・カールトン・ホテルは、セザールリッツさんの゛非常識への挑戦゛の遺伝子を受け継いでいると、高野さんは、話を切り出した。「リッツとカールトンの二つのホテルが一つになり、一九八三年、ホテルをヨーロッパでなく、アメリカで展開し始めた。ホテルの建設が始まってから、本当に新しいホテルが必要なのか、我々が新しくホテルを作ることにどんな意味があるのか、そんな議論を徹底して行いました。結論は、ノー。わざわざ我々がホテルを開く意味がないということになりました。そして、我々がやる限りは、ホテルをもう一つ作るのではなく、社会に゛ラグジュアリー(豪華な豊かさ)゛を創造するところに意味があるとの結論に到達しました。私達が、ホテルのサービスやホスピタリティに対する考え方を変えることが出来るかどうか、私達の真価は、そこで問われるのです」。
 高野さんの話には、DNA、遺伝子という言葉がしばしば登場する。企業としての゛遺伝子゛とは、その企業の存在に関する根本的な意義とも言える。リッツ・カールトン・ホテルは、名前はホテルではあるが、実際には、「ラグジュアリー(豪華な豊かさ)を新しく創造し、提供する」ところに存在理由を求めているのである。
この点は、まことに大切なところである。自らの存在の根本理由が明確でないと、サービスの方向も従業員が力を発揮する方向も決まらない。私が高野さんの話に共鳴・共感する最初のポイントはここにある。企業のDNAとは、私なりの表現では、『志』である。企業に、『志』がなければ、力強い活動など出来るはずがない。

アグリツーリズムを体験

2006年6月14日 上甲晃 |

  アグリツーリズムを体験
来年の三月末から四月初め開催

感動を独り占めしないのが、私の方針。自らが感動したら、その感動を多くの人達と分かち合いたい、それが私の思いです。かねてから、イタリアのアグリツーリズムが魅力的だと聞いていました。農家に滞在する旅行がはたしてどんなものか、今年の春に、夫婦で実際に経験してきました。二十年前からイタリアが力を入れてきたアグリツーリズムだけに、なかなか快適であり、滞在型の旅行として感動的でありました。゛アグリツーリズム゛は、イタリアが先進地。農村ホテルに滞在して、農家の暮らしを体験するツアーです。今年、私達夫婦が滞在した゛丘の上ホテル゛は、日本人旅行者としては、初めて。しかも、あまり観光化し過ぎていないところも魅力的でした。おいしいワイン、素朴な人情、美しい景色、来年はご一緒にいかがですか。皆さんのご希望があれば、ツアーを計画したいと思います。宿の主人には、「今度は友達を連れてくる」と約束しました。今回は、初めての試みとして、「みんなで作りあげるツアー」を考えています。すなわち、最初に希望者に手を挙げていただき、内容はみんなで考えながら進める方式です。日程だけは、来年の三月末から四月初めの一週間から十日を予定しています。「今のところ参加してみたい」と思う人の参加を募集します。応募いただいた方々と、これから一年近く、様々な相談をしながら、そのことも一つの楽しみにしたいものです。とりあえずの案としては、農村ホテルに半分滞在して、後の半分は、フィレンツェ、シェナ、ローマなどの歴史のある街に滞在することを考えています。゛お仕着せのパックツアーから、゛自分たちで作りあげる旅゛へ。旅の進化をめざしてみたいものであります。

リッツ・カールトンの人気

2006年6月14日 上甲晃 |

 十年前、大阪駅のそばにリッツ・カールトン・ホテルが開業した時、「ヨーロッパスタイルのいいホテルが出来たな」といった程度にしか受け止めていなかった。知人の中には、「迷路のようなホテルだ」と言う人もいた。確かに、フロントの位置やエレベーターの位置がなかなかわからない。廊下もまっすぐになっていないので、部屋を出てから、しばしば面食らうこともある。そんな変なホテル(?)に関心を持ったのは、日経ビジネス誌で、「サービス日本一」として取り上げられた時からである。とりわけ、ザ・リッツ・カールトン・ホテル日本支社の支社長である高野 登さんと知り合って以来、その魅力にすっかり取り付かれるようになってきた。
 高野さんは、私よりも一回り下の巳年生まれ。初めて北九州で出会った時、その紳士ぶりが気に入り、話が大いに弾んだ。わずかな回数しか会っていないのに、゛魂の共鳴・共感゛が起きて、何十年来の友人のように親しくお付き合いを始めた。『リッツ・カールトン・ホテルのサービスに学ぶ勉強会』は、そんな出会いの経過から生まれたものである。
 それにしても、リッツ・カールトン・ホテルの人気振りには驚いた。最初の計画段階で、私は、何とか五十人には集まってほしいと思った。ところが、呼びかけ始めると同時に、次から次へと申し込みが相次いで、あっという間に五十人を越えた。あわてて、会場をさらに大きな部屋に変更して、定員百十人までの研修室を押さえた。その定員も、とうとう満員になり、大盛況の勉強会になった。それほど、リッツ・カールトン・ホテルの人気は高かった。私はまずそれに驚いた。
 夕食会は、予算一万五千円。「立食は嫌。きちんと座って食事をする方式」と、私が強く要望した。食事会の会場は、ドアーを開けた途端、驚くほど豪華に、そして華やかに設営されていた。照明の具合も、ムードを盛り上げてくれる。椅子はすべて白いカバーが掛けられて、快適だ。勉強会参加者を対象に、希望者を募集したところ、ほぼ半分の五十四人が参加、豪華な夕食会を堪能した。アルコールはフリー、食事は大変においしいと、参加者の間で、大好評だった。
 宿泊希望者は、食事会参加者のほぼ半分。宿泊代金となると、ぐんと高くなる。大阪のホテルの中では、最高級ホテルの中でも、さらに一ランク高い。それでも、この機会にどうしても泊まりたいと、たくさんの方々が申し出られた。それにしても、リッツ・カールトン・ホテルの人気と、゛ラグジュアリー(豪華な豊かさ)゛を求める社会風潮の高まりを、改めて教えられる気がした。日本は、どうやら成熟化の方向に向かいつつあるようだ。

トスカーナ旅行記

2006年6月13日 上甲晃 |

農村生活を堪能しました
アグリツーリズムを体験

おいしいワイン、美しい景色、人情

 時間に追われ、売り上げ目標に追われ、世知辛い生活に追われ、偏差値に追われる日本人からしたら、スローライフや゛ゆとり゛は、とても心地良い響きをもって聞こえてくる。しかし、イタリアの人達の生活ぶりを見ていたら、とても日本人には受け入れられないことばかりだ。
 トスカーナ州に滞在することが、今回、旅をする一番大きな目的である。とりわけ、この地で盛んな゛アグリ・ツーリズム゛を体験したい、出かけてきたしだい。重たいカバンを持って、次々と移動することはしないつもりだ。しかし、私には、「思いあって、計画なし」。その計画の具体化を担当してくれたのが、ローマ在住の村上佳子さん。インターネットを駆使して、 私の要望に応えるような宿を探し、訪問の計画を策定してくれた。
 トスカーナの景色は、なだらかな丘の連続である。そして、丘の一番高い所に、集落が開けている。日本では、丘の麓に集落があるのに対して、トスカーナでは、決まって、丘の上に集落がある。とりわけ一番高いところには、教会の建物がそびえる。凝灰岩の露出しているところが、渓谷になっている。渓谷以外の土地は、羊を飼育する牧場か、オリーブ、ぶどうの畑である。景色にアクセントを添えてくれるのが、糸杉。ゴッホの絵を思い起こさせるかのように、至る所に、糸杉がすっくと立つ。
 私達が滞在する゛丘の上ホテル゛は、田舎町の駅であるキウージからタクシーでおよそ三十分。村の名前は、「地球の歩き方」の地図にはない。有名観光地を目の色を変えて歩き回る人達とはまったく無縁の世界だ。アグリーツーリズムの宿を売り物にする宿は、名前を゛丘の上のホテル゛と呼ぶ。その名の通り、宿は、小高い丘の上に立つ。そこからの景色もまた、絶景だ。標高千七百メートルのアミアタ山をはじめとして、見渡す限り、千メートル急の山が見渡せる。そして、小高い丘には集落があり、麓には牧場やぶどう畑、オリーブ畑が広がる。
 早春のトスカーナ風景を彩るのは、ピンク色の桃の花やミモザ、そして゛白いとげ゛と呼ばれる、まるで満開の桜のような木々。百年前も、五百年前も、人々は、この景色の中で静かに生きてきたのであろう。ここに来て、初めて、スローライフの意味するところが読み解ける。
 ゛丘の上のホテル゛は、母屋があり、その一階は、フロント、事務所、レストラン。私達の滞在する部屋は、二階の一角にある。すばらしい景観が楽しめる。部屋も快適だ。ベランダに出ると、変化するトスカーナ風景を楽しめる。正面の小高い丘には、小さな集落がへばりついている。この日、宿泊客は私達だけの貸切状態。同行の村上さんの部屋は、母屋と離れた所にある建物。ここは、田舎暮らしを味わえるように、農家と同じの構造になっている。いよいよ、アグリ・ツーリズムの世界に突入である。ちなみに、母屋はかつて、ウサギや鶏などの飼育小屋だったとか。
゛丘の上ホテル゛は、農家の一家が経営する。ホテルに滞在すると、農場の見学ができる。この日、午後四時、ホテルの前に一台の車が止まっていた。私達一行を農場に案内するためである。しばらくしたら、背の高い息子が現れた。ついさっきまで昼寝をしていたのではないかと思うような、大儀そうな動きで運転席に座った。
 私はその若い青年の目を覚まさせるために、矢継ぎ早に質問した。「あなたのホテルはいつ創業したのか?」。「私の家は、百年以上前から農業を営んできました。今から二十年前、父と母が相談して、アグリ・ツーリズムのホテル、乗馬クラブなどの経営を始めました」。「農業は何を作っているのですか?」。「今から案内するブドウ畑、そしてオリーブです。さらに黒豚の飼育、ハムやソーセージ、サラミの生産も手がけています」との答え。次々と、息のつく暇もないほどの速さで質問するものだから、若者の背筋も伸びてくる。「ワインも造るの?」と聞いた。「もちろん、自家生産しています」と若者。段々と、゛丘の上のホテル゛の様子が理解できてきた。若者には、姉がいる。その姉は、ホテルの事務を担当している。まさに、一家総出の多角経営の姿である。
 若者は、年齢二十五歳。「何の疑問もなく、親の姿を見ているうちに、この仕事をしたいと思うようになった」と、きわめて優等生の答えが返ってくる。「若い人は農業をしたがらないのではないの?」と、少し意地悪な質問もぶつけた。「僕はこの仕事が好きだ」と若者は、胸を張る。
 案内してくれたブドウ畑は、はるかかなたまで続く。「あなたが一人で作業するの?」と聞いてみた。「私もします。しかし、後は地元の人二人と、ルーマニアから来ている男が働いています」とのこと。家族総出の経営を、地元の人達と外国人労働者が助ける。
 二百頭の黒豚を飼育する現場は、トスカーナ風景をはるかかなたに見晴らせる傾斜地にある。「これは私の家の敷地より広い」と私は思わず大きな声を出した。豚一頭につき、広々とした一区画の土地が与えられている。三角の小屋に豚一頭。その小屋の敷地は、我が家よりはるかに広い。贅沢な暮らしの豚達である。これなら運動不足になるどころか、大自然の空気を吸いながら、存分に走り回れる。うまい肉になるはず。
 家族総出の経営の圧巻は、母親の経営する乗馬クラブ。ホテルに滞在しながら乗馬を楽しむ人達もいるが、正規の生徒も多い。広大なパドックと、数十頭の馬を飼う小屋を見せてもらった。「農業の多角化をしたかった」と語る奥さん。「後は軌道に乗せるだけ」と、鼻息が荒かった。
朝の七時、窓を開けると、青空が抜けるようだ。まだ太陽は上がっていない。日の出前のトスカーナ風景は、神秘的でさえある。太陽が昇る直前、東の空が輝き始める。それとともに、西の方にある山々が、緑色に輝く。山の頂上周辺に開けた村が、夜明けを迎える。牧場の緑が明るく映える。やがて太陽が、東の山の上に頭を出す。洗面所で身づくろいしている妻に、「日の出だ」と声を掛ける。妻が急いで、ベランダに出る。トスカーナの風景に光が差す。一日の始まりだ。

十期生を迎えて

2006年4月21日 上甲晃 |

『青年塾』第十期生を迎えての入塾式である。

 この日の朝、埼玉県大宮市のホテルを出て、岐阜県瑞浪市に向かった。東海道新幹線の中で、一日から十七日までのデイリーメッセージがすべてそろったことを確認して、ほっと一息ついて窓のブラインドを上げたら、青い空を背景にして、くっきりと富士山が見えるではないか。思わず携帯電話を取り出して、白い雪が日に映えている富士の姿をカメラに収めた。そしてしみじみと、「これから一年間、第十期生と共に切磋琢磨して、一年後再びこの富士山の下で出発式をするのか」と思うと、力が沸いてきた。

 今日は、名古屋で一つ講演をした後、瑞浪に向かう。朝から、どんな話をしたら良いか、構想を練ってみた。

1.主人公
『青年塾』では、あなたが動かない限り、何も動かないことを肝に銘じていただきたい。例えば、研修スケジュールの作成、会場の手配、下見、参加者への案内、講師との折衝、お礼状書きなど、研修に関するすべてのことは、あなた方がやらなければならないのです。私は一切のお膳立てをしません。それは、諸君に、『青年塾』の゛主人公゛になっていただきたいからです。また、『青年塾』に参加したら、「何か教えてもらえるだろう」という受身の姿勢も克服していただきたい。「参加した限りは何かをつかむ」という積極的な主体性をしっかりと持っていただきたい。

2.なぜ歴史を学ぶのか
 古来、歴史を忘れた国民は滅びると言われてきた。歴史を学ばないと、精神が骨抜きになる。歴史は、人間の本質を学ぶための最高の教材である。歴史について無知であると、現在起きていることの意味が分からない。現在起きていることの意味が分からないと、未来が読めない。結局、「今が良ければいい。自分さえ良ければいい」といった偏狭な考え方に陥ってしまう。歴史の学びは、志を学ぶ第一歩である。「坂の上の雲」の時代に生きた日本人は、近代において最も志が高かったと言われている。その時代を学ぶことは、歴史の重要テーマである。

3.なぜ掃除と食事作りか
 人間、身の回りを整え、命に良い食べ物をバランス良く食べている限り、「まともな人生」が送れる。この二つが、人間の゛底力゛であり、生きる上での゛根っこ゛である。

魅力ある男

2005年11月25日 上甲晃 |

 車が、京都府宮津市・天橋立の付け根にある智恩寺の門前に着いた。ここは、日本三景の一つである天橋立の入り口だけあって、門前には、旅館やおみやげ物が軒を連ねている。この日に泊まる予定だと案内された宿は、通りから少しばかり玄関が引き下がっている分、車の中からは、中の様子があまり良く見えない。私には、全国各地の門前町によくある、何の変哲もない宿にしか見えなかった。
 「チェックインは、この宿ではなく、近くの喫茶店で行います」と、案内してくれた株式会社飯尾醸造の社長である飯尾 毅さんが、車を智恩寺のすぐ前にある喫茶店の前に止めた。言われるままに、私達夫婦は、喫茶店に足を運んだ。そして入り口を入った瞬間、その店のすばらしい感性に魅了されてしまった。古木をうまく使った、実にセンスのいい空間が広がっている。何よりも魅力は、みごとな松並木が続く天橋立の洲と向かい合わせに、運河のように目の前に海があることだ。喫茶店は、゛カッフェ・デュ・パンと名づけられている。名前そのままに、内部はゴージャスな雰囲気に満ちている。豪華な椅子に座り、たちまち豊かな気分になる。コーヒーが運ばれてきて、気持ちがさらに和らぐ。
 店で働く人達の服装と接客の態度が、高級感をいっそう高めてくれる。軽妙な会話、行き届いたサービス、物腰の柔らかな態度。わずかな時間しか経っていないのに、すっかり打ち解けてしまう。
 「お泊りのお部屋に案内します」と、若い女性の従業員が声を掛けてくれる。店をいったん出て、門前の通りのほぼ真ん中にある宿まで歩く。そして、最初は何の変哲もない宿と見えた旅館に入る。゛ワインとお宿・千歳」とある。もともとは古びた旅館だったはずの建物が、みごとに蘇り、高級感をかもし出している。一階のレストランとワインセラーを見ただけで、経営者の感性の高さがびんびん伝わる。私は、瞬間、この宿にぞっこん惚れ込んでしまった。通りをはさんだ向かいの建物にも、同じ「千歳」の部屋がある。一階はお蕎麦屋さん。そしてその上が、二万本のワインの一部を収納しているセラーや客室になっている。
魅力ある男が一人いたら、地域全体が魅力的なものになる。山崎浩孝さん、四十五歳。ワイン好きが高じて、北海道小樽で十年以上ワイン作りを学び、今、自らワイナリーを持ち、天橋立ワインをぶどうから作っている。ワインを通じてフランスをはじめヨーロッパに幅広い人脈を持つ山崎さん。その魅力に、日本はおろか、世界中が注目している。山崎さんが注目されると、天橋立も引き立つ。地域は、人によって救われる。

落選の辛さ

2005年11月20日 上甲晃 |

 選挙で当選した人は、゛脚光゛という光を浴びて、まぶしそうである。日の当たる道を歩くことの、何と心地良さそうなことか。誰だって、選挙に出た限りは、まぶしくなるほどの脚光を浴びてみたい。しかし、日の当たる人がいる一方で、日の当たらない道を歩かなければならない人達もいる。当選した人がまぶしい光に目を細めている時、落選した人達は、暗闇の中で懸命に目を見開いて、わずかばかりの明かりを捜し求めている。その差の何と大きいことか。『天国と地獄』、そのままの図である。
野田佳彦さんと渋谷金隆さん 私の主宰する『青年塾』は、かなり前から、松下政経塾の卒業生で、残念ながら選挙に落ちて、浪人中の人達に、研修を手伝ってもらっている。かつては、野田佳彦氏(現在、民主党国会対策委員長)や長浜博行氏(現在、衆議院議員)、さらには山田 宏氏(現在、東京・杉並区長)に手伝ってもらったこともある。一度だけの敗戦で、政治家としてカムバックできた彼らは、幸せである。今となっては、「錚々たる指導陣でした」と胸が晴れるような陣容であった。
野田佳彦氏、中田宏氏、長浜博行氏 現在は、四人、落選中の卒業生に手伝ってもらっている。一人は、大森興冶氏(神奈川で衆議院補欠選挙に落選)、そして桜井雅彦氏(東京・目黒区長選)。さらに今回の衆議院議員選挙で苦杯をなめた谷田川 元氏(千葉から衆議院議員戦況に民主党から立候補)、高橋 仁氏(群馬で衆議院議員選挙に立候補)である。大森氏と桜井氏は、落選一回。それに対して、谷田川氏と高橋氏は連敗してしまった。いずれも、まだ政治の道はあきらめていない。また、あきらめるにしても、今まで応援してくれた人が納得しない限り、簡単に矛を収めるわけにはいかない。
 私は四人と会って、それぞれの苦衷をうかがい知り、こちらまで苦しくなる。私も大学受験で浪人した経験がある。しかし、大学受験の浪人は、一年後に再挑戦のチャンスが来る。また、「滑り止め」といった対応もできる。ところが、衆議院議員選挙は、そんなに簡単にはいかない。
 まず、四年後まで、いつ選挙があるかわからない。とりわけ今回の選挙では、自民党が圧勝したから、人気ぎりぎりまで選挙がないだろう。これから三年から四年、歯を食いしばりながら、雌伏しなければならない。過去に五年雌伏してきて、その上にこれから四年近い雌伏を余儀なくされるのは、並みの試練ではない。まして、次回の当選を、誰も保証してくれない。「また落選するかもしれない」という恐怖が、地獄のように苦しめる。言葉では表せない苦悩の日々を過ごさなければならない。私は、落選者の応援を止めるわれにはいかない。

熱い声援

2005年11月19日 上甲晃 |

 「大阪でのデイリーメッセージ五千号達成・感謝の講演会に参加させていただい時、会場の雰囲気が非常に盛り上がり、熱気がむんむんしていたことに驚きました。私は、今回、高松で感謝の講演会を主催させていただくに当たり、どのようにすればあのような熱気に満ちた講演会が開催できるかをずっと考え続けてきました」。高松空港まで私を迎えてくれた鈴木荘平さんは、ハンドルを握りながら、話し始めた。
 複写はがきを書くことにかけては、人語に落ちない鈴木さんだけあって、講演会の準備も通り一遍のものではなかった。「すべてに最善を尽くす。それ以外にないと思い、考えうるすべてのことはしました」と言う。
 この日の会場の定員は、百五十人。幸いにも、講演会に参加したいと申し出ていただく方が多くて、とてもすべての要望を受け入れられないとわかった時から、鈴木さんは実にきめの細かい対応をしてくれている。例えば、参加を希望すると申し込んできたすべての人達に対して、「お申し込みいただいてありがとう。当日はお待ちしています」とのはがきを出している。はがきをもらった人達は、行き届いた配慮に恐縮した。
おかげで、参加する予定の人達は、「必ず行こう」と思ったことだろうし、その後に、止むを得ず欠席せざるを得なくなった人は、黙って欠席するわけにはいかないと、その旨を伝えてきてくれた。この日、定員百五十人の会場は、きっちり満席。わずかな誤差は、『青年塾』の塾生諸君が立つことによって解決した。
それにしても、『青年塾』の諸君も良く働いてくれた。四国地区在住のほとんどすべての塾生諸君が顔を揃えて、惜しみなく力を出してくれている。普段から、機会を見て塾生諸君の面倒を見てくれている鈴木さんだからこそ、塾生諸君も、馳せ参じたしだいである。
この日会場に集まった人達の視線は熱かった。それは、私が壇上に立った時から、ひしひしと感じることができた。まさに、鈴木さんが当初から目標にした大阪での講演会と同じ雰囲気である。終わった後の拍手も、大阪の時ほどではなかったが、普段の講演会と比べると、はるかに長く続いて、なかなか鳴り止まなかった。私も思わず、自らの身を置く場に困るほどであった。
鈴木さんは、単に人を集めるだけではなく、この講演会の意味を様々な機会に、皆さんに伝え続けてきたのである。そのため、聞きに来ていただく方々の心構えが違っていた。私が感謝の心を伝えるつもりで呼びかけた講演会で、またまた皆さんに感謝し直さなければならなかった。

「命がけ」と言う限り

2005年11月 7日 上甲晃 |

「命がけでがんばります」。政治家が好んで使う言葉である。「死んだつもりでやります」といった表現にもまた、゛命がけ゛と同じニュアンスがこめられている。要するに、「必死でがんばります」と言いたいわけである。ところが、この表現の持つ意味が、どんどん低下している気がしてならない。極端に言えば、「口先だけの表現」に落ちぶれてしまっているのだ。
 先般の衆議院議員選挙で、郵政民営化に反対した自民党議員は、小泉総裁の決断により、離党せざるを得なくなった。選挙の時に、自民党に公認されなかったばかりか、゛刺客゛と言われる対立候補まで立てられて、離党の悲哀を味わったことは、記憶に新しい。泣く泣く、議席を諦めた人もいるし、選挙に敗れ去った人もいる。
 私が問いたいのは、その後だ。当選して後、自民党に戻りたいあまり、郵政民営化反対から賛成に転じた人達てある。「選挙結果に民意が表れた。民意に従う」などと屁理屈を言う。とんでもない人達である。こんな人達は、一日も早く、政治家を辞めてほしい。舌の根も乾かないうちにという表現があるが、節操のなさこそ、政治家失格の烙印を押す最大の理由である。
 政治家は、自らの決断の一つ一つに命をかけるべきである。「命をかける」とは、その決断により、゛打ち首゛になっても致し方ないという覚悟のことを指して言うのである。事実、昔なら、打ち首、さらし首、少し寛大に扱われたとしても、切腹ものだ。昔の人達は、本当に命をかけて決断し、行動した。とりわけ、指導者はすべてにわたって、命をかけていたのだ。指導者の迫力は、「本当の命をかける」ところから生まれてきた。
 時代が変わったから、本当の命など奪われないし、問われることもない。その結果、゛口先だけの言葉゛になってしまったのだ。政治家を始め、各界の指導者に迫力がなくなってきたのは、本当の「命がけ」の覚悟がなくなってきたからだ。政治家なら、本当の命は問わないとしても、政治生命ぐらいはかけるべきだ。自らの決断の結果、政治生命を失ったとしても、「覚悟の上」と腹をくくるべきである。
 「民意に従う」と郵政民営化賛成に転じた政治家諸氏は、得票率においては、郵政民営化反対票が多かった事実をどのように説明するのだろうか。今回の自民党の圧勝は、小選挙区制のマジックである。得票だけを見れば、小選挙区において、郵政民営化賛成が三千三百万票、反対が三千四百万票。これは民意ではないのか。「まさかこんなことで離党させられるとは」などと嘆く人は、離職したほうが良い。

2005年10月18日 上甲晃 |

 北海道家庭学校の日曜礼拝で聞いた、小田島校長先生の話は、なかなか良かった。窓という窓からは、黄色く染まった木々と、はらはらと散る葉っぱが鮮やかに見える。黒い詰襟の制服を着た子供達が、少しばかり背中を丸めながら、校長先生の話に耳を傾ける。校長先生の話がいささか理屈に走り、お説教調になると、子供達の背中は、たちまちのうちにさらに丸くなり、目を閉じる。校長先生の話が身近に感じられると、途端に、背筋が伸びて、視線が校長先生に向かう。
 校長先生は、「手」の話を始めた。
 「この間、みんなで、研修旅行に行きましたね。その時、サーカスを見ました。サーカスの人達とみんなが握手をしましたね。私もまた、若い女性と握手しました。きっと柔らかい、優しい手だと思って、手を出しました。ところが、それは大変たくましく、ごつごつとした手でした。サーカスの厳しい訓練に耐えた手は、優しくなかった。その時に、人間の生き方は、手に表れるとしみじみと感じました」。子供達は、校長先生と一緒にサーカスに行ったから、思わず話に身を乗り出す。
 「諸君、君達の生き方は手に表れるのです。私はかつて大阪に住んでいました。友達が大阪に来るので、大阪駅まで迎えに行ったことがあります。友達を待っている間に、見知らぬ人が来て、私の手を見せろと言う。私は手を見せました。そして、職業は何かと聞きました。私は、教師ですと答えました。ところがその人は、嘘を付けと言う。教師がこんなごつごつとした手をするはずがないと言うのです。確かに、当時の私は、ある施設で、手にタコができるほど、激しい労働をしていました。それを見抜かれたのです。手に、自分の本当の姿が現れます。私が在職した施設に、スリの名人と言われる子がいました。その子の手は、か細く、すんなりとしていました」。校長先生がそんな話をすると、子供達は、そっと自分の手を見ているではないか。私には、忘れられない光景であった。
 万一、彼らが、出来心から、スリをしたくなる衝動に駆られるかもしれない。その時、この日の校長先生の話を思い起こすと、ふと自らの手を見るかもしれない。教育とは、そのような効果を願うものではないだろうか。
畑を耕し続ければ、ごつごつとする手、スリを働けば透明感が増す手、手はその人の人生を表している。どの手が良い、悪い、そんな問題ではない。手に人生が表れると考えることが、大切なのである。私には、校長先生の話を聞きつつ、自らの手を見つめている子供達の姿が、忘れられなかった。そして、改めて、じっとわが手を見つめた。

我が家の方針

2005年10月17日 上甲晃 |

 「子供はね、いつも言うのです。これは、みんなが持っていると。それでは、いったい、誰が持っているのかと聞きたださすと、答えられない。ところが、親は、この言葉に一番弱いのです。みんなが持っているのに、自分の子供だけが持っていない、それはかわいそうだからと、子供のねだるものを買ってしまう。一番良くないケースです。大事なことは、わが家の方針を持つことです。他人のことはいい、我が家の方針はこうだから、だめなものはだめと言える。それが、子供達の精神を作るのです」。そんな話を聞かせてくれたのは、北海道家庭学校の校長である小田島好信先生。『青年塾』北クラスの最終日のことである。
 この日、私達は、北海道家庭学校の日曜礼拝に出席するために、朝の七時に宿泊していた津別町の「でてこいらんど」を出発した。みごとな紅葉に心をしばし奪われながら、北海道家庭学校に着いた。厳しい寒さの冬を直前にして、校内は秋の雰囲気を深めつつあった。礼拝堂の周りは、落ち葉が敷き詰められていた。それだけではない。落ち葉が、風が一吹きするたびに舞い落ちて、秋を伝えてくれる。まるで雪が降るように、落ち葉が音を立てて舞う。
 礼拝の後、弁当を食べながら、小田島校長先生と懇談した。「ここにいる『青年塾』の塾生諸君は、子供達を育てる現役世代です。彼らが、親として、心すべきことは何ですか?」と、私は聞いた。その時の答えが、「わが家の方針を持つこと」であった。「うちの家はこうだ。誰が何と言おうが、譲れない。そんな強い信念がないと、子供たちは正しく育ちません。とりわけ父親にそのことが求められます。父親が、頑として譲れない基本の生き方を持っている、それが家庭教育の原点です」。小田島校長の言葉は、まことに明快そのものであった。
 それに続く、小田島先生の話が良かった。「家庭の厳格な方針を貫くためには、家庭に一つの文化が必要です。家庭の文化がないところで、どんなに一つの方針を貫こうとしても、子供達は見破ります。家庭の文化、それは家庭の中でこだわり続けてきたものと言えるでしょう。とりわけ大切なものは、家庭の食生活です。舌が感じる味は、一生のものです。何を食べるかは、一生忘れられない家庭の文化の基礎です。コンビ二の味では、わが家の味は出ません。デパートのお惣菜売り場で買うおかずは、家庭の文化ではありません。家庭の文化がないところでは、家庭の基本方針は貫けません」。私達夫婦は、『青年塾』における食事作りに、いっそう力を入れなければならないと痛感した。

政策

2005年10月 8日 上甲晃 |

 宮城県知事・浅野史郎氏が、三期十二年をもって、知事の椅子を降りた。浅野知事自らは、後継者に県の元総務部長を指名した。民主党と社民党が、その人の推薦を決めている。それに対抗して、松下政経塾の第十三期生である村井嘉浩君は、自民党の県連幹事長。自民党の推薦である。県会議員としては、三期目。年齢四十五歳である。
 宮城県知事選挙告示の当日、村井君は、多くの支援者の前で高らかに第一声を上げた。私は、激励の挨拶の後、白いカバーをかけた演壇のすぐ後ろに立ち、村井君の政策に聞き耳を立てた。全国的にその名を馳せた浅野知事の後釜を狙うだけに、浅野知事以上の魅力を感じさせるものがないと、イメージだけでは通用しない。
 村井君は、三つの公約を発表した。
 第一に、官の力や中央に依存しない。民間の力を存分に生かしていく。まず、副知事に民間人を選ぶことを含めて、゛官力゛を打破する。県民の総合力を発揮してもらい、宮城県の未来を切りひらきたい。第二に、宮城ブランドのトップセールスマンとして、現地現場に赴き、県民のみなさんと共に力を合わせて、全国に通用する独自の宮城ブランドを育てていく。第三に、知事の退職金を辞退する。一期四年の任期に対して支払われる五千万円を超える退職金は、この財政難の時代、受け取ることはできない。まして県民の皆様にお力をお借りする以上、知事自らが身を削るような姿勢がなければならない。
 私は、村井君のすぐ後ろに立っていたから、支援者の表情が良くわかる。支援者の反応が一番大きかったのは、やはり、退職金の返上だ。「自ら身を削ることから始める」といった大向こうをうならせる宣言に、支援者は熱い拍手を送っていた。大衆は、いつの時代になっても、リーダーが私服を肥やすことを嫌い、自ら身を削るような姿勢を求めるものだとつくづくと再確認させられた。
 そしてもう一つ、私が評価したことは、「五十年、百年先を見通して、本当に誇りをもてる宮城県を作り上げていきたい」と言い切った部分である。大衆は、常に目先、そして自分の利益を求めるものだ。しかし、本当のリーダーは、それを越えて、歴史の評価に耐えうる仕事をしなければならない。五十年、百年先を考えることは、松下幸之助が塾生に求め続けてきたところでもある。松下幸之助が求めた本当の政治家として、村井君が大成することを祈りつつ、私は仙台駅に向かった。仙台での滞在は、わずか三時間だった。しかし、私の心は、すっかり熱くなった。

出陣式

2005年10月 6日 上甲晃 |

 目の前にはテレビカメラが、五台並んでいる。歩道の一角を区切った報道陣のためのコーナーには、カメラマンがひしめいている。ビルの軒先にしつらえられた白い台は、高さが五十センチはある。私に手渡されたマイクは、およそ十本。すべてのマイクが、ひとかたまりにまとめてある。目の前は、仙台市の目抜き通りである広瀬通。私は司会者に促されて、壇上に立った。壇の上から見ると、左手には、宮城県知事選挙に立候補した村井嘉浩君の夫婦が立つ。そして右手すぐ横には、自民党の官房副長官である安部晋三氏が立っている。
 私は、壇上から、辺りをまず見回した。報道陣の向こうに、大勢の支持者が立っている。広瀬通をはさんで、向かい側の歩道にも人が大勢こちらを向いている。街頭宣伝車が、これから始まる選挙戦に向けて、いつでもスタートできる体制を整えている。
 私は、一呼吸置いて、話を始めた。左手、壇から少し離れた所に、松下政経塾出身で、気仙沼市を選挙区としている衆議院議員の小野寺五典氏の顔が見える。私は、力を込めて、次の話をした。
 「私は、村井嘉浩君を塾生として選び、五年間、寝食を共にしながら育ててきました。その意味で、私は、村井君について、品質保証責任を負っています。今日は、大阪から、村井君を品質保証するためにわざわざ馳せ参じました。松下幸之助は、塾生を選ぶ時、三つの条件を求めました。まず、゛運と愛嬌゛です。考えてみれば、゛運と愛嬌゛があれば選挙には当選するわけです。村井君は、一目見ただけで、誠実さが顔に表れています。県会議員当選三回にして、知事候補に押し出されるのも、運が良い証拠でしょう。そして第三番目の条件が志です。塾生時代、村井君から相談を受けたことがあります。それは、選挙に出る時に、出身地である大阪から出るべきか、それとも生活の本拠地である宮城県から出るべきかについてです。その時、私は、どこから選挙に出たら得か損か、そんなレベルで考えるような政治家になるな。自分はどの地域に命をかけたいか、それを考えて決めるべきだと助言しました。村井君は、宮城県に命をかけると決断しました。今回の挑戦は、命がけの選択の結果であります。松下幸之助は、政治家の数を誇るのではなく、本物の政治家を育てるのだと思って松下政経塾を創設しました。日本は中央からは変えられません。日本を変えるのは地方です。どうか、宮城県こそ日本の新しいモデルであるとの思いを持って、本物の政治家として羽ばたこうとしている村井君のご支援を心からお願いします」。

村長の気骨

2005年9月12日 上甲晃 |

 下条村伊藤喜一村長の口から出る言葉は、辛らつであるが、ポイントを射抜いている。昭和十年生まれ。言葉の辛らつな分、痛快でもある。
 「地方公務員は、゛痴呆公務員゛になる危険がある」などといった言葉が、ぽんぽんと飛び出すから、聞いている者達は、ついつい話に引き込まれる。「公務員というものは、目標が示されないと、仕事はのろいし、やることはとろい。しかし、目標をきちんと示せば、実に良くやってくれる。とりわけ外の空気を吸うと、見違えるように良くなる」。自ら役場の職員を叱咤激励して、やる気にさせてきたからこそ言えることなのだ。
 伊藤村長は、日本の未来を非常に心配している。とりわけ教育が危ないと心底思っているようだ。「まず親が悪い、例えば、朝起きて、自分はきれいにお化粧し、爪の先まで磨き上げて、後は時間がないからと、子供に食事もさせないまま保育所に連れてくる。そんなことが当たり前の時代になっています。先生も悪い、かつて若くて、きれいな先生がこの村の学校に転勤して来ました。早速、その先生のために、新しい一戸建ての家を提供しました。容姿も美しいけれども、ファッションもいい、いつもこぎれいでさっぱりとしている、実に魅力的な先生でした。その先生が転勤しました。先生が住んでいた家の様子を見に行った人が、唖然としました。柱という柱に、無数の傷があるのです。調べてみると、その先生は、畳の上でシートを敷いて、ウサギを飼育していたのです。弁償してもらいましたが、そんなことが日常茶飯のようにあるのです。日本の教育は本当におかしい」と、村長は憤る。
 伊藤村長は、「言うことは言うけれども、やるべきことは何もやらない。何とも無責任な時代になったものです」と嘆く。そんな世相を、「後出しじゃんけんの時代だ」と伊藤村長は、厳しく言い切る。「どういう意味ですか?」と聞いてみる。「人がじゃんけんを出した後からこちらがじゃんけんを出せば、必ず勝つ。それと同じで、世の中、済んでしまえば、いくらでも偉そうなことが言える。そんな卑怯な人が多い。マスコミなどの論調はまさにその典型です」と舌鋒鋭い。
 その伊藤村長が、下条村に行政視察に来た、ある自治体の人達からの礼状を紹介してくれた。「本当に良い勉強をさせてもらいました」といったお礼の締めくくりに、「これこそ、これからの行政のあり方だと強く感じました。私達の今までの仕事の進め方を大いに反省しています」。「行政の人達は、感じたり、反省はするけれども、そこから先の行動がない。それが最大の欠点です」。伊藤村長の気骨は、なかなかのものがある。

下条村

2005年9月11日 上甲晃 |

 「平成の大合併」に日本中が踊っている。そんな中で、一人わが道を行く村がある。長野県下伊那郡下条村である。明治二十二年に、藤沢村と陽阜村が合併して、下条村となって以来、今日まで百六十六年、合併していない。「合併しなくてもいいように、自立の力を養ってきた」のである。どんな小さな村であっても、すべてにわたって゛ひとり立ち゛できれば、わざわざ合併する必要がないという確信を持っているのである。
 『青年塾』東海クラスの「伊那講座」で、初めて、下条村を訪問した。伊那市から飯田市に向かった。下条村は、飯田市に隣接している。飯田市までは、車なら十五分程度で行ける。伊那谷の緑豊かな河岸段丘に開けた村は、総面積三十七キロ平方メートル。決して広くはないが、きれいに手入れされた田んぼやそばの畑が、段々状に広がっている。
 伊藤村長は、黒塗りの車で現れた。ただし、運転しているのは、ご本人。ゆっくりとしたスピードで、玄関横の駐車場に車を止めた。昭和十年生まれ、現在、村長四期目。村でガソリンスタンドをはじめとして、さまざまな店を経営していた人だ。行政のベテランではない。その代わり、経営感覚には優れたものがあると定評がある。
 下條村が、長野県下ではナンバーワンにランクされることがいくつかある。まず、ゼロ歳から十四歳までの人口の比率が、一七・三パーセントである。高齢者の間違いではない、幼い子供達が人口全体に占める比率が、長野県一である。「保育所は満杯です」と、地元の人達は、子供達の多いことを証言してくれる。ちなみに、出生率は、一・九七人。全国で、一・三人を切ったと大騒ぎしているこの時代、一・九七歳は、立派。ただし、高齢者が肩身の狭い思いをしているわけではない。男子の平均寿命は、八〇・一歳。県下一である。
 とりわけ財政状況の良さは、県下有数。例えば、起債制限比率といった専門的な指数は、一・四と、県下一だ。一五でイエローカード、二〇でレッドカードと言われる。それと比較しても、いかに財政に余力があるかがわかる。純借金も、九億円と、信じられないほど少ない。地域としての自立。それを可能にしたのは、現在、任期四期目を迎えている伊藤村長の経営手腕による。例えば、一般職員は、たった三十七人。「職員の人数が少ないと、行政サービスは良くなる」との信念を持って、組織をスリム化してきた。余分なポストも置かない。公共下水は、合併浄化槽。道路は、自分達で造る。公園の維持管理も、村民のボランティア。とにかく、自主自立の姿勢が徹底している。

寒天ブーム

2005年9月10日 上甲晃 |

 どの業界でも、ブームが到来すると、関係する人達は小躍りするものだ。「この機会を逃してなるものか。荒稼ぎするぞ」と、腕まくりするのが普通である。しかし、四十七期連続増収増益という輝かしい実績が示すように、きわめて地道に寒天の普及に努力してきた、寒天の専門メーカーである伊那食品工業は、ブームへの対応からして、やはり他とは違う。「さすがだ」と、改めて見直したくなる立派な姿勢を貫いている。
 伊那食品工業が業界紙に掲載した広告は、その姿勢を端的に表している。「寒天の原料(テング、オゴノリ)は、限りある資源です。ブームに、冷静な御協力を」と見出しに記されている。ブームが到来したら、この機会を逃してなるものかと、後先を考えない企業が多い中で、「冷静に対応してほしい」とお願いの広告を出すこと自体、驚きである。
 広告は、「寒天の人気が高まり、ある面では喜ばしいことですが、限りある原料への認識のない市場拡大は、原料の乱獲を招き、業界の健全な発展を阻害します。弊社は昔から企業のあるべき姿として、品質・供給・価格の安定を計るべく、多くの国々で原料の開発・輸入の努力をしてきました。一時的なブームは原料の産地や寒天ユーザーの皆様に好ましくない影響を及ぼします。冷静な御協力をお願いします」と訴える。
 まったくもって、堂々たる正論ではないか。このような正論が通じなくなった現在の日本社会を悲しい思いで眺めてきた私からすると、伊那食品工業の姿勢は、まことに凛々しく、感動さえ覚える。そしてさらにうれしいと思うのは、そのような姿勢を持つ会社だからこそ、四十七年間連続増収増益という輝かしい実績を継続できたことだ。やはり、「志がなければ、企業は永続できない」とつくづく教えられる。
 聞くところによると、今年二月、NHKの『ためしてガッテン』という番組で、「寒天が、早死につながる四大成人病に極めて有効な働きをする」と、具体的な実績をもって報道したことがブームに火をつけた。飛ぶように寒天製品が売れ始めた。業界で断然トップを走る伊那食品工業では、前年比三割から四割増という異常な売れ行き。作っても作っても、足りない。休日返上で、お客様の要望にこたえようとした。しかし、民放が寒天ブームをあおり始めてから、雲行きがおかしくなってきた。伊那食品工業はいち早く冷静を取り戻した。「寒天の効用を正しく知ってもらうためにはありがたい機会になった。しかし、ブームにあおられて、正しい姿勢を失ってはならない」と、同社の会長である塚越 寛さんと社長の井上 修さんは、冷静な対応を社内外に呼びかけ続けている。立派。

フリマ

2005年8月27日 上甲晃 |

 「フリマ」、「フリマ」と、みんなが当たり前のように口にしている。『青年塾』サマーセミナーの企画を考える時のことである。私は、いったい何のことを言っているのだろうかと、最初のうちは首をかしげていた。やがて、「フリマ」とは、「フリーマーケット」を縮めた表現であると知った。循環型社会作りの一つの試みとして、最近各地でしきりに展開されるようになったのが、この「フリーマーケット」である。
 東京・羽田空港に近い大井競馬場で開催される「フリーマーケット」で店開きをするのが、今年のサマーセミナーの柱となる企画である。サマーセミナーに参加する人達が、一人最低五点の品物を家から持ち寄った。そして、前の晩にチームごとに商品に価格付けをしたり、それぞれの店の看板や売り込みのチラシを作成して、意気揚々、総勢百人近い人達が、大井競馬場に向かった。
 巨大な競馬場の駐車場が、「フリーマーケット」の売り場になる。事前に登録しておけば、指定の場所で、誰でもが店開きできる。二階建ての駐車場の一階、車一台分のスペースが、一つの店になる。『青年塾』は、十五区画を借りて、青いシートを敷き、早速店開きである。午前九時開店であるが、商品を並べ始めると、とたんに客が集まる。ただし、この客はプロだ。私達のような素人の並べる商品の中からお買い得品を買いあさり、その後、自分達の店に並べるのだ。中には、フリーマーケットで仕入れて、そのまま店を開く人もいるそうだ。
 ハゲタカのような勢いで、プロが買い集める物は、商品価値が高い。私達の売り場からてきぱきと商品を買い集めた、一人のプロと思われる男が、「この売り場は素人だね。値打ち物がとてつもなく安かったり、大して値打ちのない物がべらぼうに高かったり。まちまちだ」と言う。なるほど、私達には見る目がなく、プロには鑑識眼があるのだ。
 広大な駐車場には、実にたくさんの店が並ぶ。私から見ると、ほとんどがプロだ。巨大な夜店の雰囲気がある。私達のような素人が、自らの持つ不用品を並べて、「もう一度生かして誰かに使ってもらいたい」といった心の伝わる場ではない。リサイクルの運動と言うよりは、ガラクタ市の様相だ。正直なところ、見て回った範囲で、掘り出し物はなかった。
 『青年塾』の人達が出店した結果は、最終的には完売。もっとも、私達のような゛素人の出店゛は、儲けが目的ではない。何とかもう一度使ってもらいたいと思っているから、最後は゛叩き売り゛できる。閉店間際には、全部で十円などといった価格をつけると、飛ぶようにさばけた。

罰が当たる

2005年8月26日 上甲晃 |

 工場の入り口に立つと、醤油の匂いが辺りを包む。何人かの作業者が、梱包された食品の包装を手際よく解いている。入り口の正面には、こげ茶色をした醤油の粕が山のように積み上げられている。暑さが作業を厳しく見せる。工場は、奥に向かって広がっている。白い袋に入った完成品の豚に食べさせる飼料がずらりと並んでいる。
 私は工場の説明を聞くうちに、唖然とした。「毎朝、何トンもの卵が入ってきます。それはそのまま食べられる調理したてのものです。廃棄される理由はただ一つ。ゆでた卵を半分に切った時、卵の黄身がどちらかに偏っているために、スーパーの店頭で売れないから。それだけではありません。売り物にならないからという理由だけで、どれほど大量の食品が捨てられることでしょう。私達は、それを仕入れて、豚の餌として生産しています」。卵のほかにも、色々ある。工場に足を踏み入れると、袋に入った新しい麺がうず高く積まれている。計量の結果、基準としている数値から少しずれているだけの理由で廃棄されたもの。あるいは、間もなく賞味期限が来るので引き上げられた菓子なども、その日の朝に焼きたてのナムの生地、ホテルから出た食べ残し、焼きたてのパンなどもある。スーパーでは、欠品しないように、豆腐名となどは常に多い目に商品を供給する。裏返すと、いつも売れ残りが大量に出ることが宿命付けられているのだ。
 この会社を設立した根来みどりさんは、「ここに集まってくる食品の残渣(ざんさ)を見ていると、罰が当たると言うか、神を恐れない人間の営みとも言える」と話す。それほど、廃棄される食料が大量なのである。根来さんは、それを豚のための質の高い飼料として生産することを目的とする会社を立ち上げた。「循環型の農業をめざす」という高い志がある。食料の廃棄物を材料として、飼料を生産しているが、自らもフィリピンに農場を持つほか、那須にも農地を確保して、本格的に豚の飼育をはじめとする循環型の農業に取り組む予定にしている。
 『青年塾』サマーセミナーは、六つのチームに分かれて、資源再生に取り組む事業所を見学するところから始まった。私達夫婦は、千葉県市川市にある株式会社農業技術マーケティングを訪問した。経営者の根来さんは、この分野の素人である。スタッフもすべて素人ばかり。ただ、環境問題に強い関心のあることだけは、共通していた。素人が、「何とかしたい」と執拗に取り組んできた。熱意が、常に道を開いてきた。今やこの会社で生産する飼料は、養豚の業界でも最高レベルの良質だ。

『青年塾』塾生諸君への手紙

2005年8月25日 上甲晃 |

 お盆の休みも終わり、また新しい活動の時を迎えました。諸君もそれぞれにリフレッシュされたことでありましょう。私は、一日は山梨、残りの三日間は、北アルプスの麓にある葛温泉の宿で、ひたすら静養しました。おかげで、今は、体内にエネルギーが少しばかり蓄えられた気がしています。間もなく、今年のサマーセミナー開催です。まだまだ暑い時節ですが、元気一杯、みんなで良い学びの機会として、サマーセミナーを成功させましょう。とりわけ、「東クラス」の諸君には、準備のためにずいぶんご苦労をおかけしています。その労に報いるためにも、みんながお客様意識ではなく、゛主人公意識゛を持って参加されることを期待します。
 今年のサマーセミナーのメインテーマが、゛もったいない精神゛であることは、既に十分承知しておいていただいていることと思います。最近、゛「もったいない」の一言は、日本発の流行語として、世界的に注目されています。日本人は、古来、物を大切にする心を、「もったいない」という実につつましく、謙遜な言葉で表していました。しかし、゛もったいない゛の心は、今や日本から消え去りつつあるようにも思えます。水や茶一杯飲むためにも、缶をゴミとして捨てなければなりません。便利を競い合ううちに、゛もったいない゛の心は滅亡の危機に陥ってしまいました。
 それは日本だけに留まりません。世界中が、便利を競い合い、゛もったいない゛の心をゴミと共に捨てているのです。二十一世紀、世界は経済発展に今まで以上にのめりこむことでしょう。何よりも、中国、インドという巨大人口を抱える二つの国が、貧困から抜け出て、経済繁栄に爆走することは間違いありません。またそれにひきづられるように、今まで経済発展から取り残されていた多くの国々が、経済発展に目の色を変えることでしょう。地球上に、贅沢な暮らしをする人が飛躍的に増え続けるのが、二十一世紀です。多くの人達が貧困から抜け出ることは、喜ばしいことです。しかし、大きなジレンマもあります。贅沢な暮らしをする人が増えれば増えるほど、エネルギーと資源がたちまち足らなくなるのです。
 その悩ましいジレンマを解決するためには、どうしても、゛もったいない゛の心を取り戻さなければなりません。とりわけ日本は、もともと、゛もったいない゛の心の元祖の国です。日本が世界に先駆けて、゛もったいない゛の心を取り戻すことは、今や、地球的な課題でもあります。
 今回のサマーセミナーのテーマは、『青年塾』の単なる一回だけの課題ではありません。大げさな言い方をするならば、地球的な課題解決のために立ち上がる、゛歴史的意義のある挑戦゛なのです。私たち百人余が、今回のセミナーを通じて、゛もったいない゛の心を自らの中にしっかりと植えつけて、実践することができれば、既に地球は百人余が実践した分、救われることになります。六十億人もいる地球上の人口のうち、たった百人余が取り組んでも、何の力にもならないと言う人が、世間にはいるかもしれません。しかし、『青年塾』は、「せめて私が」を合言葉にしています。どんなに小さな結果しか生まれないとしても、「せめて私達が」と考えて実践することは、実に誇り高い生き方ではないでしょうか。
 私は、゛もったいない゛の心を、今回のサマーセミナーだけのテーマではなく、『青年塾』のすべての研修を貫く一つの精神的支柱として確立したいと願っています。『青年塾』の研修では、机や椅子を並べる時、紐を引いてきちんと並べることはいつでも、どこでもできるようになりました。
 次は、゛もったいない゛の心の定着です。少なくとも、研修期間中のゴミの分別は、徹底して実践しましょう。また、使い捨ての物は基本的に使わないことを行動基準として確立しましょう。「ゴミを出さない研修」。もちろん、料理の実習などで、最低限度のゴミは出ます。しかし、それさえ最低限度に抑える努力が求められます。
 諸君が、『青年塾』の研修を通じて、「ゴミを出さない生活」を身に付けることができたら。きっと、諸君の周りにいる家族や職場の人達も、諸君の感化を受けて、変化していくことでしょう。そしてふと気が付いたら、思いもかけない大きな広がりを見せていることでしょう。世の中が変わっていくのです。そのためにも、諸君が、最初の一人でなければなりません。
 今回のサマーセミナーが、『青年塾』に新しい伝統と風土をはぐくむ第一歩になることを信じると共に、諸君といっしょに、『青年塾』の精神をよりいっそう高めていこうではありませんか。

もう一つの感動

2005年7月23日 上甲晃 |

 貧しいおばさんから、経済的には格段に豊かな私達が、果物をもらって感動したことと合わせて、私が感動したもう一つの事実がある。私は、解団式における一分間の「感想発表」で、そのことをみんなに話した。
 それは西安からウルムチに向かうために西安空港に行った時のことである。いよいよシルクロードに向かう旅のクライマックス。みんなの心は大いに、はやっていた。空港までの道筋もたいした混雑がなく、ほぼ予定通りの時間で到着した。ガイドの張さんに、「行ってきます」と機嫌よく挨拶して、搭乗口に向かった。そして、一人一人が航空券を受け取る段になって、問題が判明した。航空券がない人が二人いたのだ。しかもこの便は、あいにく満席である。
 交渉の結果、一人の航空券は何とかなった。あとの一人の座席が確保できない。しかも搭乗時間が刻々と迫り、「搭乗中」を示す信号が表示板の上で点滅している。時計を見ると、後十分。しかし、現地の旅行社と、航空会社の交渉は難航して、とうとう一人だけ、次の飛行機にしなければならなくなった。次の便まで四時間以上の待ち時間がある。
 すぐに手を挙げたのは、中国社会科学院の教授である崔世広さん。「私が残ります」と言った。事態はそれで解決した。私達一行は、あわてて飛行機に乗り込んだ。
 後でわかったことであるが、「あの時、誰か残ってくれませんかと聞かれたら、私が手を挙げるつもりだった」と言う人が、何人もいたことだ。自らが犠牲を省みず、「人のために」と考えられる人が何と多いことかと、私は大いに感動した。普通なら、「人のことなど関係ない。切符のない人には後から来てもらったら」といった利己主義が頭を持ち上げても仕方のない場面である。
 『中国理解講座』は、もちろん、中国のことを深く理解するところにあることは、言うまでもないことである。しかし、もう一つの特徴がある。参加した人達が、お互いから学びあうことである。しかもその学びは、知識のそれではない。人と人とがどのような心を持ち合えば、お互いが幸せになれるかを身体で感じ取ってもらえることだ。言葉を変えれば、「中国理解講座に参加すると、人格が豊かになる」ことが、講座のもう一つの目的なのである。その意味において、今回の講座は、誤解の経験を重ねた値打ちが出てきたようだ。頑固な人は、「少し頭が柔らかくなった」と言い、わがままな人は、「大いに反省した」と言い、暗い人は、「明るくなった」と言う。そんな変化が起きる何かが、この講座にはあるようだ。

感動

2005年7月21日 上甲晃 |

 四泊五日のシルクロードの旅を終え、西安に戻った。私達の講座をしめくくる行事は、解団式である。必ず、参加者全員に、旅の間に感じたことを発表してもらう。三十八人が発表すると、一人の持ち時間を一分としても、四十分はかかる。しかし、私にとっては、これほど貴重な機会はない。また、この感想は文章にして、後に一冊の文集にまとめる。
 幸いにも、今回の参加者の多くは、シルクロードに深い関心を持っていた。「いつか来たいと思っていた」、「念願のシルクロードに来ることができた」、「とうとう夢を果たすことができた」などと感想を述べる人が多かった。どうやら、日本人の多くは、仏教の源流とも言うべき敦煌、あるいはシルクロードに対して、関心が高いようだ。あるいは、NHKの報道の影響もあるかもしれない。
壁画の美しさ、砂漠の雄大さなどに、多くの人達が感動していた。ラクダに乗ってキャラバンよろしく砂漠を行ったことも、「月の砂漠そのもの」と、詩情をかき立てられた人も少なくなかった。そんな中で、不思議なことに、自然の計画にはなかった一つの民家の訪問が、「いかなる仏像や壁画、砂漠の美しさよりも印象に残った」と言う人が少なからずいたことである。写真を撮るために、偶然にバスが止まった場所の近くにあった民家。その中からひょっこりと顔をのぞかせた婦人の心が、多くの人達の心を打ったのである。
みんなが景色の写真を撮ることに夢中になっている間に、民家に近づいたのは、私であるから、そのときのことは私が良く知っている。おばさんは、入り口の戸をわずかに開けて、見慣れない私をいぶかしそうに見た。そこへ、親近感を持って近づくことにかけては、今回の参加者の中では筆頭とも言うべき黒田孝夫さんが現れた。私は、「おばさんと一緒に写真を撮りましょう」と持ちかけた。おばさんは、まったく躊躇せずに、何かしきりにしゃべりながらも、にこにこと写真に納まった。あまりにも愛想が良いので、家の中を見せてほしいと頼んだ。
その家は、外から見ても、中に入っても、人間が住む最低レベルの粗末さであった。土で固められた家。金目のものなど、何もない。狭い中庭にいる数頭の汚れた羊。暗闇から目だけをぎょろりとこちらに向ける寝たきりの老人。ただ一つの財産と言えば、使い古して壊れそうな籠の上に山のように盛られた桃とバナナぐらい。その桃とバナナのすべてを、私達に差し出してくれたのである。その心遣いが、旅の最大の感動であり、学びであったと言う人が、何人もいたのである。

中国理解講座

2005年7月15日 上甲晃 |

 「これは珍しいグループ旅行ですね。私も今までずいぶん色々な旅行をしてきましたが、こんな旅行は初めてです。正直なところ、最初は面食らいました。しかし、時間が経過するに従い、気に入り始めました。次回から毎回参加しますよ」と私に話しかけてきたのは、今回初めて『中国理解講座』に参加した人。最初のうちは、戸惑いが顔に現れていた人だ。しかし、日を追うに従い、表情が緩み、やわらかくなっていった。その理由を教えてくれたのである。
 十年は継続すると宣言して始めた『中国理解講座』も、今年はちょうど中間の五回目。「体力のあるうちにハードな場所に行きたい」と言う連続参加者の意向を汲んで、今回は、シルクロードをたどる。シルクロードの出発点である西安から旅は始まり、西端のウルムチに飛び、そこからシルクロード沿いに敦煌に戻り、再び西安へ帰ってくるコースである。このコースは、もともと人気のルートではあるが、最近、NHKで、新たにシルクロードが大特集されて、日本では、再びブームになっている。
 旅行が現地集合というのも、団体旅行としては極めて珍しい。「自分で中国まで行くこともまた大切な学び」というわけだ。今回は、西安集合。三十八人の参加者が、それぞれに航空券を買い求め、自力で集合場所である、西安市内にあるホテルまでたどり着かなければならない。人数が多いだけに、コースもさまざまである。東京から直行便もあるが、それ以外は、すべて北京経由。国際線から国内線への乗り継ぎにも、なかなか苦労する。「苦労は、学びの第一歩」。苦労するほどに、思い出は深くなり、さまざまなことを覚える。
 西安市内のホテルの四階にある開講式の会場にみんなが集まってくる。無事に到着できたという安堵感が、みんなの表情から読み取れる。五回の講座に連続して参加する人達も多いが、初参加の人も八人いる。何よりも今回の旅行は、文字通り老若男女、全国各地、まるで現代日本社会の縮図のような構成になっている。七十歳代が二人いる一方、中学二年生もいる。母と娘が三組、祖母と孫が一組、夫婦は一組。参加者が多様であることが、みんなの雰囲気を和らげる。

そこまでやるか

2005年6月26日 上甲晃 |

 いささか我田引水とは思うが、『青年塾』の研修がとみに盛り上がってきていると、何よりも、私が出す宿題に対する取り組みが、年を追うごとに、充実してきているのだ。第一回クラス別研修には、毎年、時事用語の研究に取り組んでもらう。今年は、竹島問題、京都議定書、介護保険見直し、合併特需の四課題を出した。いずれも、きわめて大事な時事テーマではあるが、さて具体的な内容となると、なかなか説明しきれない。
塾生諸君は、チームを組んで、共同研究してくれた。なかでも、最近の傾向として、インターネットから情報を検索する程度の調べ方ではなく、自分達でテーマに関係した現場を訪問して、独自の調査をし始めたことである。今まであまりなかった傾向である。仕事や家庭のことで忙しいはずの人達が、「そこまでやるか」といった調べ方をしてくれる。
今回の西クラスの圧巻は、日韓の間で深刻な摩擦を生んでいる領土問題「竹島」の発表であった。発表する人達が、自ら「竹島」をデザインしたティーシャツを作ったのは、愛嬌としても、竹島に少しでも近づこうと、隠岐島まで出かけたことだ。島根県からおよそ七十キロ、問題の「竹島」までは百五十キロの距離にある隠岐は、確かに竹島と島根県を結ぶルートの上にある。
「隠岐の島まで行けば、竹島が見えるのではないかと背伸びしました」と言うのは、冗談としても、気持ちはわかる。「せめて島影が見えるところまで近づけないか」と、隠岐の漁師さんたちに訪ね歩いたが、「頭がおかしいのではないか」と相手にしてもらえなかった。当然だろう。
私が感心したのは、隠岐の古老達に、「竹島について教えてください」とインタビューして歩いたことだ。竹島の古老達は、かつて、竹島付近が恵まれた漁場であり、先祖の人達が、いかにその恩恵に浴してきたかを熱く語る。中には、竹島の地図を書いて、この岩場ではあわびやサザエが取れたなどと、克明に書いてくれた人もいた。現地に出かけなければ絶対につかむことのできない貴重な発表だった。
往復十五時間以上掛けて出かけたのだから、並大抵のことではない。お金も時間もかかったことだろう。それだけに、はるばる出かけた塾生諸君には、強烈な印象があったようだ。「今まで、島根県に住んでいながら、竹島について何も知らなかったことが恥ずかしいと言い、これから本気で勉強したいと言う。早速来年の出発式の後、「隠岐特別講座」を開催するのだと張り切っている。私もぜひとも出かけたいと思った。熱心な準備が、本番の講座を盛り上げてくれた。

総動員

2005年6月25日 上甲晃 |

 「地域を良くするのは、人間の力だけに限りません。犬も猫も、木も花も、すべてを動員する。それが私の考えです」と言うのは、山口県柳井市の市長である河内山哲郎氏。松下政経塾の第二期生でもあり、三十四歳で市長就任当時は、「全国最年少市長」として評判にもなった人である。今、四期目。最近、隣町と合併して誕生した新市の市長としては、初代である。『青年塾』西クラスの第一回研修で、今年も話を聞いた。
 河内山市長の発案で、地域の活性化のために活躍している動物が、柳井市にはいる。それは牛だ。今、二十頭以上の肉牛が、市内で朝早くから夜遅くまで、わき目も振らずに働いている。その働きぶりは、市役所の職員以上だといった冗談まで聞こえてくるほどだ。
 公務員ならぬ、゛公務牛゛の役目は、市内の空き地にある雑草を食べつくすこと。空き地に生えているセイタカアワダチ草をはじめてする雑草は、地域の雰囲気を殺伐としたものにする。雑草が生え放題の空き地に牛を派遣して、ひたすら食べてもらうのである。牛は、空き地から逃げ出さないように、微弱電流の通っている線を張り巡らせることにより、防いでいる。当然のことながら、牛は文句一つ言わない。しかも、牛が草を食べている風景は、一つの絵になる。地域の景観を良くする上においても、なかなかすばらしい役割を果たしている。
 地域の人達が、自分の所有する土地の雑草を借りたいと思えば、農業協同組合を通じて、公務牛を貸してもらえる。この牛達に、気の聞いた名前がつけられた。『リンターカウ』。レンタカーならぬ、『レンタカウ』である。ネーミングの良さもあって、その存在は全国的に有名になり始めている。鳥取県の片山知事は、早速、その知恵を拝借した。「日本全体のためになるならば、どうぞまねをしてください」と、河内山市長は、鷹揚に構える。各地からの視察申し込みもひっきりなしだとか。
 「ただ、視察に来てもらっても、牛が草を食べているだけですから、別段珍しいものではありません。わざわざ柳井まで来られなくても、あなたの地域でもいくらでも見ることのできる光景ですよと言うのですが、どういうわけか、わざわざ足を運んで退去して視察に来られます」と、河内山市長は苦笑する。
 河内山市長のアイデアは、財政難の折、なるほどと納得させられ、へえーと感心させられるものが多い。「金がなければ、頭を使え」というわけだ。「今まで、゛金の切れ目が縁の切れ目゛のような仕事の仕方をしてきた役所としては、新しい方向だと思います」。河内山市長は胸を張る。

日本人の心

2005年6月 5日 上甲晃 |

 伊勢の神宮に来るたびに、゛日本人の心゛を読み解いていくような喜びを感じる。日本人ぐらい、四季の変化や草花の営みにまで微妙な変化を感じ取ることのできる民族は、他にないだろう。
 「神社で拍手を打つ時には、右手と左手を合わせてから、右手を少しだけ下げます。それから拍手を打つと、良い音が鳴ります」と説明してくれたのは、伊勢にある修養団の職員である寺岡 賢氏。私の主宰する『青年塾』の第五期生でもある。神道や伊勢の神宮のことに関しては、実に博識である。若いながらも、次から次へとまるで知識の箱からあふれ出るような勢いで、話してくれる。その中の、一つの話題だ。
 確かに柏手を打つ時、右手を少しばかりずらすと、パンパンと良い響きがする。しかし、良い響きを出すために手をずらすのではない。そこにはちゃんとした意味があるのだ。「日本人にとって左手は清浄であり、霊を表します。それに対して、右手は、肉体を現します。左手と右手が合わさることは、霊と身体が一つになることです。それによって一つの音が出る。その際、霊を少し高いところに置き、肉体は少し下げる。すると、良い響きがするのです」と寺岡君は説明してくれる。私は、妙に納得する。霊というか、精神的なものに重きを置く日本人の心を表している。
 かつて伊勢の神宮の神官を四十年勤めた矢野さんは、今、地元学を学ぶ五十鈴塾の塾長である。今回、初めて私達の講座で話していただいた。この人は、また、伊勢のことについては、゛生き字引゛である。サメ、亀、枕、あわびなどについて、それぞれの文明史の観点から研究成果を専門書にまとめている。「祝儀袋につける゛のし゛は、あわびを伸ばしたもの。それはちょうど、゛のし゛と字を続けたような形をしている」などと説明されると、若い人達も、思わず驚きの声を上げる。「物事の意味がわかると、実に面白いですね」と、ある塾生が言う。
 まさにその通り。私たちの身の回りに根付く生活習慣や儀式、祭りごとなどにはすべて深い意味があるのだ。そしてそれは、古来、私達の先祖達の祈りであり、思いであり、願いであったのだ。私は、物事の意味などわからないままに、形だけを追っているのが恥ずかしいと思った。
 「枕は、まくら。くらは、蔵です。古代の人達は、夢に深い意味を持たせていました。だから、枕(まくら)は、夢の蔵。とても大切なものであったのです」とも聞いた。だから枕は踏んだり、投げたり、粗末にしてはいけないと教えられてきたのだ。知らないことが多い。また、知ることによって、普段の行動や生活が変わっていくような気がした。

"清らかな心"宿る

2005年6月 4日 上甲晃 |

 足元も見えない暗闇に立った。目の前を五十鈴川が流れている。小雨が、衣服を脱いだ身体を濡らす。それほど寒くない。かつて大雨の時、水に入る前から寒さに震えたことがある。その時に比べたら、比較にならないほど、この日の外気は暖かい。「礼」の掛け声に、総勢三十人を超える参加者が、五十鈴川の流れに向かって頭を下げる。今年の『青年塾』東海クラスの伊勢講座は、禊(みそぎ)でクライマックスを迎えた。


 まず準備の運動をする。女性は白衣、男性はふんどし姿。周りが暗いので、隣が誰かもわからない。舟こぎの要領で、掛け声をかけながら、「えい、えい」と気合を入れる。左に二回、右に一回。やがて深呼吸をすると、いよいよ水の流れに向かう。「流汗鍛錬」の掛け声をかけながら、両手をしっかりと結んだ腕を上げ下げしながら、三列横隊で前に進む。あっという間に、足首まで水の中に入ってしまう。外気の暖かさに比べると、川の水は思った以上に冷たい。さらに数歩で、腹の辺りまで水の中だ。川面が目の高さ近づく。足元は、ごろころと転がっている石を踏むたびに不安定に揺れる。思わず、履いてきたビーチサンダルを流す人もいる。事前に、「ビーチサンダルが脱げても、追わないように」と指示されていたので、ビーチサンダルだけが私達の群がりから、静かに去っていく。誰かが、「くすり」と笑う。


「えーい」。鋭い賭け声が暗闇を切り裂く。全員、合掌のまま、首まで水の中に沈む。全員の首から上だけが、五十鈴川の川面に並ぶ。川の対岸は茂みになっていて、真っ暗だ。かつて蛍が舞う姿を見たこともあるが、この日は、蛍の光を見ることはできなかった。いくつかの街頭の光が、川の流れに揺れる。そのほかに、目に入る光はない。闇の中で五十鈴川の流れが、心を静めてくれる。


「五十鈴川 清き流れの末汲みて 心を洗え 秋津島人」。明治天皇の作られた和歌を朗詠する。腹に力を入れないと、水の冷たさに負けてしまう。だから、全員、腹から搾り出すように声を張り上げる。昼は観光客でごった返すこの辺りの民家も、夜になると、人影がまったくなくなる。商家の人達も、別に構えた住まいに帰ってしまい、商店は固く戸を閉ざしている。二度、和歌を朗詠した後、しばらく静寂が闇の中に広がる。参加者が、静かに自分を振り返るにふさわしい時間だ。もう一度和歌を朗詠したら、再び、「えーい」と声がかかる。それを合図にして、川原に向かう。一言も話さない一段の中に、安堵の気持ちが広がるのがわかる。古来、日本人が大切にしてきた"清らかな心"の宿る気がした。

青年塾第九期生

2005年4月22日 上甲晃 |

 『青年塾』第九期生八十人を迎えた。今日は、入塾式である。

 朝五時半起床、六時集合は、『青年塾』の伝統になりつつある。とにかく、『青年塾』の研修は、朝が早くて、夜が遅い。もし受身の姿勢で、いやいやしぶしぶ時をやり過ごしていたら、苦痛の極みだろう。よほど主体的な意思を持って研修に参加しないと、とても身がもたない。それにしても不思議なことは、主体的な意思を持つことによって、疲労感よりも達成感が上回ることだ。

 今年は、関西クラス以外、過去最高に近いか、過去最高並みに塾生諸君が集まってくれた。北クラスは九人、東クラス、東海クラス、西クラスのいずれも、二十人を超えた。それに対して、関西クラスは昨年の二十七人が、今年は十人。激減した。理由を私なりに分析してみた。選挙風の分析をすると、関西クラスは組織票、すなわち企業から派遣される塾生の数が究めて少ないのに対して、他のクラスは組織票、すなわち企業から派遣される人が圧倒的に多いことだ。

 それにしても、先輩塾生の働き振りには、塾長である私も、本当に感心させられる。今年は、三月に出発した第八期生は、北海道から九州まで、応援に駆けつけてくれた。すべて自腹を切ってのことだから、「今時の若い人は」などと批判的なことなどとても言えたものではない。

 中でも特筆すべきは、運営を担当してくれた東海クラス八期生の献身的な働きである。既に出発式を終えているのだから、熱が冷めても責められないところだ。ところが、全員が、何ヶ月も、この日のために万全の準備をしてくれた。準備がいかに完璧であったかは、本番の様子を見ればすぐに分かる。行き届いていることこの上なし。『青年塾』の基本精神である゛そこまでやるか゛の心が、端々にまで行き渡っていた。
 痒いところに手の届く段取り、水が流れるように円滑な運営。いつも私が口癖のように塾生諸君に求めつづけてきたことだ。それが見事に、目の前で繰り広げられた。『いつもみんな静かに笑っている』。宮沢賢治の詩そのままの雰囲気が、運営している人達全員に染み渡っている。よほど入念な準備が出来ていないと、ここまでの境地になれるものではない。

 先輩が静かに、落ち着いて、大きな声で絶叫することなど一度もなく、しかも後輩のためにと力を尽くす姿勢は、おのずと後輩諸君の心を打ち解けさせ、やわらかくしていった。運営責任者の三浦正志君は、「言葉ではなく、態度で後輩の心をほぐして上げたかった」と言う。我田引水ながら、『青年塾』の最近の雰囲気は、私にとっては最高レベルだ。

みんな、よくやる

2005年3月12日 上甲晃 |

 三泊四日の『青年塾』修了発表会、そして出発式に臨む塾生諸君の姿勢には、こちらが本当に感心させられる。寸劇、ディべート、一年間の研修のまとめ、修了発表など、実にたくさんの課題を見事にこなして、準備してきているのだ。仕事もあり、家庭もあり、さらに塾生同士の住んでいる場所も遠く離れている。それでもなお、「そこまでやるか」と感心するほど、十分な準備をしてきているのだ。

 十分な準備は、会合の雰囲気を大いに盛り上げてくれる。しかも、各クラス間の競争意識も手伝い、趣向はさらにエスカレートする。どの一つをとっても、本当に面白いし、充実している。私からすると、見飽きないし、聞き飽きない。長丁場の会合で、形式だけの、中身のない発表を聞かされる苦痛に比べたら、雲泥の差である。

 初期のころの塾生諸君と比べると、最近の塾生諸君は、比べものにならないほど、『青年塾』活動のすべてについて、熱心に取り組んでいる。

それは、塾生諸君の問題ではなく。私自身の問題である。仕事を持ち、休みの日がないほど忙しく働いている塾生諸君に、余りにも過重な課題は気の毒だと考えてきた、その私の考え方の中に原因があったのだ。余り無理をさせられないと思うから、「この程度でも止むを得ない」と妥協する。その妥協が、研修の取り組みを緩いものにしてきたのである。

 年を重ねるに従い、塾生諸君がまことに熱心に取り組むことを知り、私は、次々に困難な課題を提供し続けてきた。塾生諸君は、それに対して悲鳴をあげるどころか、益々食いついてくる。松下政経塾の卒業生で、『青年塾』の研修指導をしてくれている金子一也氏が、「松下政経塾の塾生以上ではないでしょうか」と感心するぐらいに、レベルが上がってきたのである。それは頭の良し悪しではない。研修に取り組む熱心さが、年を追うごとに、増してきたのである。

 熱心に取り組むから、中身が充実してくる。中身が充実してくると、益々面白くなってくる。『青年塾』の研修が盛り上がるのは当然だろう。うれしい限りであり、゛塾長冥利゛に尽きる。今年もまた、出発式を迎えるに当たり、「今年が最高」と思っている。そんなことを言うと、過去の塾生諸君から、「それでは今までは良くなかったのか」と批判されそうである。しかし、それは違う。このところ毎年、「今年の『青年塾』は過去最高」と思えるのだ。それは、私として、満足できる研修ができたことを意味する。まだまだ、塾生諸君は、やってくれそうな気がするので、さらに過重な課題を与えていく所存である。来年もまた、「今年が最高」と思えるようにしたい。

志の人

2005年3月11日 上甲晃 |

 第八期生の修了発表会である。会場は、いつもの通り、神奈川県・箱根町の芦ノ湖キャンプ村のホール。テーマは例年のように、「志の人」。自らの周りで出会った「志の人」を取り上げて、四百字詰め原稿用紙で十枚の原稿を書くことが、『青年塾』一年間の研修を修了する時の条件である。デジタル化の時代、最近の若い人は、まとまった文章をほとんど書くことはないと聞く。だからこそ、『青年塾』では、敢えてまとまった分量の文章を書いてもらうことも、一つの大事な研修にしている。

 最近は、「志の人」の文章を書く時に、一つの条件を付けている。「両親や会社の上司は駄目」。それは、上司や両親を尊敬するなという意味ではない。手を伸ばす範囲の人を取り上げることは、安易なのだ。「ちょっと頑張って手を伸ばさなければ届かない人」を取り上げるところに意味があると考えているからだ。日常性の枠を越えなければ、成長がない。

 八十人を超える塾生諸君の発表をすべて、背筋を伸ばし、一言一句逃さないように、しっかりと聞かせてもらった。それは、課題を出した私の責任であり、努力して文章を書いてくれた塾生への礼儀である。
 それにしても、なかなか興味ある内容の発表も多かった。名もなく、平凡な人生を送っているようにしか見えない人達にも、ちゃんと志があるのだ。内村鑑三氏の言う、「平凡でも、高尚な生き方」である。名言も、多かった。思わずメモしたりもした。

 「精神は、頭の中にあるのではなく、身体のあらゆる細胞に宿る」。これなどは、かなりの名台詞だ。゛精神゛を『志』と置き換えると、「志は、頭の中にあるのではなく、身体のすべての細胞に宿る」となる。頭で考え、口先で唱える『志』ではない。立ち居振舞い、すべての言動、これらすべてが、『志』と言えるようでなければ、本物ではないといった意味である。

 「人生において大事なことは、幸せになること。そして幸せになれる考え方をすること」。これもなかなかいい。人生の究極の目的は、幸せになることとすれば、すべてはそこに行き着かなければならない。物事で迷った時には、「それで幸せになれるのか」と考えればいいわけだ。「自分を必要とする人がいれば、苦しみに耐えられる」。これも、含蓄のある言葉だ。

 生き残りの特攻隊員。「生き残ったことが恥ずかしいと、ずっと思ってきた。しかし、特攻隊で散っていった仲間のことを伝えるために生かされていることがわかった」と言うその人は、遺族探しに人生をかけてきた。まだまだある。平凡で高尚な生き方。それこそが、『青年塾』のめざすべき志の第一歩である。私もまた、塾生諸君から学ぶところが多かった。

奈良氏の挑戦

2005年2月21日 上甲晃 |

 福井県鯖江商工会議所が主催する『若鯖塾』の研修のために出かけた。たまたまその日、松下政経塾の卒業生である奈良俊幸氏囲む新春の集いが、鯖江市の隣の武生市で開催されることになっていた。奈良俊幸氏は、現在、福井県会議員。四回連続当選しているベテランである。奈良氏は、昨年の末、今年の五月に行われる武生市長選挙に立候補することを表明している。そのために、今回の新春の集いは、実質的には市長選挙への「決起大会」の様相であった。だから、私も、ぜひとも様子を知りたいと、会場まで足を運んだ。
 金曜日の午後二時、会場の武生商工会議所は、大勢の人で賑わっていた。新しく完成した商工会議所の大きな駐車場は、既に満杯。建物の中に入ると、人人人。市長選挙が近いとあって、支援者はもとより、さまざまな業界団体の幹部も顔をそろえているようである。そもそも市長選挙は、市内を拠点に仕事をしている人達にとっては、生活がかかっているのである。市長選挙の時に勝ち馬のほうに乗らないと、報復を受けて、後の仕事が干上がってしまうこともある。
 だから、この日、会場に集まっているすべての人達が、支援者と言うわけではない。とにかく顔を出しておこうと、参加している人達も少なくない。それにしても、商工会議所のホールは、超満員。まさに、立錐の余地がない。ほとんどは、男性である。私はできるだけ目立たないように、会場の死角となる隅っこにたたずんでいた。同行した人が、「奈良さんのお人柄でしょうか、隣近所の人達が多いですね」と言う。
 奈良氏は、極めて真面目な政治家である。県議会では、第一回目の当選以来、代表質問を欠かしたことがない。もう五十五回にもなる。ふつう、ベテランは質問をしない。質問のための準備が大変なため、当選回数の少ない若手に振るのが通例である。奈良氏は、それが悪しき習慣であると思って、今日にいたるまで、必ず議会での代表質問に立ってきた。選挙民の思いを組んで、県知事や県の幹部に直接、意向を聞きただす、その努力は県内でも評判になっている。
 奈良氏が立ち上がり、「自立した地域作り」を熱く語り始めた。「国も地方自治体も財政的に大ピンチです。もはや、国や県を頼りにして地域を良くする時代ではありません。自分達の自立した姿勢と、自ら活力ある地域を作ることが急務です」と極めて簡潔に、分かりやすく説く。奈良氏の話を聞いていると、私の体が熱くなる。間もなく選挙終盤戦。足の引っ張り合いや寝技が飛び交っているそうだ。そんな輩を、蹴散らしてほしい。

天皇家のダッチロール

2005年2月17日 上甲晃 |

 「昭和天皇の時代、週一回、天皇ご一家は吹上御所に集まり、食事を共にしておられました。そして昭和天皇は、家族の様子や世の中の動きについての情報をみんなから聞いておられました。平成天皇になってから、そんな会合は持たれておりません。それは平成天皇が皇太子の時代、美智子妃殿下にとって、週一回の夕食会が一番辛かったようです。平成天皇は、辛い思いをみんなにさせてはかわいそうだと、定例の夕食会を止められました。その結果、天皇家の中でのコミュニケーションがなかなか取れなくなり、今回のような騒ぎにつながりました」。皇室ジャーナリストである松崎敏弥さんを招いて開催した「日本の進路研究会」での話。

 若い人達の間で、天皇に対する関心がどんどん薄らいでいると聞く。また、天皇家に関心のある人も、週刊誌的な興味による人が多い。私は、改めて天皇の存在についてしっかりと基礎的なことを学んでおきたいと思い、この勉強会を開いた次第である。そして分かったことは、時代と共に変化しつつある天皇家の動きである。

 「天皇とは何かと子供から聞かれた時に、どんな風に答えればいいのでしょうか」と質問した人がいた。松崎さんは、「いい質問ですね」と受け止めて、「国民の幸せを祈る人」と答えた。実に明快だ。天皇は、権力者でもなければ、支配者でもない。国民の幸せを祈ることを本業とする人なのである。ところが、政教分離の原則により、その本業は、国事でなく、天皇家の私事である。天皇制もまた、根本において、ねじれてしまっているのだ。神嘗祭、新嘗祭といった天皇にとって最大の役割を担うべき祭事もまた、今は私事なのである。その祭事を行う人達は、国家公務員ではなく、天皇家の私的な雇い人である。そしてその人達の報酬は、天皇家の財布から支払われている。国民の幸せを祈るという本業が私事の扱いであるところから、天皇制はダッチロールし始めているのだ。

 また終戦直後、皇太子が帝王学を学ぶための組織を設立する計画が、GHQによって阻止された。「これからは特別な教育をする必要はない。何事も、国民と同じようであればいい」との理由からだ。その考え方が、結果的には民間から皇太子妃を選ぶ流れとなり、今日に至っている。

 封建時代、「他人のために自らを潔く犠牲にする武士道」が日本人の精神的支柱であり、明治以降は、国家神道が日本人の精神的な支柱であった。その支柱を失ったのが、今日、日本が混迷している最大の原因である。新しい時代を生き抜く精神的な支柱が求められる時代だ。私は、その中で天皇制の位置付けを考え直さなければならないと思った。

初めての「松山講座」を開催

2005年1月31日 上甲晃 |

  松山市民にも見てもらった演劇

 『坂の上の雲』をテーマに百人が学ぶ

『青年塾』としては、初めての松山講座である。テーマは、司馬遼太郎著「坂の上の雲」。今から百年前、日露戦争を中心のテーマとして、その時代に生きた日本人を学ぶこと。とりわけ、愛媛県松山市に生まれ育った正岡子規、そして日露戦争で活躍した秋山兄弟が中心の登場者である。松山講座では、正岡子規、秋山好古、秋山真之を中心にして、明治という時代について学んだ。
 初日は、「坂の上の雲」を中心にして町作りをしている松山市の取り組みや各クラスの近況報告、そして二日目は、各クラス対抗のディベート大会、分科会に分かれた松山市内見学、そして衆議院議員の小野晋也氏と松山市長中村時広氏の講話、さらには各クラスの熱演が続いた演劇である。およそ百人近い参加者のほとんどは、松山に来るのが初めてである。しかし、私から見たら、少なくとも松山の歴史に対する事前勉強をこれだけ入念に行ってきた人はいないのではないかと思う。それほど、この講座に参加した人たちの学びは、中身の濃いものであった。
 
高かった明治の人達の志

そもそも、この松山講座を企画した思いは、司馬遼太郎著「坂の上の雲」に尽きる。かつて、月刊雑誌の文芸春秋に、近代文学の最高峰として、「坂の上の雲」が第一位に取り上げられていた。ちなみに、第二位は、夏目漱石の「坊ちゃん」であった。さらに、その「坂の上の雲」について、「今から百年前の、その当時に生きていた日本人が、近代日本においては、一番志が高かった」との一文に接して、私の心は大きく共鳴した。『志』を学ぶことを目的とする『青年塾』としては、最高の学びの場であると判断して、開催を決意した次第である。
 そんな思いを持つと、出会うべき人に出会うものだ。志ネットワークの会員である松山市会議員・横山博幸さんが、私を講演会に招いてくれた。その講演会は、新しい政治の流れを作り出していこうとする「新風会」と称する新しい会派の旗揚げの会合。講演会が終わった後、十三人の市会議員さん達と会食した時に、「いつか松山で青年塾を」と誓い合った。思いを持てば、出会うべき人には出会うものだ。
 松山講座の圧巻は、各クラス対抗の演劇。「坂の上の雲」を題材にして、各クラスが自ら脚色したシナリオを演じるのである。若い人達の演出力と演技力には圧倒される。この演劇を、松山の人達にも是非も見てほしい思った。そこで発表会の場所を松山市駅前にある高島屋デパートのホールにした。中村・松山市長にも見てもらった。「松山でも、ここまで坂の上の雲を読み込んでいる人はめったにいない」との声が聞こえた。

段取りが成否を決める

2005年1月31日 上甲晃 |

  松山講座のために現地入りした時、松山市役所の担当者が、いきなり、「今回の講座は成功間違いなしですね」とおっしゃる。うれしい一言ではあるが、「どうして」と私は首をかしげた。「とにかく準備が完璧です。西クラスの人達が今回の実行委員会を編成されたとのことですが、みなさんの真面目で、真剣で、行き届いた準備には感動しました。普通なら、役所の我々は、資料をお渡しする程度のことしかしないのですが、とにかく今回はそれでは終わりませんでした。それどころか、あまりにもみなさんが熱心に取り組まれるので、こちらも段々と力が入りました」とのこと。

 到着早々にそんな話を聞かされると、こちらもうれしくなる。そして密かに、今回の『松山講座』はうまくいくだろうと確信した。準備の段取りが充実している時には、何事も円滑に進む。そのことは、経験上、十分に承知している。そしてそれがわかるからこそ、二ヶ月ほど前から、繰り返し、実行委員会の人達に細かい指示を出し続けてきたのである。実行委員長の田中直也君は、私の指示を一つ一つ丁寧に受け止めて、極めてタイミング良く対応してくれた。だから、私も安心して、講座の運営を塾生諸君に任せることができたのである。

 聞くところによると、田中委員長を始めとして、実行委員会の人達は、何度となく現地入りしている。その努力も、松山の関係者の心を動かしたようだ。『青年塾』の講座でも、実効が上がらないのは、運営責任者が電話一本で事を済まそうとした時だ。電話を受けた人は、「わかりました」と対応しつつも、「まあ、適当にあしらっておこうか」と内心思うだけだ。受入れていただく人達が、「これは適当にあしらうわけにいかん」と思うのは、運営する人たちの真剣さであり、熱心さである。その意味では、講座そのものよりも、準備の方が、学びはより大きいとも言える。

 段取りの良さは、運営にはっきりと表れていた。何よりもうれしかったのは、参加者が、実行委員会の存在をあまり感じないこと。実行委員会の人達が混乱すると、決まって参加者も混乱する。実行委員会が浮き足立つと、参加者もまた浮き足立つ。今回の実行委員会の人達は、静かに、落ち着いて、淡々と、しかし誠意を持って事に当たった。それが参加者に伝わり、静かに、落ち着いて、淡々と学ぶことができた。また実行委員がつつましく、謙虚になると、参加者もつつましく、謙虚になる。

 その意味で、段取りはまことに大事である。そして完璧な段取りをしようとすれば、現場に精通すること。現場がわからないと、咄嗟の時の対応ができない。そして入念な段取りは、運営に自信を与えてくれる。

人格変容の二方法

2005年1月19日 上甲晃 |

 京都大学の副学長である東山絃久氏とは、中学校、高等学校、大学とまったく同じである。特に大学は、学部まで同じであった。とは言え、それほど深くお付き合いしたことは無いが、同じ道を歩んできた親近感はある。もう十年以上も前、あるシンポジュームで、東山氏が司会をし、私がパネラーとして同じ舞台に立ったことがある。それからはすっかりご無沙汰している。古巣の京都大学に戻り、学部長を経て、副学長になったことは、同窓会の新聞を通じて知っていた。

 年末に届けられた同窓会報に、東山氏の特別講演の抄録が掲載されていた。東山氏は、臨床心理学を専攻している。さらに、現在、文化庁の長官をしている河合隼雄さんの弟子でもある。その両方の興味から、東山氏の講演録を読んだ。

 その中で、私が日ごろ考えていることと同じことが紹介されていて、面白かった。それは゛自己変容゛についてである。自己変容は、心理学の用語。社会学を専攻した私は、゛自己変革゛という言葉を使っている。

 「人間関係を築いていく上で一番大事なことは、人格を鍛えることです。人格を鍛えることは、ものすごく難しいことです。本当に難しい」と前置きして、二つの方法を教えてくれる。

「一つは、続けること。あなたが今興味をもったことを続けることです。嫌なことが見つかるまで、やっぱり続けることなのです。続ける時には、やっぱり止めたくなる時もある。しょうもないと思うこともある。今しょうもないと思ったことを、なぜ前はすばらしいと思ったのか。あるいは前すばらしかったことが、なぜしょうもないことになったのか。私の何が変わったのか。私は、あの時なぜこのことをすばらしいと思ったのか、その原点だけはあまり変わっていない。その原点を自分なりに見つめていくことができると、新しい観点で続けていくことができる」。

「もう一つは、自分にとっては嫌なことだけれども、誰かがそれをしなければならないのであれば、頼まれた時に断らない。嫌なことではあるが、しなければならないことには、必然的な本質がそこに隠されている。その本質に迫ることができたら、嫌なことが嫌でなくなる。それどころか、喜びに変わる。また、あなたが引き受けることによって、その組織の目標や課題なりが、一歩前進する。頼まれたことは、本質に迫るまでやり遂げる」。

私は、臨床心理学者の指摘する二つの道を確認して、大いに自信をもった。『青年塾』は、凡事徹底、そして゛一歩前へ゛が合言葉。言葉は違えども、東山氏の指摘とまったく同じである。

明けましておめでとうございます。

2005年1月 1日 上甲晃 |

 志ネットワーク活動を展開し始めてから、十年以上の時間が経過しました。バブル全盛のころ、「志で飯が食えるか」と鼻先で笑われた『志』がなぜか今ごろ、真剣に見直されるようになってきました。世の中は、やっと、「原点に立ち帰り、高い志を持たなければならない」ことに気がついてきたようです。

 変動の激しい時代ほど、変動しないものに目を向けるべきです。そして、何よりも、「何のために生き、何のために働くのか」といった根源的なところに立ち返り、再出発することです。

志ネットワーク活動を、今年、さらに積極的に展開するに当たり、ホームページの充実を図りたいと思っています。各種の行事や研修などのご案内も適宜適切に行います。どうぞ、ふるって活動にご参加ください。
平成17年1月2日            志ネットワーク
                        『青年塾』
                        代表 上甲 晃

江戸時代の古地図

2004年12月26日 上甲晃 |

 江戸時代の古地図を片手に歩ける町は、日本中探しても、そんなに多くないはずだ。戦災に遭った町も多い。バブルに浮かれて、再開発した町も少なくない。一部分に昔の建物が残っていたりするが、町全体が昔のままとなると、極めてまれである。山口県萩市は、そのまれな町の一つである。萩の町は、江戸時代の古地図が未だに使える。

 「萩の町は、みんなで努力して、古い町並みを残したのではないのです。萩の町は、昔のまま取り残されてしまったのです」と言うのは、幕末から維新に掛けての歴史研究家である一坂太郎さん。「毛利藩の城下町であった萩が、そのまま県庁の所在地になっていたら、萩の町の様相は一本していたことでしょう。他県の県庁所在地は、ほとんどが昔の藩主の館やお城があった所です。萩のように、お城がありながら、県庁が他の場所に移ったケースはまれです。それほど萩は、不便で、三方を山に囲まれ、川の氾濫ばかりが起きる逆境の土地だった証拠でしょう」と、一坂さんは説明を続ける。『青年塾』萩・下関講座での講話での話である。

 吉田松陰の生誕地は、萩の町全体を見渡すことができる高台にある。そこから見る萩の町は、高い建物など、数えるほどしかない。ホテルかマンションぐらいだ。それも、せいぜい十階程度の高さまで、上に伸びると言うよりは、静かに横に伸びている町と言った印象である。

 明治維新に成功して、長州藩はそのまま山口県となった。「戊辰戦争に勝ち、明治政府の中枢を担ったのは、ほとんどが長州人。そのために、自分達の藩をそのまま県にしたとの説もあります。そう言われてみると、鹿児島県は薩摩藩そのまま、高知県は土佐藩そのまま。一方、戊辰戦争に負けた藩は、まるで解体されたようにばらばらにされてしましまいました。長州藩が山口県になると同時に、県庁の所在地は今の山口市に移りました。殿様は、長府に立派な邸宅を建てて、そそくさと萩を後にしました。要するに、萩は見捨てられた格好になってしまいました」。一坂さんの説明は、明快であり、興味深い。

 関が原の戦いに敗れて、百二十万石の大大名であった長州藩は、お家取り潰しの運命にあった。徳川家康を何とかなだめてくれる人がいて、長州藩は生き延びた。しかし、山陽道沿いにも、あるいはそれに近い所にも城を造ることは許されなかった。泣く泣く封じ込められたのが、現在の萩。もともと湿地帯で人の住む所ではなかった。だから、新政府になって、早々と萩を見捨てたというわけだ。お陰で、萩は古い町並みを残せたのだ。来年は、江戸時代の古地図片手に萩を歩くことにしたい。

堂々たる日本人

2004年12月15日 上甲晃 |

 萩市長の野村興児さんは、かつて大蔵省の役人だった。地元の人達の熱いラブコールに応えて故郷に帰って、市長に就任した。その野村さんは、故郷に帰って、面食らったことがある。何気なく、「吉田松陰は」と話していたら、市民から、「松陰先生を呼び捨てにするのはけしからん」と注意された。萩市民は、それほど吉田松陰のことを尊敬してやまない。

 野村市長は、吉田松陰が主宰した松下村塾の偉大さは、明治維新を起こした高杉晋作や久坂玄瑞、あるいは明治新政府において活躍した伊藤博文や山形有朋、田中義一などと言った総理大臣を生み出したことに留まらないと言う。゛長州ファイブ゛と呼ばれるような、余り有名ではないが、日本の歴史において確実な足跡を残した人たちを多数輩出していることにも注目すべきだというわけである。

 明治になって、松下村塾で学んでいた若者達が、多数、ヨーロッパに出かけた。近代日本のあり方の手本となるものを学び取るのが目的である。中でも、゛長州ファイブ゛と呼ばれる五人は、ロンドン大学に留学して、イギリスの近代化した様子を様々な角度から学んだ。そして、後に、゛日本の鉄道の父゛と呼ばれる人、聾唖教育の父と呼ばれる人、東京工業大学の全身となる学校を創設した人、日本で最初の本格的なトンネルと言われる逢坂山のトンネルを掘った人、造幣局の原形を作った人などが、続々と生まれているのだ。

 野村市長が強調するのは、それらの人達の姿勢だ。「彼らは、まともに英語などしゃべれない。だから、議論中心の授業の中では、きっとずいぶん苦労したはずです。背丈にしても、当時は、今と違って、イギリス人にかなり見劣りしたはずです。ところが、彼らはとにかく堂々としていたのです。当時、清国からは大代表団がイギリスに派遣されていました。それに対して、日本からの派遣団は、ゴマ粒ぐらいの小さなものでした。しかし、その堂々とした姿に、イギリス人は驚いたのです」。野村市長は、すばらしい話を聞かせてくれた。堂々とした日本人。最近は、つとに聞かれることのなくなった言葉だ。野村市長は続ける。「人間はどのような時に堂々とするのか?それは志と意欲がある時です」。

 私にとって、その一言を聞いただけで、今回の萩における講座は、大成果だ。「志ネットワークとは、゛堂々たる日本人゛になる運動である。そして『青年塾』は、゛堂々たる日本人゛を育てる運動である」。そんな風に、勝手に決め込んだ。言葉はしゃべれない、それでも、堂々としていると一目も二目も置かれる日本人をお互い目指したいものだ。

金融大臣

2004年11月11日 上甲晃 |

 絶妙のタイミングというものがあるようだ。神妙な顔で特別調査官と向かい合う瞬間を狙ったかのように、今回の内閣改造で金融大臣に就任した伊藤達也氏から、電話が入った。私が出した手紙に対する御礼の電話である。特別調査官も、いきなり大臣から入った電話に驚いた様子。「『青年塾』の塾生さんですか」と聞く。「否、松下政経塾時代の塾生です」と答えた。

 伊藤達也氏には、大臣就任に際して、私は手紙を書いた。それは激励分である。既に、内容はデイリーメッセージで前回紹介したものだ。「本物の政治家を目指せ」、「歴史の評価に耐える仕事をしろ」、そんな激励をした。お祝いの品々はいろいろ届けられることだろうから、私は、メッセージを贈り物にした次第である。伊藤氏は、大いに喜んでくれ、「ありがたい激励」と受け止めてくれたようだ。

 「先日は、塾出身の衆議院議員が十数人集まり、お祝いをしてくれました」と伊藤氏が言う。私は、「僕は、あなたが大臣の間は近づかない。その代わり、大臣を退任して時、ご苦労さんと慰労する会を持つことを約束する。だから、それまでは天下のために、大いに働いてくれ」と伝えた。約束は忘れないようにしなければならない。

 伊藤達也氏は、まじめで、手堅い男である。大向こうをうならせるような派手さはないし、いかにも大人風の風を吹かせることもない。堅実、そして実直な性格である。そのぶん、仕事振りは手堅いし、信頼できる。彼が在塾中から、奥さんに宅配のピザ屋を経営させていたのも、その現れであろう。「選挙が就職活動になってはいけない。仮に選挙に落ちた時でも食べていけるように」との思いから始めたものだが、松下政経塾の塾生の中では、珍しく堅実で、現実的な発想ができる人とも言える。

 それにしても、三十七歳で横浜市長になった中田 宏氏、そして四十三歳で大臣になった伊藤達也氏など、時代は若い人たちを強く求めているようである。そして、安定している時ならとても出番のない若い人が表舞台に立った時、はつらつとした改革を進めていけることもうれしいことではないか。それに対して、高度経済成長時代にスポットライトを浴びていたヒーローたちが次々に舞台から転げ落ちていくのも、象徴的な出来事ではないだろうか。

 堤義明、ダイエー、なべつね、三菱自動車、橋本竜太郎、落ちていく偶像の多さは、新しい時代を待望する潮流の表れでもあるのだ。時代は大きく変わろうとしている。青年よ、勇気をもって立ち上がれ。

万策尽きて、志

2004年11月 2日 上甲晃 |

 最近、私が好んで使う言葉、『万策尽きて、志』。これは誰かの言葉を借用したものではない。私が考えた自前の言葉である。

 その意味は何か。厳しい経営環境が取り巻く今日、多くの経営者は、考えられるありとあらゆる方法を講じてきた。対症療法である。あれがいいと言われれば飛びつき、これがいいと言われれば一も二もなく取り入れてきた。考えてみれば、この十年間、経営改善になると思えば、ありとあらゆる方策を講じてきた期間でもあったのだ。

それはまるで、健康法のようでもあった。これが身体に聞くといわれれば高いお金を出して買い求め、これが健康に効果的だと教えられれば急いで取り入れてきたのである。そして思い返してみると、健康に良いといわれるあらゆる方策を講じたにもかかわらず、結局、どれも思ったほどの効果が上がらなかった挫折感が広がっていくようなものである。

どの方法も、さしたる効果が上がらなかった。また、前宣伝されたほどの効果が上がらなかった。いわば、『万策尽きた』のである。万策が尽きた時、みんなは考え始めた。もはや小手先の対症療法ではどうにもならないのではないかと。ここはやはり、根本に立ち返り、『経営とは何か』、『人は何のために働くのか』、『会社は何のために存在するのか』、『私は何のために働いているのか』。すべての原点に立ち返って、反省し、改めるべきところは改め、止めるべきは止め、新しい出発をしなければならないことに、多くの日本の経営者は気がつき始めたのである。

 まさに、『志』を立て直すべき時がきたのである。企業としての新しい志、新しい理想、新しい価値観、新しい目標を立て直すこと。そこまで立ち戻らなければ、事態を打開できない時がきたのだ。手前味噌に言うならば、「今こそ、志の時代」の到来である。

 最近、私のところへくる講演依頼のテーマについて、「志について何か話をして欲しい」と注文をつけられるケースが多い。今までは、「松下幸之助について何か話して欲しい」との注文が多かっただけに、世の中の風の向きが変わりつつあることを、皮膚感覚で感じてしまう。特に今年の講演依頼は、銀行関係が多い。その銀行も、大手都市銀行である。某大手都市銀行からは、全国の支店長並びにそれに準じる幹部に、「志の話をして欲しい」と依頼されている。それも一行、二行ではない。少し大げさに言えば、゛軒並み゛依頼の注文がきている。不況の真っ只中にあった銀行もまた、不良債権の処理から、「志」へと前向きに転じ始めたのである。すべて、『迷えば、元に戻ること』だ。

国家破産

2004年10月22日 上甲晃 |

 「浅井さんの警告が的中しそうな雰囲気になりましたね。喜ぶべきか、悲しむべきか複雑な心境です」と、開口一番、私は浅井さんに声をかけた。昨晩は、浅井 隆さんが主催する勉強会で話をさせてもらった。浅井 隆さんは、間もなく日本の国は破産することを警告し続けている人だ。最近、書店の店頭に立つと、彼が著した「二千三年、日本国破産」と題するシリーズの書籍が山積みされている。

 ゛国家破産゛とは、物騒な事態である。こんなにも豊かな暮らしを楽しんでいる私たちに、一番無関係の事態であると、日本人の大半は考えている。にもかかわらず、間もなく、国が破産すると予言するのだから、衝撃的である。この日、私が話をする前に、浅井さんが話をする予定になっていた。せっかくの機会でもあり、妻と共に少し早い目に出かけて、国家破産のシナリオを確かめた。

 「夜中の十二時、発表があります。預金封鎖です。この時間なら、朝刊に間に合う。国民は銀行に預金引き下ろしに走れない。そのような時間帯を狙って、預金を封鎖するのです。すべてはそこから始まります。私はかつて、預金封鎖など、一万分の一の確率しかないと思っていました。しかし、今日現在、三十パーセントの確率を予想しています。みなさん、墜落する確率が三十パーセントの飛行機に乗りますか」。浅井さんは、長い間、゛狼少年゛だと揶揄されてきた。起こりそうもない事態をことさら騒ぎ立てているというわけだ。その゛狼少年が、正直な少年として受け入れられつつあるのだ。浅井さんの一言一言に耳を傾ける聴衆の表情は真剣そのもの。うなずく人も多い。

 膨大なる国家借金、にもかかわらず平然と継続される無駄な公共投資。早晩、国家の財政が破綻をすることは、目に見えている。そのときに、国家の膨大な穴埋めをするのに狙われているのが、千兆円を超える国民の金融財産である。国家が破産すると、国民の金融資産を、国家の財政に回す以外に方法はない。だから、国民の預金を封鎖して、新円を導入するシナリオが予想されている。

 本当は、日本の国はそんなにのんびりと構えられるような状況にない。私の危機感は、「こんなにも危ないのに、危ないと受け止めていない国民が多すぎる」こと。危機は認識するところから、回避の道が開く。「そんなことあるはずがない」と思いたい気持ちもわかる。私は講演を通じて強調した。「歴史の流れ、時代の動きをしっかりと学ぶこと。自己防衛の第一は、事態を理解することから始まる」と強調した。

『青年塾』の思い

2004年10月21日 上甲晃 |

(この文章は、『青年塾』第九期生募集要綱のためのものです)

 日本の未来は、青年達の手にある。その青年達に、何となく元気がないことを、私はずいぶん前から心配している。自由な世の中に生きているように見えて、実際はまことに不自由な生き方を強いられているのではないだろうか。豊かな世の中に生きているように見えて、実際はまことに心寒々とした生き方をしていないだろうか。

 「若い人達を元気にしたい」。元気はつらつ、目はきらきらと輝いている。日本の青年達がそのように変化していけば、日本の未来に光明を見る思いがする。日本の未来を拓(ひら)いていくためには、次代を担う青年達を、元気はつらつ、目がきらきらと輝いているようにしなければならない。私が、九年前に、『青年塾』を立ち上げたのはそのような思いからである。『青年塾』は、日本の青年達を元気にする運動とも言える。

 青年達を元気にする方法はただ一つ、将来に対して夢と希望、そして何よりも志をもつことである。人は、未来に向かって、大きな夢と希望と志を持った時、前向きに生きる喜びを感じるものである。将来に向かって夢も希望も志もなければ、「今が面白おかしければいい。自分さえ良ければいい」といった、刹那的で、近視眼的で、投げやりな考え方に陥ってしまう。夢と希望に燃え、志高く生きようとするならば、青年達のもつ可能性は無限のものがある。

 『青年塾』は既に、八年の実績をもつ。全国五つのブロック単位にクラスを展開して、塾生諸君に最寄のクラスに参加してもらい、私達夫婦がそれぞれのクラスの講座に出かけていく方式も、かなり定着してきている。

 また、『青年塾』の門をくぐった塾生の数も、間もなく七百人になる。塾生諸君の多くは、「全国各地にこれだけの仲間がいることは、私の人生の宝物です」と口を揃える。私もその通りだと思う。職場と家庭の中だけにしか人生がないのは、いかにもさびしい。また、そんな狭い世界に閉じこもっているだけでは、良い仕事もできないだろうし、家族としての良い働きもできないだろう。「青年よ、夢と希望と志に燃えて、大海に出でよ」と、私はいつも心の中で願いつづけている。

 『志』とは何か?

 私は、志とは、「人を幸せにする心」であると思っている。そして、「人を幸せにする努力」は、「自分を幸せにする道」であることも確信している。

だから、『志』を求める人は、いつも、「人を幸せにするにはどうしたらよいか」を求め続けている。例えば仕事をしていても、『志』を求める人は、「どうすればお客様を幸せにできるだろうか」、「どうすれば職場のみんなを幸せにできるだろうか」と求めている。また、家族の中においても、『志』を求める人は、「どうすれば家族を幸せにできるだろうか」と求めている。

 野球選手にしても、自分の稼ぎのためだけにがんばっている人には限界がある。そこそこに稼げるようになれば、目的は達成されるのだから、それ以上のエネルギーは出てこない。もし、「野球を通じて日本の子供達に夢を与えたい」と思ったならば、自分の稼ぎのためだけに野球をしているのだと考えた場合に比べたら、比較にならないほどの世界が広がるはずだ。さらには、「日本だけでは飽き足りない。世界の子供達に夢を与えたい」と考えたとしたら、大リーグに活躍の場を求めていくだろう。イチローを始めとする人達は、自らの稼ぎを得たいという程度の思いをはるかに超えて、『志』によって大リーグに駆り立てられていったのである。

 『青年塾』は、青年達に『志』の種を植え付ける場である。
 具体的には、まず視野を広くもつことを一つの学びの柱としている。自分のこと、仕事のこと、家族のこと程度にしか、生きる関心がないとすれば、視野は大変狭いと言わざるを得ない。狭い視野から、高い志など生まれてこない。時代がどのように変化し、歴史がどのように変遷していくかにしっかりと目を向けていけば、おのずと自分の『志』は浮かび上がってくる。「学びなくして、『志』なし」。「無知は、無恥(恥知らず)」である。「世の中で何が起ころうが、時代がどのように変遷しようが、私には関係ないこと」と決め込んでしまった時から、青年は青年でなくなってしまう。

 もう一つの学びの柱は、自らの人間性を高めることである。私はそれを、「人間としての一流を目指す」と表現している。人間として一流の人とは、他人の幸せを自分の幸せと感じ取れる人である。それに対して、人間として三流の人とは、自分さえ良ければいいとしか考えられない人だ。『志』を求める限り、「人の幸せを自分のことのように感じ取れる人間性」は不可欠である。『青年塾』は、その人間性を養うために、普段の行動、実践を重んじている。普段の行動において、常に、「他人を思いやる行動」を学ぶ。歩き方一つ、話し方一つ、座り方一つ、すべてにおいて、「人を思いやる行動」を習う。

 生活即人間教育。普段の生活をしっかりと励むことが、「思いやりの心を育む」と確信している。食事作り、掃除を研修ととらえて、力を入れているのも、思いはそこにある。

 私はいつも塾生諸君に言う。「『青年塾』で学ぶようになってから、あの人は人間的に少し成長した、との声が聞こえ始めたら、学びは成功だ」。

純粋な心

2004年10月20日 上甲晃 |

 「こんなにもサービスしていただいて、本当にありがとうございました」と、『青年塾』西クラスのリーダーが、挨拶した。みんなは大きく肯いた。それほど、鹿児島講座を受け入れていただいた鎌田建設の社長である鎌田善政さんの心遣いは、ありがたいものであった。宿泊先は、鎌田さんが経営する高級和風旅館、研修会場は鎌田建設の本社のビル。しかも、超多忙のはずの経営者が、早朝から夜遅くまでしっかりと私達にお付き合いいただいた。だから、塾生の代表が、「過分のサービスをしていただいてありがとうございます」と言いたくなる気持ちも分かる。

 ところが鎌田さんは、肯かなかった。「これはサービスでしているのではありません。私は、上甲さんのしておられる『青年塾』運動に共鳴して、何かお役に立ちたい、その一心でお手伝いしているのです」と話された。私はその一言に、背筋がぴんと伸びる思いがした。と同時に、熱い血が全身を駆け巡るような興奮を覚えた。そして改めて、「わが思い、わが志に純粋であらねばならない」と心を引き締めたしだいである。

 今回の西クラスの講座では、熊本県水俣市の湯の児台地で観光農園を営む福田興次さんにも例年同様、大変にお世話になった。バスの手配、研修会場の提供から、講師との折衝など、福田さんのお力添えがなければ、何もできなかったことであろう。その福田さんもまた、私との個人的な人間関係によって、協力していただいているのではない。私が進めている運動に賛同して、運動に力を貸していただいているのである。

自らの利益を省みず、ここまで献身的にお力を貸していただいていることに対して、私は、直接的なお返しなどできるはずはない。少なくとも私ができるお返しは、純粋な心をもって、志高く歩む以外にない。私は、すべてにわたって手抜きをしないことを、改めて心に誓った。私の運動に賛同して、何とか手伝ってあげたいと手を差し伸べていただいているすべての人たちのお心遣いに報いるためにも、さらに透明な意思をもち。使命に生きるつもりである。もしその気力と体力が衰え始めたら、『青年塾』は門を閉ざさなければならない。

 私にとって、『青年塾』は使命以外の何者でもない。仮にも、『青年塾』が私の生活の糧になるようでは、献身的に応援していただいている人達に申し訳が立たない。社会的使命を標榜しながら、私欲を求め、私利に走ることは、許されない。鎌田建設の鎌田社長も、福田農場の福田社長も、私達の研修に、朝早くから夜遅くまでしっかりとお付き合いいただいた。その姿勢に改めて感謝したい。

玉置神社

2004年9月26日 上甲晃 |

 「この場所は、標高千メートルあります。周囲にはおよそ二千本の杉が、取り囲んでいます。樹齢は二千年から、三千年。この辺りは、とにかく雨が多く、湿度が高い。そこにもってきて、冬の寒さが実に厳しい。氷点下十度以下に気温が下がり、雪も降ります。私のように心臓に持病を持つ者にとっては、まことに具合が悪い。だから、冬になると、神社は若い人達に任せて、私は、さっさと下に降ります。ここで心臓の発作が起きてもどうしようもありませんからね」。そんな話から切り出したのは、熊野奥宮と呼ばれている玉置神社の老宮司さん。正式参拝利の後、鼻をぐすぐすと鳴らしている老宮司さんに、「五分だけでも、この神社の由来を話していただけませんか」とお願いしたことに対して、「話し始めると、いくらでもお話できるのですが」と前置きしての話である。

 それにしても、熊野信仰の中心とも言うべき熊野本宮退社の神域で研修してきた私達は、この玉置神社にすっかりと魅せられたのである。思わず、「これが熊野だ」、「これこそ世界遺産だ」の声が、誰からともなく聞こえてくる。それほど、実は、熊野本宮大社の雰囲気に、私はもちろん、『青年塾』の諸君も失望していたのだ。

 俗化した神域は、心に響くものがない。熊野本宮大社も、昨年訪問した那智大社も、私には、霊的空間と言うよりも、観光的空間にしか見えなかった。だから、古代から多くの人たちの魂に響いてきた霊的な力を、何も感じない。まして、陳腐で、低レベルのサービスしか提供できない商人が、軒を並べて、私を失望させた。それは、とても世界遺産と言うほどの魅力がなかったのである。

 深山幽谷、うっそうとして古木が茂り、霧が幻のように現れたり消えたりする。山々の間を這うように白雲がうねり、水墨画を見るような風情。それこそが、私のイメージにある熊野であった。ところが、熊野詣での中心となるスポットは、そんなイメージとはほど遠いものであった。それだけに、玉置神社に参拝して、「本当の熊野を見つけた」ように思った。

 玉置神社の歴史は古い。千数百年前に開かれた。かつて、吉野から熊野にかけてそびえる千メートル以上の高さの山々を飛ぶようにして歩いて修行した修験道の道筋に、玉置神社はある。「昔から、修験道の宿坊でした」とのこと。「ここには神々が宿ります」と言った宮司の言葉にみんなが肯いた。熊野に行くなら、玉置神社だ。神が健在だ。

熊野詣

2004年9月25日 上甲晃 |

 和歌山、奈良、三重の三つの県にまたがる熊野が、世界遺産に登録されたのは、今年の四月である。私がいつも利用する南海電車は、車内のポスターはもとより、ターミナルや駅などにも、「世界遺産に登録」を大きく売り出している。また、熊野に関係する美術展なども、開催されている。今、ちょっとした゛熊野ブーム゛である。

 この三日間、熊野の中心とも言える熊野本宮大社の入り口にある瑞鳳殿を借りて、『青年塾』関西クラスの研修を行った。大社へ上がる階段のすぐそばにある建物は、もともと、昭和四十二年に篤志家から大社に寄付されたものである。現状は、かなり老朽化しているし、何よりも掃除を始めとする手入れが行き届いていない。お借りしながら言うのもはばかられるが、「いささか居心地の悪い建物」になっている。ただ、熊野本宮大社の境内にあるから、神域の雰囲気を味わうことができるのはありがたい。

 朝六時、まず、かつて本宮大社が建っていた場所まで散歩した。その地を、「大斎原」と呼ぶ。熊野川の中洲にある。古来、盛んであった熊野詣は、この大斎原にある神殿をめざしたのである。明治二十二年、今から百年少々前、熊野川の氾濫で起きた大洪水が、神殿を襲った。辛くも流失を逃れた社殿は、そのまま現在の場所に移築された。だから、中州にはごく最近建立された大鳥居が建つものの、あとは平地である。

 私は、この中州の雰囲気が気に入った。いかにも、神々の宿る地を体感させる雰囲気に満ちているのだ。大斎原は、熊野川の川原とつながっている。川の向こうは、熊野の山々がそびえる。辺りを見回すと、すべて山、山、山。その山々に白い雲が低くかかっている様子も、神の住まう地を髣髴とさせる。日本一の高さを誇る鳥居と、手水だけがあるのもいい。

 かつての社殿の跡には、二つの石の祠が、頑丈に鍵をかけられて、立っている。それ以外は、緑の芝生である。石の祠が何かは、どこにも、何の説明もないので分からない。祠の横にも、後ろにも、文字は何もない。私は、その素性を確かめるのをあきらめて、静かに石の祠に向かって拍手を打った。後で分かったことだが、石の祠には、流失された社殿の神々が祀(まつら)れている。

 古来、゛ありの熊野詣゛と呼ばれ、都にいる天皇や上皇、皇族、貴族はもちろん、庶民が蟻(あり)のように行列をなして参った地に立ち、私は、先人と魂が通い合うような不思議な気持ちを味わった。

熊野本宮大社の苦難時代 

2004年9月24日 上甲晃 |

 「熊野が世界遺産に認定されて、今、全国から注目を浴びています。みなさまが参拝いただいた時にも、きっとたくさんの参拝者がおられたことでしょう。しかし、私の父である名誉宮司が、昭和二十六年、この熊野本宮の宮司として赴任してきた時には、それはひどいものだったらしいです。戦争が終わった直後でもあり、神道がまるで戦争責任のようにとらえられていて、お参りにくる人などほとんどいなかったそうです。記録によると、昭和二十六年当時の参拝者は年間千人にも満たなかったのです。神社としての収入源とも言える初穂料やお賽銭も限りなくゼロに近く、宮司の妻であった私の母などは、本気で逃げ出したいと思ったそうです。ところが、名誉宮司は違いました。これはありがたいことだ、私の使命が与えられたと受け止めて,張り切ったそうです」。そんな話をしてくれたのは,熊野本宮大社の宮司である九鬼さん。

 私は、ぺんぺん草が生えるような名門の神社の宮司を任された時に、「これはありがたいことだ」と受け止めた当時の宮司さんの志に注目した。人が逃げ出したいと思う状況を、「私の使命が与えられた。喜ばしいことであり、感謝感激である。自分を磨いていくために最高の場だ」と受け止めることができた当時の宮司さんに敬意を表した次第である。

 宮司さんは、神社にとってシンボルとも言うべきお札を一杯持って、夜行列車に乗って東京に向かった。そして東京中を歩き回り、お札を配りながら熊野本宮大社のことを話し、「一生に一度はお参りに来てください」とお願いして歩いた。

 また、神社で神様にお供えする野菜にも事欠いたために、宮司さんは、自ら畑に立ち、鍬や鎌を持って、野菜作りにも精を出した。神社の伝統の建物が痛み始め時には、自ら、はしごに登って補修した。

 そんな努力は、「熊野本宮大社を再建することこそ、自分の使命である」と受け止めたからこそできたのである。人は、自らに与えられた境遇や条件をどのように受け止められるかによって、結果が大きく変わってくるのだ。良い条件や恵まれた境遇なら、誰でも喜んで受け入れることができる。問題は、悪い条件、悪い境遇が与えられた時だ。たいていの人は、逃げ出すことを考えるか、「自分ばかりどうしてこんな目に遭わなければならないのか」と不遇を嘆く。不遇と考えるか、ありがたいチャンスと受け止めるか、人生にかかわる大問題だ。

出世頭

2004年9月15日 上甲晃 |

 「率直なご意見をお聞きしたいのですが」。そんな切り出しで質問されると、答えにくいものが多い。

 「松下政経塾から、たくさんの政治家を輩出されましたが、あなたの目から見て、将来性がある人、日本の政治を変えることが期待できる人、あるいは出世頭は誰ですか」。そんな率直な質問が最初に出た。大分県別府市で開催された商業界九州ゼミナールにおける夜なべ談義の席上のことである。会場の人たちは、目を覚ましたかのように、私に好奇の視線を向けていることがわかる。

 「松下政経塾出身の政治家なら、全員期待できますよ。私は、みんな日本を変えてくれる、日本の政治を良くしてくれると確信しています」と答えた。質問者は明らかに失望の様子である。しかし、私は質問をそつなく逃げたつもりはない。本音なのである。松下政経塾の現場責任者として、「日本の政治、そして日本を変えてくれる」期待を込めて育てた者が、卒業生を信じられなくて、誰が信用するだろうか。それは親が子を思う気持ちと同じである。世間の人がみんな、「あんなぼんくらはいない」と思っていても、親はいつまでも、「きっとうちの子供はいつか頭角を現してくれる」と信じているものだ。たとえそれが゛親ばか゛と言われようと、親が子供を信じられなくて、他の誰が信じてくれるか。松下政経塾の卒業生にかける私の思いは、まさに子供を思う親と同じようなものだ。

 「三十代で横浜市長になった中田 宏君などは、今のところ、世間的に言う出世頭です。しかし、私にはそれさえも心配の種なのです。この成功が、早すぎる成功として、後々彼にとってマイナスにならないように祈るばかりです」。私は、付け加えて説明した。なるほど若くして、人もうらやむような立場や地位に付くことは、誇らしくもあり、輝かしくもある。ところが人生は一筋縄では行かないものだ。早すぎる栄光が、かえってあだになり、挫折につながる場合も少なくない。

 今の段階では評価できても、それが最後の評価につながるかと言えば、人生はそれほど単純ではない。「大器晩成」などといった言葉は、古来、言い得て妙なのである。

 「政治家の評価は、歴史が決めるものです。現職時代、どれほど国民的人気がある人でも、歴史の評価に耐えられない人が多い。むしろ、現職中は、国民や有権者から恨みを買うような改革者が、歴史的に評価できるケースが多い。政治家の評価は、私のような者が下すものではなく、歴史が下すものではないでしょうか」。みんな少しは納得したようだ。

四十七年連続増収増益

2004年9月11日 上甲晃 |

 寒天の専門メーカーである伊那食品工業は、四十七年間、売上、利益を伸ばし続けてきた。四十七年連続して増収増益という実績は、きわめてまれである。少なくとも、私の知る範囲に、そんな会社はない。

 『青年塾』東海クラスの研修を、長野県伊那市に本社のある伊那食品工業さんで開催させてもらった。二泊三日の研修の最初は、同社の塚越 寛社長の話を聞くこと。連続増収増益を可能にしてきたのは、塚越社長の経営手腕によるだけに、話はまことに興味深い。そして、私は、塚越社長の話を聞くたびに、「志」の大切さを確信する次第である。

 「急成長させないこと」。塚越社長は、連続して売上と利益を伸ばしてきた秘訣を教えてくれる。「物事の一番良い姿は、末広がり。すなわち、時間と共に良くなることです。社員にしても、将来に渡って毎年給料が上がっていく状態にあると、安心して人生設計できます。浮き沈みのある姿は、非常に困るのです。私はいつも、無理して成長させなくてもいい、大事なことは、前の年よりも少しでも良くすることだ」。急成長させないと聞くと、恣意的、あるいは経営の手法のように聞こえる。しかし、それは間違いだ。急成長させずに、一歩一歩成長させるためには、あらゆる活動を最大限に取り組まなければできることではない。

 「世の経営者の多くは、゛追い風゛と急成長を混同している人が多いようです。゛追い風゛は、実力ではありません。それを自らの努力や実力と誤解して、過大な投資をしたり、人を大幅に増やしたりして、結局は行き詰まってしまうケースが非常に多いようです」。塚越社長は、自らの力を冷静に認識すれば、急成長などありえないと確信しているのだ。

 塚越社長は、いつも、社員が持てる力を最大限に出してもらうためにはどうすればいいかを考えてきた。そのことが、四十七年間、連続増収増益の経営の実現を可能にしたのである。仮にも、経営者が、自らの金儲けのことばかり考えていたとしたら、とても今日の姿はない。

 社員がのびのび、はつらつとして、気持ちよく倍の働きをしてもらうためにはどうしたらよいのか。脅かしたら、倍働くか。ノルマを課して、徹底して締め上げたら、倍働くか。給料を倍にしたら、倍働くか。塚越社長は、様々に頭を巡らせた。「寝ても覚めてもそのことを考えていました」と言う。そして塚越社長が得た結論は、「この会社は、自分の会社であり、自分の職場であると思うことができたら、きっと社員は生き生き働いてくれるに違いない」。その結論は、塚越社長の経営の原点であり、伊那食品工業の経営の志である。

全国会議

2004年9月 8日 上甲晃 |

 私が主宰する「志ネットワーク」の全国会議は、年に二回開く。一度は、年初め、私が主催して、神奈川県箱根・芦ノ湖と富士市の株式会社イエローハット富士営業所で開催する。そして、もう一度は、全国持ち回り。各地の会員諸氏が主催してくれる。今年は、名古屋市での開催である。名古屋市在住の会員はそれほど多くはない。しかし、会員諸氏の力の入り具合は、人数の少なさをはるかに越えていた。まさに、少数精鋭の体制で、魅力的な企画を準備してくれた。

 参加者の数からして、名古屋大会は、今までになく力が入っていた。最近の「全国会議」は、平均して、五十人ぐらいの参加である。ところが、今回は最初から、「百人が目標」と威勢が良い。私は、最近、行事内容が多岐に渡るために、会員の人達が、自分の興味ある企画に参加される分散型になっていると見ていた。だから、全国会議参加者の目標を百人に置くのは、正直なところ、高すぎるとも思った。

 しかし、思いのある所に道は開けるものだ。実際には、目標をはるかに超えて、百二十人以上の会員が参加された。最近では、他に例のないほどの多人数であった。これだけ参加者の人数が多いと、にぎやかだし、自然に盛り上がる。名古屋在住の会員諸氏が、手分けして、全国各地の会員に声をかけた努力は、みごとに結実したのである。

 参加者が多いと、懐かしい顔、いつもの顔、新しい顔など、多士多彩。人数が多いと、自然に喜びがこみ上げてくる。恒例の近況報告は、人数が多いために、延々と時間がかかる。それでもこだわって、会員の人たちには、全員に話してもらった。「みなさんのパワーに元気をもらった」とか、「お話が上手な人が多く、魅力的」とうれしい声が聞こえてきた。

 私が一番印象的だったことは、『青年塾』の若い塾生諸君が、下働きで、献身的な動きをしてくれたことだ。真夏を思わせる太陽の強い光を浴びながら、道案内の看板を持って立っている人達、強い雨の中、自分はびしょぬれになりながら、お客様に傘を差し掛ける人達。志ネットワークの会員の人達を支えている若い力が芽生えてきている。

 一泊二日の短い会合ではあったが、内容は濃かった。とりわけ最近元気な東海地区のエネルギー源を見せ付けられる思いがした。この地域には、もの作りを中心にして、人が育ち、事が起きてきている。新しい時代を予感させる福祉施設の理事長の話。老舗のミシンメーカーを再生して、新しい時代を開くブラザー工業の会長さんの講話、さらには新設学校の校長先生の話など、見ごたえ、聞き応え十分の集まりであった。

華氏九一一

2004年8月29日 上甲晃 |

 大統領選挙を間近に控えたブッシュ大統領にとって、この映画はかなり手ごわいはずだ。ブッシュ大統領の四年間を取り上げ、その手腕を糾弾していく映画は、切り込みが鋭い。私には、ことさら、ブッシュ大統領を始めとして、それを支える最高首脳達が、゛あほ面(づら)゛に見えるのが、印象深かった。とてもこんな愚かで、ずるい輩(やから)にアメリカの政治を任せられないと、アメリカの有権者達は考えるかもしれない。

 華氏九一一。テーマからして、どんな意味か分からなかった。九一一は、ニューヨークの世界貿易センタービルが崩壊し、ペンタゴンが襲撃された、あのテロの日である。映画のポスターには、「華氏九一一度は、自由が溶け始める温度です」とある。

九一一事件とアメリカの政治を結びつけ、サウジアラビアの石油の利権で深いつながりのあるブッシュ家、イラクを攻撃することにより巨額の利権を手中にする企業とつながりのあるブッシュ家を取り上げる。そして、九一一事件が起きながら、即座に調査委員会をつくらなかったブッシュに、何か特別の背景があるのではないかと迫る。

特に、事件が起きた当日、小学校の授業を見学していたブッシュが、二機目が世界貿易センタービルに激突した瞬間も、立ち上がらずに、椅子に座ったままであったことをリアルに見せてくれる。最初の飛行機が激突した時に立ち上がらないばかりか、二度目の激突を耳打ちされた時もなおブッシュは、小学校の椅子に座ったまま。心を落ち着かせるかのように、子供達と同じ教科書を開く。しかし、上の空。非情なカメラは、それから立ち上がるでもなく、誰かに指示を出すわけでもないブッシュの表情をアップで映し出す。いかにも無能な大統領に見えてくる。

もう一つ印象的であったのは、連邦議会の議員達に、「あなたの子供をイラクに派遣しないのか」と迫るシーンだ。連邦議会の議員のうち、自分の子供をイラクに送っているのは、たった一人、この映画を製作したムーアが議員を次々に追いかけて、「あなたの子供をイラクに派遣しないのか」と迫る。みんな、逃げるか、無視するか、答えても゛ほうほうの体(てい)゛である。ある議員は、「息子にはまだ幼い子供がいるから」と弁解する。映画を見ている人たちは、幼い子供を持つ人達がたくさんイラクに派兵されていることを知っているから、議員の答えに鼻白む。これもまた政治の偽善を白日のもとにさらすようだ。イラクで息子を亡くした母親の嘆きを追うシーンも印象的だった。共和党関係者は見ないらしいこの映画が、大統領選挙に与える影響に注目したい。

『青年塾』諸君への手紙

2004年8月26日 上甲晃 |

 塾生諸君の中には、「『青年塾』は、いったい何をするところですかと人に聞かれても、なかなか答えられない」と言う人が多いようです。確かに、一言で『青年塾』の本質を明快に答えるのは難しいかもしれません。私だって、様々に工夫しながら、できるだけわかりやすい説明をしたいと、努力を繰り返しています。しかし、私は、説明が難しくていいと思っています。なぜならば、全国各地に類似の団体や組織が存在しないからです。『青年塾』は、日本唯一、世界唯一、当代唯一、そんな存在です。だから、一言で説明するのに苦労するのは当然です。

 最近、私は、「志ネットワーク活動、そしてその一環としての『青年塾』活動は、゛まともな日本人になる運動だ゛」と説明するようにしています。みなさんは、自分がまともな日本人であると思っていることでしょう。それはそれでまことに結構なことであります。しかし、私達の周りを見回してみたらいかがでしょうか。゛地に落ちた日本人゛、それも゛精神的に地に落ちた日本人゛が多すぎるような気がしてなりません。時々。あまりにも情けなくて、涙が出そうになるぐらいに悲しい思いをすることさえあります。

 地べたにしゃがみこんだ若者達、股を広げてタバコを吹かす高校生、漫画に読みふける働き盛りの大人、責任ある仕事をしたがらない若者達、儲けのためなら手段を選ばない経営者、髪の毛を染めてくわえタバコ姿で育児する母親、公衆の面前で恥じらいもなく化粧する女性達、所構わず大声でしゃべるおばさん達。ひとつひとつの例を挙げ始めたら、私は気が狂いそうなぐらいに腹が立ち、情けなくなってしまいます。

 私が一番嫌いな日本人。それは、「凛々しさを失った男、慎みを失った女」です。古来、まともな日本人は、もっと誇り高い存在であったような気がしてなりません。それも経済的な誇りではなく、精神的な誇りです。

 人が人として生きていく上で、精神的な誇りを失ってしまったら、まことに醜い存在に落ちてしまいます。そして、戦後間もなく六十年、日本人は、精神的には完全に堕落したような気がしてなりません。さらに言えば、「精神的には滅びてしまっている」といっても過言ではないぐらいに、ひどい姿になっているようです。もっとも、多くの日本人は、今の姿をそれほど堕落しているとは思っていません。私はそのこと自体が問題であると思います。もしも大多数の日本人が、「これは困ったことだ」と思っているとしたら、既に問題は解決の方向を向いていると言えるかもしれません。

 私は、現状を嘆く時間があったら、少しでも、解決の努力をしようと決意して、『青年塾』を始めました。『まともな日本人』を一人でも増やしていくこと、それが私の一番の思いです。

 『まともな日本人』とは、他人を思いやる心を持った人のことを言います。精神的誇りとは、他人のために惜しげもなく力を差し出すことのできる心であります。「自分の言動、自分の立ち居振舞いによって、他人に迷惑をかけないでおこう」と考え始めただけでも、大変身です。

 『青年塾』は、そうした心を養うために、平凡な日常生活をしっかりと励むことを最大の研修方法としています。普段の生活の中で、「他人を思いやり、他人に迷惑をかけない行動」を心がけるだけで、人は生まれ変わることができると確信します。

 普段の生活をおろそかにして、特別な修行をしても、絶対に生まれ変わることができません。「生まれ変わった」と錯覚するだけです。莫大なお金をつぎ込んで、自己変革セミナーなどに参加する人もいます。それも一概に否定はしません。しかし、人間は、そんなお金を使わなくても、立派に生まれ変わることができるのです。「目覚めるのに、そんなに多額のお金など要らない」と私は思っています。゛凡事徹底゛という言葉は、「生活を励む」ことと同じ意味です。普段の生活は、平凡の繰り返しです。平凡な日常生活は、私達の人格を磨く、最大の道場であります。

 それを少し気の利いた言い方をすると、《万事研修》と言います。その気になれば、日常生活のすべてが勉強になるとの考え方であり、『青年塾』の教育の真髄であります。

 箸の上げ下ろし、ゴミの捨て方、大根の切り方、履物の揃え方、歩き方、しゃべり方、すべて修行なのです。自分の立ち居振舞いを通じて、人に迷惑をかけない、人のお役に立つ、そんな心がけを繰り返していけば、必ず、『まともな日本人』に生まれ変わることでありましょう。

 そして、『青年塾』から、六百人以上の『まともな日本人』が送り出せれば、日本の国の未来は明るくなると確信します。

 諸君、『まともな日本人』を目指そうではありませんか。

目の力

2004年8月25日 上甲晃 |

 「若い人の目を見たら、その国、その組織、その会社の未来がわかります。若い人達の目に力があり、生き生き、らんらん、ぎらぎらしているとしたら、その国や組織、会社には未来があります。逆に、若い人達の目に力がなく、何となくとろんとしているようでは、その国の未来、その組織や会社の未来は危ういように思います。未来に希望と夢があり、これから努力すれば、それが実現できる状況にあると、自然に目が輝き、力強くなってきます。一方、未来に対して夢も希望もなく、今が良ければいい、自分さえ良ければいいと考えるとしたら、目の輝きや力は失われてしまいます」。私は、講演の中で、持論を展開した。福岡県北九州市に本社のある株式会社さんすいの経営計画会議でのことである。

 「若い人の目に力を」と強調する私のすぐ前に一人の若い女性がいた。会場の最前列、しかも一番中央、話をしている私とすぐ向かい合わせの席である。若い女性だが、目に抜群の力がある。並み居る聴衆の中でも、この人の目はひときわ輝いている。私の話にもすばらしい反応をしてくれる。問題提起の話をすると、首を少し傾け、さらに詳しく説明すると、納得して肯(うなず)く。これほど話し甲斐のある人も珍しい。

 日本にもこれだけの目をした若い女性がいるのだと、私はうれしくなった。目が輝き、しかも力強い。「日本も捨てたものではない」と思いつつ、しばしば彼女の表情を伺うように、意識して話をした。こんなにも生き生きとして、輝くような雰囲気の女性に恵まれているのは、さんすいの社長である中谷 豊さんの経営のすばらしさであろうと想像したりもした。

 ところが、懇親会になって大いに驚いた。「彼女は、ハローワークから紹介された中国の人です」と、中谷さんが言う。私と同じ席に着いている男性達は、一斉に彼女のほうを見る。そしてみんな揃いも揃って、彼女の雰囲気に引き付けられた。

 「彼女は、まだ二十三歳か四歳です。とにかく笑顔がすばらしい。また、誰が何を言っても、゛ありがとうございます゛と頭を下げます。既に結婚していて子供もいるのですが、毎日保育所に迎えに行き、それからきちんと食事の準備をしています。本当に気持ちのいい人です。彼女のおかげで、職場の雰囲気も良い方向に変わってきました」と、中谷さんも絶賛する。事実、絶賛に値するだけの魅力を備えた人だ。

 講演の中で、私は、「中国の若い人たちの多くが目に輝きと力があるのに対し、日本の若者にはそれが弱い」と言った。あまりにも図星に、我ながら驚いた。「青年の目に輝きと力を」。『青年塾』の合言葉にしたい。

ホームステイ

2004年8月24日 上甲晃 |

 「みなさん、本当にありがとうございました」。お世話になった塾生の代表が、お礼の挨拶に立った。百人を越える塾生からは、熱い拍手が起きた。鳴り止まない。拍手が、静かな過疎の集落全体に響いていくようだ。『青年塾』サマーセミナーの二日目は、塾生全員が広島市安佐北区志路という名の集落の十八軒に、゛一宿一飯゛のお世話になった。それぞれの家のご主人、あるいはご夫婦が、一列に並んで、塾生のお礼の言葉を受けていただいたのである。

 ホームステイを受け入れていただいた幹事役の竹下さんが、突然、涙ぐんだ。年輪を刻んだ顔が見る見る崩れ、目頭が赤くなる。その様子に、塾生もまた感極まる。私は、竹下さんに歩み寄り、強く手を握った。「ありがとうございます」。私も、声が詰まった。竹下さんの隣にいる人達の手も握り締めた。そして、ホームステイを受け入れていただいたすべての家の人達と熱い握手を交わした。七十代、八十代の人達ばかりだ。私が手を差し伸べると、はにかむ。とりわけおばあさん達は、いかにも恥ずかしそうだ。それでも、熱く手を握り返してくれる。ホームステイをさせてもらって、何かが通じ合ったのだ。

 「戦後、間もなく六十年。今回の行事は、この集落としては。最大の出来事でした」と地元の人は言う。のったりと時間の流れていく平和な集落に、私達『青年塾』の塾生がおよそ百二十人も入ってきて、泊り込んでいくのだから、集落としては、大事件、大行事だったのだ。

 それにしても、十八軒の家族が、初対面の若い人達を、よくぞ同じ屋根の下に泊めていただいものである。今回の計画を影で支えていただいた木原伸雄さんの人柄と信用のおかげだ。各家庭に、六人平均、一番多いところは九人もの塾生や家族を預かっていただいた。それだけではない。塾生諸君に対して、自らの戦争体験や田舎の暮らし振りなどを懇切丁寧に話していただいた。そのことが、若い塾生諸君には、かけがえのない機会であったようだ。「初めて戦争のころの話を聞いた」、「うなぎの取り方を教えてもらった」、「若いころの集落の様子を話してもらった」などと、口々に一夜の経験を新鮮な驚きをもって語り合っていた。

 今回のホームステイは、いかにも『青年塾』らしい研修である。一歩踏み込んで、現実の中に身を置く。そこから見えるものは、通り一遍の研修では得られない感動と発見がある。おまけに、たった一晩のホームステイにもかかわらず、別れる時には涙ぐむ人がいるほど、心通じ合うものがあったのだ。身をもって経験する学びの深さを、改めて実感した。

お遍路の計画

2004年8月21日 上甲晃 |

 「デイリーメッセージを読んでいたら、今、広島におられるはず。もし良ければ、明日の朝お目にかかりたいのですが」と、横浜市長の中田 宏氏から、突然電話が入った。中田氏は、福岡へ行く途中とのこと。私は、『青年塾』のサマーセミナーのために広島市内のホテルに滞在していた。「明朝は、七時前にはホテルを出発する予定になっている」と答えた私に、「構いません。明日の朝、滞在中のホテルに出向きます」と中田氏。

 約束の朝六時半前、中田氏は現れた。『青年塾』の塾生諸君も、突然現れた横浜市長に驚きの様子。私達夫婦と中田氏とで、食事を始めた。中田氏は、夏休み中。あごにひげをたくわえ、リラックスした雰囲気だ。

 「今年の夏、十歳になったばかりの娘と一緒に四国のお遍路に行きました。一番から十六番まで。三泊四日でしたが、父親と娘のお遍路は貴重な体験でした」と、中田氏は、目を輝かせながら話してくれた。中田氏は、一年前から、長女が十歳になったら、十年かけて四国八十八カ所の巡礼をしようと心に期してきた。休日はおろか、眠る時間さえままならない激職に追われる身。せめて夏休みのようなまとまった時間の取れるときに、娘に父親として向かい合う機会をつくりたいと思っていた。

 「一年前から、娘には計画を話して、大変だぞと言い続けてきました。だから、娘はある程度の覚悟をしていたと思います。しかし、実際に歩いてみると、想像を越えていました。三日目などは、一日歩いて、誰にも会わない。会うのは、蛇であったり、蜂やトカゲ。私は、いつも娘の左前を歩いて、娘を車やマムシから守りました」と中田氏。そこで妻がすかさず、「昔から家族を危険から守るのがお父さんの役回りなのよね」と、私をけん制するかのように、合いの手を入れる。

 「十五番まで来たら、いかにも足が痛そうでした。もう止めるかと聞いたら、突然泣き始めました。それでも、行くというので、私は手をつなぎながら歩き始めました。途中、農作業をしている女性に挨拶をしたら、しばらくしてその女性が追いかけてきて、冷たいコーヒー牛乳を接待してくれました。その時、女性は娘に向かって、あんた偉いね、きっといいことがあるよと言って別れていきました。やがて十六番に着いた時、思いもかけず、りんごジュースが振舞われました。娘は喜んで、さっきのおばさんがいいことといったのはこのことと聞きました」。私達の隣にいた志ネットワークの会員である高木真地子さんが、涙を流した。「いいこととはね。このことではないの。これから生きていく人生のなかで、きっといいことがあるという意味だよ」と、中田氏は、娘さんに教えた。いい話だ。

ゴミの分別

2004年8月 7日 上甲晃 |

 今年の『青年塾』クラス別研修も、北クラス、東クラスは、既に二回目の研修を終えた。二つのクラスを終えて、「そこまでやるか」を合言葉にしている『青年塾』にしてはお粗末だと思ったことがある。それは、自分達の出したゴミの処理。大いに反省し、これから始まる各クラス研修については、「そこまでやるか」という徹底したゴミ処理に挑戦したい。

 北クラスの研修の最終日。宿舎の掃除については、いつものように、「そこまでやるか」の徹底ぶりだった。その様子を見届けて、私は、宿舎の外に出た。何人かの塾生諸君が、研修期間中に出たゴミをまとめている。しかし、よくよく見ると、すべてのゴミが袋に無造作に突っ込まれている。「これは仕分けしているの?」と私は聞いた。「宿の人が、燃えるゴミと燃えないゴミに分別すればいいと聞きましたので」と言う。

 私は、「ちょっと待て」と制した。そしてゴミの中身を調べてみた。ゴミ袋の中を開けてみた。一言で言えば、「ぐちゃぐちゃ」、「むちゃくちゃ」である。生ゴミもあれば、タバコの吸殻もある。弁当の箱もあれば、ゴムバンドもある。空き缶も混じっておれば、野菜の切れ端もある。私は、「すべてやり直し。きちんと分別しよう」と声をかけて、ゴミ袋の中に素手を突っ込んだ。塾生諸君は、しばらく呆然としている。しかし塾長が作業を始めたから、何時までも茫然自失というわけにはいかない。みんなで、ゴミ袋に手を入れて、生ゴミは生ゴミ、弁当のケースはケースといった具合にすべてを分別した。「分ければ資源、捨てればゴミ」とどこかで聞いたことのあるスローガンを唱えながらの作業である。ゴミ袋は、たちまち小さくなった。

 同じことが、東クラスでも起きた。ここでは、私は目撃者ではない。台所で、調理実習を指導していた妻の証言。「台所を片付けていたら、燃えるゴミ、燃えないゴミの二種類の分別でいいと言って、何もかも突っ込むの。良い加減にしなさいと叱ったら、この地域はこれでいいのですと言うから、あなた方は行政の基準に従うのですか、それとも自分の考え方に従うのですかと詰問したわ」と言う。妻の言い分は、正しい。たとえ行政が、ゴミを二つにしか分別しないとしても、「私には私の納得するやり方があります」と貫いて、きちんとした分別をすること、それが志ではないだろうか。

とりわけ、「食は命」などと天下に標榜している館ヶ森アーク牧場で研修させてもらっているのだ。ゴミの捨て方まで、「そこまでやるか」といった姿勢を貫かないことには、会場を提供していただいている館ヶ森アーク牧場さんに対して申し訳ない。これからは、ゴミの捨て方一つ、「そこまでやるか」という徹底した分類をしたい。

志の進学塾

2004年7月23日 上甲晃 |

 北海道・千歳市にある村上進学塾の塾長である村上義章さんは、゛熱い心の持ち主゛である。口癖は、「絶好調」。年齢は五十を越えているが、雰囲気は万年青年のそれだ。『青年塾』北クラスの研修の最終日は、千歳の村上進学塾を会場としてお借りした。そして、村上塾長にも話しをしてもらった。「人生、志が基本。子供達も、志を持つと、学力が飛躍的に上がる。どこの学校に入るかが人生の最終目標ではない。人生の目標として何をしようとするのか、それを決めると、勉強にも身が入るのです」。そんな村上塾長の話は、私の思いと、ぴたり一致する。

 塾の中には、様々な張り紙がある。その一言一言は、子供達を励ますためのものだ。一つ一つ確認しながら読んでいくと、すべて「志を立てることの大切さ」をうたっている。

 私が、住宅地の真中にある塾の建物に入ると、村上塾長が、生徒達を一人一人紹介してくれる。日曜日の昼にもかかわらず、受験生諸君は目の色を変えて、学んでいる。「将来は、看護士になりたい」、「お医者さんになりたい」などと、人生の目標をはきはきと答える。私も思わず、「がんばって」と励ましの言葉をかけたくなる。「握手してもらったら」と言う塾長の言葉に促されて、子供達は手を差し出す。私は、熱く握り返した。

 塾の中の教室で、『青年塾』の諸君に、改めて志の話をした。隣との部屋の仕切りの一部は、透明のガラスになっている。私の方から、ガラス越しに隣の部屋の様子が見える。多分、その部屋にも、私の声が響き渡っているのだろうと思った。その時、一人の女の子が、そっと私達のいる部屋に入ってきた。そして、静かに、部屋の一番後ろの椅子に座って、私の話に耳を傾け始めた。

 私は、間違って部屋に入ってきたのではないかと、最初のうちは思った。ところが、後から聞くと、本人が希望して、私の話を聞きに入ってきたそうだ。村上塾長によると、「隣の部屋で勉強していたら、志という言葉がしきりに聞こえてきました。いつも塾長が志のことを言っておられるので、ぜひとも志の話を聞きたかったのです」とのこと。村上進学塾の志教育の徹底ぶりを改めて教えられた気がした。

 聞くところによると、いつもは、そんなに強く自己主張する子ではないらしい。その子が、勇気を奮って、「志の話を聞かせてもらっていいでしょうか」と言い出したのだから、偉い。きっとこの子は、これから伸びていくに違いない。自分の心に火がつくと、私達のもつ生命のエネルギーは爆発する。『青年塾』の諸君も、心に火がつく志を見つけてほしい。

栽培漁業

2004年7月21日 上甲晃 |

 「与えられた仕事を好きにならなければ」。そんな一言に、私は、思わず目を見開いた。「好きな仕事をすることが大事なのではなく、自分が今取り組んでいる仕事を好きになることのほうがもっと大事だ」といつも言っている私としては、同志に出会ったような感激を覚えた。襟裳町役場の農林水産課長である三戸 充さんは、「与えられた仕事を好きになった」モデルのような人である。

 とにかく、三戸さんは、熱心である。とりわけ自分が取り組んできた栽培漁業のことになると、時間を忘れて、口角泡を飛ばす。それこそ止まることを知らない勢いで、説明してくれる。まるで丹精込めて育ててきた我が子のことを語るような熱い心が、伝わり、私達も話しに聞き込まれる。

 襟裳町には、埋立地に栽培漁業のための種苗生産センターを建てた。役場の中枢を担う幹部になった今でも、このセンターが三戸さんの活動の場である。ウニはもとより、ハタハタ、クロソイ、マツカワ、マガレイ,エゾボラなどの養殖を手がけているために、種苗センターを離れられないのだ。「正月や盆休みは、若い連中が帰省してしまいます。だから、その間は、今でも私一人で、魚の面倒を見ています。若いころは、何日も種苗センターに泊まり込んで、仕事をしました。面白かったし、やりがいもあった。第一、上司から命じられたからする仕事ではありませんでした。私のほうから上司に、これをやらせてほしい、あれをやらせてほしいと申し出るのですから、こちらから文句の言いようがありません。そんなことから、この仕事が好きになってきたのです」と、三戸さんは、赤ら顔をさらに赤くして、熱弁を振るう。

 三戸さんは、自分のしてきた仕事に大いに誇りを持っている。北海道庁はもとより、他の自治体で取り組んでいるどの事例よりも、自分が進めてきた仕事に自信を持っている。様々なきめ細かいデーターも、どこよりも精緻で、微に入り細に渡っていると自負する。一見、豪放磊落に見える人が、仕事の上では、実にきめ細かく、着実な進め方をしていることに驚いた。ウニの水槽には、肉眼で見たのでは分からないほど小さな物体が無数に漂っている。その微生物のような物体に餌を与え、温度管理し、やがて漁業者に販売して、海に放つ。襟裳の豊かな海では、ウニ、ハタハタ、マツカワなど、高級な海の幸が毎年豊漁である。山に木を植えると、海にプランクトンを始めとする餌が増え、魚が蘇る。その魚を根こそぎ取るのではなく、育てながら収穫する。それもまた、襟裳の人達が抱く志なのである。条件の悪い地域ほど、志が生まれやすいのだと、教えられた。

襟裳の春

2004年7月20日 上甲晃 |

 私が、『青年塾』北クラスの講座を襟裳岬で行うことを決めたのは、緑化事業について詳しく学びたかったからである。今回の講座に岐阜県から参加してくれた田中義人、美鈴ご夫妻は、「NHKのプロジェクトXで、襟裳岬の緑化事業の取り組みを見て、感動しました。何度も番組のビデオを見直しているうちに、どうしても来たくなりました」と言う。それほど、襟裳岬の緑化に取り組んだ地域の人達の取り組みは、感動的であった。

 ゛襟裳砂漠゛。五十年前、地元では、襟裳岬一帯の荒廃した砂地を、そのように呼んでいた。当時の写真がある。一枚の写真は、目だけを出して、顔全体をすっぽりと布で隠した男が、砂塵の中を行く姿を写している。どこからどう見ても、中近東の砂漠の風景である。

 襟裳岬は、最初から砂漠であったわけではない。元々は、広葉樹が生い茂る緑豊な土地だった。ところが、この地に昆布を求めて、住み着いた人達が、生活のために豊かな森の木を切り始めた。それは、家を建てるためであったり、薪のためであったりした。昆布漁が盛んになればなるほど、木は減り続けた。そして気が付けば、丸裸の土地になっていた。おまけに、日本一風の強い場所である。岬に吹き付ける風は、大地の砂をはるかかなたの海にまで飛ばした。やがて、青い海は赤土のために、赤くにごり始めた。当然、昆布の収穫は減るばかりか、収穫した昆布に砂が付き、どんどんと質の低いものになってしまった。

 気の利いた人、頭のいい人、そしてお金を持っている人達は、襟裳を捨てた。しかし、襟裳から離れたくても離れられない人達もいた。その人たちが、「このままの海を子孫に残すのは忍びない」と、木を植え始めたのである。今から五十年も前のことだ。緑化事業は、容易ではなかった。種を植えても、風で飛ばされてしまう。最初のうちは、ほとんどが失敗であった。そんな苦闘の中から、雑海草と共に種を植えると、肥料にもなり、風にも飛ばされないことを見つけ出した。今、「襟裳式」と呼ばれる緑化方である。

 襟裳に、緑が蘇ってきた。私達は、かつての゛襟裳砂漠゛が眼下に広がる展望台に立った。赤松の林が、広がっている。四十年前の植えた赤松は、苦渋するかのように立っている。最近植える赤松は、十年ぐらいで、四十年の樹齢の松に追い付く。緑が蘇ってきたのだ。そして緑が蘇るとともに、海が蘇り始めた。私達は、この日、およそ百本の柏を植えた。元々広葉樹林であったこの地を、赤松の林から、広葉樹林の林に戻す。これからさらに五十年先に思いを馳せて、みんなで植えた。

昆布

2004年7月19日 上甲晃 |

 北の国の朝は、早い。三時半過ぎには、夜が明け始める。この日、起床時間は、午前四時。四時半には、出かける準備をして玄関前に集まるようにと、担当の塾生から指示があった。窓の外には、牧場の景色が広がる。なだらかな斜面の向こうまで晴れている。年中強い風が吹く襟裳岬にしては、奇跡的とも言えるほど穏やかな天候だ。風力発電の風車が、ほとんど静止している。牧場を鹿が飛び跳ねながら、横切る。この天候なら、昆布採りの作業を手伝う研修ができることは間違いない。

 襟裳町役場の農水産課長である三戸さんが、私達を迎えに来てくれた。「昆布漁には最高の天気です」との言葉に促されて、私達は車に分乗して、海岸に急いだ。三戸さんが、港の堤防の近くで車を止めた。堤防の界隈には、昆布漁に出かける舟が、船外機の音をけたたましく立てながら、待機している。「五時ちょうどにサイレンが鳴ります。それが合図です。サイレンの音と共に舟が一斉に魚場に向かうのです」と、三戸さんが説明してくれる。まるで、競艇場のスタート前のようだ。舟の数は数え切れないほど多い。どの舟も、乗り込んでいる人は一人だけ。「どこで昆布を取るか、場所決めはありません。ただ、スタートの時間を決めて、後は自由競争というわけだ。

 海から良く見える小高い丘陵の上に、白い旗がはためいている。この白い旗は、昆布漁師の元締めである旗本が、毎日の天候を決めながら掲げる。昆布は、天日に一日だけ干す。だから、朝から雨が降っていたり、昼から雨が降るような日は、赤い旗が上がる。赤い旗は、昆布漁をしてはいけない日なのである。゛幸せの黄色いハンカチ゛ならぬ白い旗が、穏やかな一日を教えてくれるようである。

 午前五時ちょうどに、海岸線にサイレンが鳴り渡る。待機していた船がいっせいにスタートする。無数の舟が、白い波を立てて、先を急ぐ。比較的海岸線に近い岩場に舟を止めるのは、港に近い地元の人たち。遠くから遠征してきた舟は、港から離れたスポットに向かう。舟に昆布が一杯になると、舟は水揚げのために帰ってくる。その往復を何度も繰り返す。

 陸では、大勢の人達が、舟の帰ってくるのを待ち受ける。私達は、一軒の漁師さんの家で、昆布を干す仕事を手伝うことになった。長靴に履き替え、軍手をはめ、準備万端整った私達のところに、一艘の船が帰ってきた。舟の中には、収穫したばかりの昆布が、独特の色艶を誇るように何重にも積み込まれている。

 手際良く昆布を水揚げするのは、奥さんの仕事。昆布を降ろすと、舟は再び海に出る。私達は、昆布を積んだ運搬車の後に続く。干し場は、白い小さな石が敷き詰められている。その石の上に、昆布をまっすぐに伸ばしていく。十メートル近くあるものも多い。「あまり強く引くと切れてしまい、昆布の等級が下がります。切れたら、請求書を送りますから」と脅されて、そろりそろりと昆布を引く。昆布には海の香りがする。黒光りした表面が、この地方の昆布の良質さを表している。

 どこの家でも、昆布を干す作業に、家族総出。それどころか、学校の先生や役場の職員も借り出されて、地域総ぐるみの働きだ。すべての家が水揚げされた昆布をいっせいに干す様子を見ていると、私の心の中に、なんとも表現しにくいような喜びが、こみ上げてきた。みんなが揃って真剣に働く姿は、こんにも凛々しく、美しいものかと、感動してしまう。

 昆布が、至る所で、太陽の光線にさらされている。整然と白い石の上に並べられた昆布が光線を反射して、黒光りする。休日のこの日、子供達も働いている。都会に働きに出ている若い人たちも、呼び戻されて、手伝っている。日本の原風景、そんな言葉が、私の頭の中をよぎった。

 次の予定に追われていた私達は、たった一回の水揚げを手伝っただけだ。「邪魔にこそなれ、何の役にも立たなかった」と反省仕切り。それでも、昆布漁師の家族の人たちは、「また、いつでも来てくださいね」と、別れ際に、にこやかに手を振ってくれた。沖から舟が再び帰ってきた。昆布漁は、七月から十月ぐらいまでの間、行われる。

 「漁の期間が終わると、くず昆布を拾い集める人やよそに働きに出る人、農業にいそしむ人など、それぞれに生活の糧を稼ぎます」。そんな話を聞きながら、昆布漁でにぎわう海岸を後にした。

頭取の志

2004年7月18日 上甲晃 |

 「バブル膨張期の金融機関に欠落していたのが、公共性という意識。儲け至上主義とも言うべき収益動機に完全に支配されていたのではないかと思う。とことん営利を追求することが、経営の至上・最大課題であるということから、スケールメリットを狙い、ボリュームを拡大していく。つまるところ、自らが儲ければいいという貧しい考え方が主流を占めてしまった結果、企業の優先課題は必ずしも収益とは限らないという考え方、ある種の公益性を多くの企業から奪ったのではないだろうか」。こんなことを言い切る銀行の頭取がいる。山口県周南市に本拠を構える西京銀行の頭取の大橋光博さんである。私は、日本の銀行には珍しい『志の頭取』であると評価し、最近、親しくお付き合いさせていただいている。

 この日は、大橋さんを、私が出演するラジオ放送に出ていただいた。私とは、学生時代、ほぼ同じ時期に京都で学生生活を送った人である。私の方が一つ年上だが、学生時代は、ほぼ重なる。同じ時代を生きてきた者同士の共鳴共感もあるのだろう。話は打ち解けたものになり、なかなか素晴らしい内容の話が聞けたように自画自賛している。

 大橋さんが最近著した本の題名は、「小さく、ゆっくりでいい」。そもそもタイトルからして、日本の銀行が目指しているものとは逆だ。「業績回復は、結果です。今の銀行に必要なことは、社会性の回復。とりわけわたしたち地方銀行は、地域の経済発展のために役に立つという原点にもどらなければならない」とおっしゃる。私は、惚れ惚れとする。銀行経営に素人の私が日ごろ主張していることと、同じであることがうれしい。

 「女性と若者に、無担保で五百万円融資」。西京銀行は、しあわせ市民バンクを創設した。今まで銀行が一番融資を嫌ってきた女性と若者こそ、新しい地域経済の担い手であるとの思いからである。バングラデッシュのグラミン銀行総裁であるユヌスさんは、貧しい農村の女性に無担保で少額融資するマイクロクレジットを推進している。ユヌスさんの話を初めて聞いた時、これは日本にはいない、志あるバンカーだと感動した。しかし、日本にも、志あるバンカーがいたのだ。

 コミュニティビジネス。地域の小さな起業の芽を育てていくことを目的にすること自体、志がなければできないことだ。既に、五件のコミュニティビジネスがスタートしている。柳井みやげのお菓子を作る人、体験型の農場など、小さいが、今までにない試みだ。また、小さな起業を支援する活動にも力を入れている。来週、日本の進路研究会の講師として招いている。詳しく話が聞けることが楽しみである。

ブータン

2004年6月15日 上甲晃 |

 最近、私は、ちょっとした゛ブータン狂゛である。

 九州程度の面積の国土に、わずか七十万人の人口を抱えるブータンは、南は海抜百メートルの熱帯雨林から、北は海抜七千メートル級のヒマラヤ連望がそびえ立つ山地まで、まことに起伏の大きい国土である。私は、まだ訪ねたことがない。そのブータンに狂い始めたのは、名古屋市内でイマジンという会社の会長を務める近藤秀二さんから、『選択』という雑誌のコピーをいただいたのがきっかけである。

 この記事の見出しは、「ブータン発『国民総幸福量』という価値観」とある。私も雑誌『選択』を購読しているが、近藤さんにコピーをもらうまで、記事のことには気がつかなかった。それにしても、ブータンの国王は、すばらしい指導者、国家経営者である。

 ブータンの国王であるジグメ・シンゲ・ワンチュク。別名、龍王とも呼ぶ。十六歳で国王の座に着き、「国の中を舐めるように歩き回った」(『選択』)。そして国王は、目覚めたのである。

「我が国の民は物は貧しくとも心は豊かだ、と。そして、近代化がもしもこの豊かさを脅かす時が来たら、雷龍の国は滅ぶ」(『選択』)。そしてそれをそのまま国づくりの根本の理念に据えるのだ。それが、国民総生産量ならぬ、国民幸福量の考え方だ。ブータンの国王は、国民総幸福量を拡大させることを基本として、国の運営を悠然として行ってきたのである。

 雑誌では、国民総幸福量について、端的に説明している。「目的と手段を混同してはいけない。経済成長自体が国家の目標であってはならない。目標はただ一つ。国民のしあわせに尽きる。経済成長は成長を求めるために必要な数多い手段のうちの一つでしかない。そして、富の増加が幸福に直接つながると考えるのは間違いである」。それにしても、すばらしい指導者の『志』ではないか。株価か上がり、景気が上向くと、途端に政治家に対する評価が変化する日本の現状と比較しても、以下に日本の現状とは正反対、対極にあるかがわかる。

 ブータンでは、「人々の幸せに満ちた生活を可能にしてくれる自然環境、精神文化、文化伝統、歴史遺産を破壊し、その上家族や友人と地域社会の絆までをも犠牲にするような経済成長は、人間の住む国の成長とは言えない」とされている。金儲けのためには、環境の破壊、精神文化の軽視、人間の絆を断ち切ることなど意に介していない日本の現状を嘆かわしいと思うほどに、ブータンが光り輝いて見える。松下政経塾卒業生の政治家諸氏にも、ぜひ教えたい記事だ。

出版

2004年6月14日 上甲晃 |

 行雲流水。「新進気鋭の作家である」と、私は思っている。書店に、その人の作品が並べられたことはなかった。しかし、この六月、行雲流水さんは、『正義』と題する長編の小説を出版した。全国の書店で取り扱われることになった。もっとも、「売れる本を並べる」ことに血道を上げている書店が、この本を店頭に積み上げるように並べるような動きはない。

 行雲流水さんは、私が松下電器に入社した時の同期生である。今も、最も親しく付き合っている仲間の一人だ。本当の名前は、崎谷 茂という。もともと、松下電器で営業畑や企画畑を歩んできた、典型的なサラリーマンである。一昨年、松下電器が大々的な早期退職者の募集をした時に、応じた人である。その後、マンションの管理人になって、隔日勤務していると聞いていた。「マンションの管理人の試験がどれほど難しいか。それでも、定年後、年金だけで暮らしていくことの不安かがあったから、働くことにした。この仕事は菩薩行よ」と、私に話してくれた。

 しかし、崎谷氏には、志があり、夢があり、特技があった。マンションの管理人を勤める一方で、小説を書いていたのである。現役のサラリーマン時代から、同人の雑誌に寄稿していた。

きわめて几帳面な筆の進め方には、感心していた。表現も、まことに丁寧なのである。「花がきれい」などといった表現はしない。どの程度の背丈のある、何の花が、どのようにきれいかを実に丹念に描いているのが、印象的であった。

 『正義』と題する小説を読んだ。企業と政治、そして利権を中心に渦巻く人間模様は、迫真の表現である。私が何よりも感心したのは、小説の舞台になった東京の様々な場所の表現が詳しくて、精緻なのだ。それには理由がある。崎谷氏は、定年前の数年間、東京に単身赴任していた。「その歳で単身赴任も大変だね」などと同情していたが、彼は単身赴任の期間を利用し、丹念に東京の中を歩き回っていたのだ。

「隅田川は江戸時代、大川と呼ばれ、東海道を始めとした陸路の五街道と並び江戸経済を支える水路交通の中核であった。そしてまた、遊郭吉原への水路でもあった。当時、吉原への遊客は、陸路を徒歩か駕籠、または柳橋辺りの船宿から大川を猪牙舟で上がっていった。そして今では、かつてそうした遊客を乗せた猪牙舟が行き来した大川に、季節季節の観光客を乗遊覧船が昼夜を分かたず船行きしている」。このような表現で、東京のいたる所が語られる。だてに単身赴任していなかったところが偉い。やっぱり、志だ。ちなみに、この本は、日本文学館の出版で、何と、千円。注目の一作が、世に認められることを祈る。

副市長の奮闘

2004年6月 3日 上甲晃 |

 ちょうど一年前に横浜副市長に就任した前田正子さんは,松下政経塾の第三期生である。大阪出身らしく,庶民的な性格で、お高く止まっているところはまったくない。本音ですげすげものを言いながら,どこか愛嬌があり,聞いている人達に大いに好感を抱かせた。

五月二十六日に開催した、私が主宰する「日本の進路研究会」の第十回目の講師は,前田正子さん。会場は、横浜の゛みなとみらい二十一゛のシンボル的存在であるランドマークタワーの十三階にある大会議室。およそ四十人ほどの受講者は、しばしば会場の爆笑を誘いながら進めていく前田さんの話に、引き込まれていった。「中田市長も,魅力的な人を副市長に選んだものだ」と、喝采を浴びた。

 ある生命保険会社の研究員であり、十二歳と二歳の二児の母であった前田正子さんに,松下政経塾の後輩である中田宏氏(横浜市長)から突然電話がかかった時の用件は,「子育て支援の仕事を手伝ってくれないか」といった程度の内容であった。子育てや保育園の体験を何冊かの書物に著していた前田さんは,その延長線上での依頼だろうと,「いいわよ」と軽く受け止めた。

しかし,その電話は,前田さんを副市長に抜擢する中田氏の最初の布石であった。やがて,前田さんが,「あの話はなかったこと」と忘れかけたころ、「副市長を引き受けてほしい」との依頼があった。議会の根回しなどがあり、事は簡単に運ばない。中田氏は、「結論が出るまで極秘」と口止めしたころから,前田さんは,「大変なことになった」とあわてた。時既に遅し。外堀も内堀も埋められ,あれよあれよと言う間に,副市長の席に座るようになった。「あのころは,出産して一年の育児休暇が明けたばかり。深く物事を考える余裕もなかった」と前田さんは,笑い飛ばす。

やがて議会で正式に就任が可決された直後,人事局長がきて,「副市長の担当は,福祉と医療と横浜市立大学,そして教育です」とうやうやしく申し渡されて,仰天した。「私がそれをすべてやるの?」と聞き直したら,「さようでございます」と人事局長は涼しい顔で答えた。
それから、前田副市長の一年は始まった。

「横浜市には三人の副市長がいます。財政と人事を握る筆頭副市長、横浜市役所始まって以来の秀才と噂されるもう一人の副市長,そして私です。もともと、私が担当する仕事は,今まで,中央から来るお金をばらまくだけの仕事だから、女性が担当すればいいと決まっていたようです。ところが、財政危機に遭遇して,お金を配るどころか、厳しく支出を見直さなければならない時代を迎えて,私の担当する仕事も次から次へと大きな問題に直面しました」と話を始めた前田さん。老人の無料バスの廃止,横浜市立大学の独立法人化、さらには直営病院の改革など,過酷とも言うべき大問題に立ち向かわなければならなかった。

敬老パスは,七十歳以上の老人が無料で、バスや地下鉄に乗れ制度。お年寄りにはありがたい特典ではあるが,財政難の折,このまま増え続けていく高齢者に対応することができないことは目に見えている。平成二十年には百億円,平成三十年には百五十億円の財源が必要だ。「年寄りを敵に回すと,選挙に勝てない」と脅かされるたびに,今までの市長はこの問題を先送りしてきた。だから、市役所の幹部は,「中田市長も手をつけられまい」とたかをくくっていたふしがある。しかし,中田市長は敢然としてこの問題に手を着けた。多くのお年寄りから、脅迫まがいの抗議が寄せられた。「年寄りを殺すつもりか」と詰め寄る人もいた。しかし、ない袖は触れない。また、自分の人気のために、破綻する財政を放置できない。中田市長は、本気にこの問題に取り組んだ。

それは市役所の職員に,「中田市長は,市政改革に本気だ」と思わせるだけの衝撃があった。そして、「お金を配って,みんながハッピーになる時代は終わった。これからは、行政サービスの切捨てに本気で取り組まなければならない」と覚悟を決めさせることにもなった。

前田市長の役割は、これからの時代に本当に必要なものは何かを見極めて、投資すべきものは投資する一方、不必要なものや赤字垂れ流しているような事業を大胆に切り捨てていくことだ。それは口で言うほど簡単ではない。なぜならば、そこに既得権益者がいるからだ。抵抗は、すこぶる激しい。しかし、前田さんはめげない強さを持っている。

横浜市が直営する三つの病院は、巨額の赤字に陥っている。新しく完成する新港湾病院は、前市長の悲願だった。大理石を敷き詰めた新病院は、全国一贅沢な造りである。ところが、残念ながら、この病院をオープンすると、巨額の赤字が待ち受けている。バブル全盛時代の発想は、今となさっては、すべてお荷物どころか、命取りにもなりかねない。

前田さんは、中田市長と力を合わせて、大胆な市政の改革を進めている。役所の職員が、中央からのお金をばら撒いて、ふんぞり返る時代は終わった。「ただ、市民の意識も二分化しています。

前田正子さんの話は、大変に刺激的であった。何よりも、これからは市民意識の高揚が求められると、つくづくと思い知らされた。家の前に横たわる猫の死骸を見て、自分で処理できる人、役所へ電話をかける人。その違いが、これからは大きな違いを生むことになるだろう。

夢甲斐塾の諸君へ 

2004年5月25日 上甲晃 |

 「二十一世紀の山梨県を担って立つにふさわしい人を育てたい」、そんな熱い思いを最初に持ったのは、前の山梨県知事である天野さんでした。そして、なぜか山梨とはまったく縁の無かった私に白羽の矢が当たり、塾長を委嘱されました。おかげで、私は、諸君と出会うことができました。改めて、人の縁の不思議さを思うと共に、諸君と出会えたことを何よりもありがたく思っています。

 さて既に諸君が承知していただいているように、『夢甲斐塾』は、この四月以降、県の事業から、私達自身の事業に変わりました。新しい知事の方針により、『夢甲斐塾』は、三月末をもって県の事業としては幕を閉じました。しかし、私は、「人を育てることは、三年程度の短期間で終わるものではない」との思いから、私達自らの手で継続することを諸君に訴えてまいりました。幸い、諸君は、私の思いに賛意を表していただき、四月から、『夢甲斐塾』は新しいスタートを切りました。

 私は、いたずらに行政に依存することなく、必要なことは自らの手で事を進めていくこと自体、二十一世紀にふさわしい発想であり、ある意味では画期的であると確信しています。これからは゛自立の時代゛です。『夢甲斐塾』は、゛自立の道を歩む゛決心をしたのであります。『夢甲斐塾』は、県が予算を出すから動くのではなく、私達一人一人に熱い思いがあるから動くのです。自立は、容易ではありません。しかし、自立こそが、生きる誇りであり、自己実現の道であります。

 さて、多くの諸君が、それぞれに善意を持ってスタートしたのではありますが、五月十八日に富士吉田で開催した三期生諸君の研修に参加した時、新しい『夢甲斐塾』が「生みの苦しみ」に遭遇していることを知りました。みんなが良かれと思って取り組んでいることが、かみ合っていないもどかしさを感じて、それぞれに苦しんでいるようでありました。

 私は、三期生の諸君から、実情の問題点などを聞き、現状を把握していて、一つ気付いたことがあります。それは、新しい『夢甲斐塾』の理念、原点、志が不明確であることです。「何をするために、『夢甲斐塾』は存在するのか」、その一番肝心のところが不明確なために、いささか内部が混乱しているのだと判断しました。

 例えて言えば、「豊かな自然を満喫しに行こう」という思いを共有する人たちが、幹事の呼びかけに応じて、決められた時間に甲府駅に集まりました。ところが、具体的にはどこへ行くのかを決めていなかったために、ある人は下り列車に乗り、ある人は上り列車に乗り、ある人はバスに乗り、ある人は歩くことを考えている。今の『夢甲斐塾』は、そんな状態に陥っているように思えました。これでは、時間が経てば経つほど、お互いの距離は広がる一方です。そこには溝もできるでしょう。溝は時間と共に、広がり、深くなるばかりです。また、違う方向に向かう人たちに対する批判も聞こえてくるでしょう。思いを同じくした人たちが、せっかく集まっていながら、お互いの溝が深くなることは、まことに残念です。

 諸君、七月の第四期生を迎えるまでに、期生を越えて一丸となり、「『夢甲斐塾』は何を根本の思いとして、具体的に何をするのか」を決めようではありませんか。それこそが、私達がなぜ自らの手で『夢甲斐塾』を継続しようとしているのかの証(あかし)でもあります。根本の理念をしっかりと決めてしまえば、後はそれに照らして考えていけばいいのです。根本の理念が明確でないと、ともすれば批判が人に向かいます。その意味からも、『夢甲斐塾』の理念明確化と具体的な活動方針策定を、ぜひともみんなの力で進めていこうではありませんか。

 最近私は、「自分を良くしたいと思ったら、まず、周りを良くする努力をしろ」と言い続けています。「他人はともかく、自分のしたいことをしたい」というのは、いかにも個性を尊重しているようですが、それはわがままの裏返しであります。「自分をより良くしたいと思ったら、他人のために献身的に努力すること」です。「他人のために献身的に働くこと」が損なことだと考えるのは間違いです。それが、自分を良くしていく唯一の道です。

 『夢甲斐塾』をより良くしようと努力することこそが、諸君を人間的に成長させます。「自分は、『夢甲斐塾』で何をしたいかではなく、『夢甲斐塾』をより良くするために、自分に何ができるか」を常に考えてください。それがきっと、諸君の人間性を高めていくことでありましょう。

 最後に一つお願いしたいこと、みんなの゛絆゛は話し合いだけでは結べないということです。本当の゛絆゛は、「高い理想の実現を目指して、共に苦労する」ことによってのみ結ばれるのです。話し合いばかりしていると、堂々巡りしたり、批判や愚痴に終始したり、違いや溝を深めるばかりといった傾向があります。

 必要な話し合いは最低限にして、同じ目標に向かって、みんなで汗を流し、苦労することこそ、『夢甲斐塾』の塾生間の゛絆゛をしっかりと結んでくれることでしょう。まずは、理念作りに、みんなで前向きの汗を流し、苦労しようではありませんか。みんなの満足できる理念が完成した時に、期生を越えた心の絆がきっと結ばれることと信じて歩んでください。

平成16年5月25日 

   『21世紀夢甲斐塾』   塾長  上甲 晃



『青年塾』塾生諸君への手紙

2004年5月20日 上甲晃 |

 いよいよ、クラス別の本格的な研修がスタートします。諸君にとっては、初めての経験だけに不安感も強いことでしょう。私もまた、八年目とは言え、初めてのような緊張感を感じています。この一年を、生涯でもっとも忘れられない思い出に満ち満ちたものに、仕立て上げましょう。

改めて、『青年塾』の根本目的を確認してください

 最初にみなさんにお願いしておきたいことがあります。それは、『青年塾』の根本の精神に関することであります。既に何度も強調しているように、『青年塾』は諸君の人間としての゛根っこ゛を良くしていくことを目的とした学びの場であります。偉そうな言い方をするならば、「人間としての一流を目指して切磋琢磨する場」であります。

 「人間としての一流とは何か?」。その問いかけに対して、私は、「自分のことしか考えられない人は人間三流。どんな時でも、人のためを考え、行動できる人は、人間一流」ととらえています。だから諸君には、「己の損得計算を超えて、回りを含めた大きな損得計算の上に立ち、行動できる人になってほしい」と願っています。すべての研修は、その目的に即して行っていきます。

「何をしたいか」ではなく「みんなのために何ができるか」

 まず、第一回目のクラス研修に当たり、合言葉は、「みんなのために惜しげもなく自らの力を差し出してください」ということです。「自分が何をしたいか」ではなく、「自分がみんなのために何ができるか」を考えてください。「みんなきわめて意欲的で、あれをしたい、これをしたいと活発な意見がたくさん出ています」と、現状を聞かせてくれたクラス世話人もいます。それぞれの人たちが様々な期待と希望、提案や意見を持っていることは、諸君の関心の表れであり、それはそれでうれしいことであります。

 しかし、私の求めているのは、みなさんの個人的な希望ではありません。何よりもまず、私が諸君に望むことは、「自分が何をしたいか」ではなく、「みんなのために私は何ができるか」を考えていただくことです。

 例えば、食事作りをする場合、誰かが食材の買出しに行かなければなりません。もし諸君に少しでも時間的余裕があれば、「私も買出しを手伝いますよ」と進んで手を挙げてほしいのです。また、集合時間よりも少し早く行けるのであるなら、「何かお手伝いしますよ」と言って、早い目に出かけられる人になってほしいのです。

 望ましい姿は、「みんながそれぞれに自分の希望を持つことではなく、みんながそれぞれに何かお役に立ちたいと、次々に申し出てもらっているのでうれしい悲鳴です」との声が聞こえてくることです。

゛高邁なる精神風土゛を諸君の手でいっそう充実させて

 幸いにも、『青年塾』には、良き伝統が培われつつあります。それは、『青年塾』に参加した人たちが、惜しげもなくみんなのために力を発揮する風土であります。私に言わせれば、『高邁なる精神』風土、『高貴な精神風土』が伝統として培われつつあるのです。

 この風土を大事にしたいだけではありません。諸君の手によって、さらにすばらしいものに発展させてほしいのです。もし、すばらしい風土か諸君の手によってさらに磨きがかかるならば、近い将来、『青年塾』は、特別な研修を何もしなくても、ただ入っただけで人が生まれ変わるような場になっていくことでしょう。それが私の理想であります。

 諸君が人間として成長する道は、「みんなを良くしようと働きかけること」です。自分を本当に良くしたいと願うならば、まず周りを良くすることです。例えば、会社に勤務しているならば、職場を良くしようと働きかけるあなたの努力が、あなた自身を良くするのです。地域なら、地域を良くしようと働きかける努力が、結果的には、地域以上におなた自身を良くしてくれるのです。そのことを肝に銘じておいてください。

共に苦労することこそ、心の絆を結ぶ

 関西クラスでは、最初の研修で、「みんなの心の絆をしっかりと結び合いたい」というテーマを決めたようです。毎回、テーマを持って研修に望むことは、まとこに好ましいことです。また、ぜひとも、クラスの仲間同士が心の絆を強く結び合ってほしいと願います。

 そのためには、話し合いの時間を増やしたり、一杯飲んで交流するよりも、まず一つの目標に向かって、『共に汗を流すこと』です。絆はどのような時に結ばれるのか。私の答えは、はっきりとしています。「高い目標に向かって一緒に苦労した時」です。だから、いたずらな議論ばかりせずに、まず、みんなが共に力を出し合ってください。仮に酒を一滴も飲まなくても、共に苦労すれば、心は必ず通じ合います。それは、『青年塾』七年の実績が何よりも端的に証明しています。

 諸君と共に過ごせる時間を楽しみにしています。まず、欠席しないように努力してください。全員が顔を合わせるところから、始まりです。
         志ネットワーク『青年塾』 代表 上甲 晃

ホームステイ物語

2004年5月 1日 上甲晃 |

ホームステイ物語(1)

 八年目の初体験。バングデシュの農村でホームステイである。同じホームステイをするのなら、あえて一つの条件をつけることにした。「電気のない家に滞在したい」。現地では、「電気がきている家を希望する人は多いが、初めから、電気のきていない家を希望する人は珍しいと、驚かれた。闇を忘れた日本人。私もまた、いつのころか、本当の闇を忘れてしまったような気がする。もう一度、闇を経験したい、そんな思いから、電気のきていない家に滞在することを希望した次第である。

 夜の帳(とばり)が降りると共に、満天の星が、地上に舞い降りてきたのではないかと錯覚した。椰子の林に、星のように蛍が乱舞しているのだ。真っ暗闇にシルエットだけが黒々と伸びる椰子の木の間からは、雲ひとつない空に明るく輝く星がひときわ大きく見える。そして、椰子の木の足元には、無数の蛍が点滅しながら、飛び交っているのだ。これはもう、夢幻の世界だ。空にまたたく星と足元を飛び交う蛍が、まるで同じもののように調和し、共鳴し、天と地を行き交うようだ。

 ホームステイした家の前には、小さな池がある。池の向こうには、収穫期を迎えた稲が、穂を垂れている。池にも、田んぼにも、蛍が舞い踊っている。ホームステイした先の家の子供達が、簡単に蛍を捕まえてきては、私の手のひらに乗せてくれる。私は、手のひらを空に向けて伸ばす。蛍が、空の星に帰っていくかのように、高く舞い上がる。

 この辺りには、まだ電気がきていない。私は久しぶりに、夕闇から闇へと移り変わっていく世界に身をおいた。開発などとはまったく無縁の田舎は、緑一色の世界だ。あふれるような緑の世界の上に夕日が赤々と最後の輝きを見せてくれる。野良仕事をしていた人たちが、村に向かって家路を急ぐ風景さえ、私の胸を熱くする。もはや日本の農村にはない光景だ。夕闇が迫る切なさを、懐かしく思い出した。さっきまで鮮明に見えていたみんなの顔が、段々と区別できなくなる。

 やがて村が闇に包まれると、家々に頼りげなく、ランプが点(とも)る。あちこちから、まるでお経を唱えているような声が聞こえてくる。「あれは何?」と質問したら、「勉強しているのだ」とのこと。窓ガラスなどない家の窓際に近づくと、高校生の娘が、本を朗読している。「何の本?」と質問したら、「経済」と返事が返ってきた。ランプの明かりだけを頼りにして、朗々と本を読む姿は、日本では歴史的風景である。村の中を少し歩いてみた。どこの窓にも、背筋を伸ばして、ランプの光の下で本を読む子供達が居る。どの風景も、子供のころの原風景だ。


ホームステイ物語(2)        

 レンガを積み上げて、その上からセメントを張る。それがバングラデシュの家作りだ。とりわけ田舎に行くと、家と言うよりは、土蔵の雰囲気がある。暑い国だから、外の暑さから守るために、壁が厚いのだろう。一日の終わり、わずらわしいほどの人との付き合いから離れて、私にあてがわれた部屋の扉を閉めた。夜の十時を過ぎている。曲がりなりにも、れっきとした個室である。私は、部屋の真中、壁際に置かれているソファーに腰をかけた。ランプが唯一の明かり。 ランプの光が、部屋を照らす。馬小屋にしか見えない独立した部屋も、入り口の扉を閉めると、哲学的空間に様変わりする。文明と名のつくような道具類は、何もない。私が向かっているパソコンが、きわめて違和感をかもし出す。

 今や、求めようとして求められない暮らしの空間である。片隅に簡素なベットが置かれている。昼間、ベッドに横たわっていると、開いた窓から子供が覗き込んでいた。そのガラスがはめられていない窓も、今は閉められて、大きなかんぬきがかけられている。ランプの光が、思いのほか、明るい。周りが真っ暗だと、こんな弱々しいランプさえも、強い光を放つのだ。

 ベッドに横たわった。クッションがないから、板の間の上に身を置いた感触である。最近愛用している簡易の寝袋をベッドの上に敷く。寝袋と言っても、布地を袋状にしてだけのものである。これさえあれば、世界中、どんな場所でも寝ることができる。作家の曽野綾子さんから、「風呂敷き一枚あれば、どこでも眠れる」と教えてもらったことがある。それにヒントを得て購入した簡易の寝袋が、ここで強力な味方だ。

 ランプの明かりを最小限に絞る。か細い光が、部屋全体にやっと届いている。天井に張ってある赤い布、曲がっている額、破れている地図、セメント壁のごつごつとした凹凸が浮き上がる。外からの光などまったくない。牛が、一鳴きする。いつのまにか私も眠りに落ちた。

 村の朝もまた、動物の鳴き声から始まる。鳥の鳴き声に目がさめた。か細いランプリ明かりを頼りに、時計を見た。四時だ。しばらくすると、私の寝ている小屋の周りをアヒルが、鳴き声を立てながら、せわしなく動き回る。四時半を過ぎると、モスクからお祈りの時間を知らせる声が辺り一帯に響き渡る。かんぬきを外して、外を見た。まだ、真っ暗だ。再びベッドに横たわる。周りの音が、輻輳して、大きくなる。人間も動物も活動を開始している。とても寝ている場合ではない。簡易の寝袋をたたみ。窓や戸を開けた。ホームステイ先の人たちは起きだして、歯を磨いている。太陽と共に眠り、太陽と共に起き上がる生活の始まりだ。


ホームステイ物語(3)
        
 月がこんなにも明るかったことを、すっかり忘れていたようだ。

 電気のきていない村では、夜の訪れは、休みの時を告げる。田んぼの遥か向こうに、三つの明かりがある。電気がきている隣の村の明かりである。家々の窓からわずかにもれるランプの明かりを除けば、隣村の三つの明かり以外は、すべて闇である。行き交う車のヘッドライトもない。子供のころ、こんな闇を見たことがある。「鼻をつままれてもわからない闇」、そんな言葉を聞いた記憶もよみがえった。

今、日本には闇がない。どこにいても、光がある。すべての電気を消してある我家でも、携帯電話を充電する明かり、ビデオの時計をはじめ、いろいろなものが光を出している。外からは、街頭の明かりも入ってくる。車が通るたびに、ヘッドライトの光が侵入する。大自然の中に身を置いたときでさえ、頭の上を飛ぶ飛行機が明かりを点滅さえ、遥かかなたの人里の明かりが見える。「闇が消えた日本」を、真っ暗闇のバングラデシュの田舎に来て。実感した。

中庭に出ると、雪が降ったのではないかと見間違うほど、回りは白の世界である。スレートを敷いただけの屋根の白さが、雪を連想させる。庭も明るい。月の光がこれほどの明るさをもって、周囲を照らしていたこともすっかり忘れていた。日本では、月の存在感がすっかりなくなってしまっている。月の光を頼りにして生活することなど、もう記憶にない。

この日の月は、満月ではない。半分ほどは欠けている。それでも、この明るさだ。月の明かりが回りを照らし出す中で、人々は、語らう。私には、話の内容など理解できるはずはない。それでも、月の下での会話がなんとも穏やかで、神秘的な感じさえ与えてくれるのが不思議だ。月明かりが、人々の心に何かを届けているのだろう。そう言えば、私の子供のころにもこんな光景があったように思う。遠くからでは見分けのつかない人が、月の明かりのおかげで、そばに来て見分けられた喜び。月空の下でのひそひそとした話が、あたりをはばかるように響いていた。

月は森を静まり返らせ、田畑を明るく浮かび上がらせる。私は、何度も中庭や池の辺に立った。そのたびに、ホームステイ先の家人が気を使って私に寄ってくるので、一人で静かに月が照らす世界をさまようことはできない。それでも、中空に月が差し掛かった時の明るさは、驚きだ。あれほど飛び交っていた蛍も、どこかに消えている。満天の星も、影が薄い。月に照らされて自分の影が伸びる。子供のころ、゛影踏み゛遊びをしたことをふと思い出した。

みかん山復活大作戦

2004年4月22日 上甲晃 |

 妻の叔父が亡くなったために、淡路島に出かけた。葬儀の後、久しぶりに妻の実家に泊まった。夜半、妻の母とその弟が弔いの会合を終えて、帰ってきた。義母の弟は、淡路島の南、太平洋に面した斜面で、長年、ビワとみかんと花の栽培をしてきた。既に年齢は七十を越しているが、農家としては現役である。ただ、肉体的に負担のかかる仕事をへらしつつある。今は、花の栽培がほとんど。みかんやビワは、自家用以外ほとんど作っていない。

 「あのみかん畑はどうしているの?」と、私は質問した。「もう捨てた」との答え。「捨てた?」。あまりにも生々しい答えに、私は聞き返した。その人は、みかんの栽培を捨てたので、今まで丹精こめてきたみかん畑がどんどんと普通の山になりつつあると説明してくれた。

 淡路島のみかんは、日本一うまいと、私は思い込んできた。静岡の三ケ日みかんは、今、日本一おいしいとも言われる。しかし、私は、淡路島のみかんはそれに勝るとも劣らないと思ってきた。そのおいしいみかんが、生産されなくなっていくことに、限りない寂しさと切なさを感じた。

 話の途中で、ふとひらめいた。「そのみかん畑を私たち素人の力で復活できませんかね」と、とんでもない提案をした。「あなたのみかん畑を貸してくれませんか。私が、会員を募集して、あなたの指導を受けながら、私たちの力でみかん畑をよみがえらせるのです。私たちは、家族ぐるみで、淡路島に通い、あなたの指導によってみかん畑を手入れします」。私は、アルコールの力も借りて、勢い込んで迫った。

 農家の人は、私のような軽薄者の提案をすぐには承諾しない。「素人には難しいよ」とか、「手間のかかる作業もあるし」とか、「継続できないことには」などと、私の頭から冷たい水をかける。私はそのたびに、「承知の上」と言いながら、さらに強く迫った。「いい考えだと思いませんか。この作戦に取り組めば、都会の人達が農業の経験もできるし、子供のためにも自然に親しみながら農業の体験ができるいい機会になりますよ」と一歩も引かなかった。

酒の上の話は、翌日、頭を冷やしてからもう一度考え直すことにしている。しかし、この話は、正気に戻っても、さめなかった。早速、これから志ネットワークの会員と青年塾の塾生諸君を対象にして、会員募集をすることにした。淡路島は、橋ができてから、大阪から二時間、神戸からは一時間あまりで行ける。週末に通うのに、それほど難儀しない。自分たちで復活したみかん畑のみかんを食べられる日を、早くも夢見ている。

梅干の話

2004年4月21日 上甲晃 |

 和歌山県南部(みなべ)は、梅の名産地である。薄い皮と部厚い肉は、゛南高梅゛として、その名を全国にとどろかせている。全国の梅干の一割は、南部で収穫している。紀南(紀州南部)まで枠を広げると、全国の四割、和歌山県全体を取ると、全国の梅干の半分を収穫している。紀伊半島の温暖な気候は、おいしい梅干を作るのに適しているのだ。

 昨日、南部川村に出かけた。梅の名産地の和歌山でも、最も中心の地域である。青い実を付けた梅の木が、平地にも、山の斜面にも、山の上にも広がっている。梅の木の幹には、決まったように青い網が巻きつけられている。夏の収穫期になると、この青い網を木の下に広げて、ぽとぽと落ちてくる実を受け止めるのである。

 「ずいぶん立派な家が多いですね」と、私を駅まで迎えてくれた梅の農家である内川さんに声をかけた。「このあたりの梅の農家は、年間に三、四千万円稼ぐところはざらです。日本で一番豊かな農家にランキングされました」との説明がうなずける豪邸がいたるところにある。梅は、今、きわめて゛もうかる生産物゛である。口に入れるとすっぱい梅も、生産するとまことに゛うまみのある生産物゛のようだ。「やはり健康ブームのおかけですか」と聞いてみた。「そのとおりです。中国からはきわめて価格の安い梅が入ってきています。もちろん、これからは大きな脅威になるでしょうが、今のところは、価格よりも健康が重視される商品なので、南部産の人気は衰えていません」と内川さんは、自信ありげだ。

 紀州の梅と聞けば、ずいぶん歴史が古いのではないかと想像した。それこそ、紀州藩のころからのお家芸かと思った。しかし、意外にもその歴史は浅かった。明治時代、内本源蔵という人が、この地には梅の生産が適しているのではないかと考えて植え始めたのがきっかけだとか。もともと、この地域では、温州みかんの生産が盛んであった。それが、時代と共に変化して、今はむしろ梅の生産のほうが主流になってきている。

「みかんは生産過剰になると、捨てなければならない。その点、梅は種以外に捨てるところがない。それだけでも、みかんを作るよりも、梅を作るほうが妙味がある」と、内川さんは教えてくれた。

 もっとも、梅が人気になればなるほど、悩みもある。「儲かりすぎると、わがままになったり、傲慢になる。それが一番困ります。儲かりすぎると、すべてに非協力的になる。やはり、崩れるときは、精神から。よほど自戒しないと、自ら梅のブームを壊してしまう」と、内川さんは心配する。梅の話も面白かったが、精神の崩壊を案じる梅農家がいることがうれしい。

夢多き男の物語

2004年4月20日 上甲晃 |

 岐阜県恵那郡蛭川村で石の仕事をしている岩本哲臣さんは、゛夢多き男゛である。『青年塾』の入塾式が終わった翌日、私は、毎年、塾生諸君を岩本さんに会わせることにしている。今年は、七年目。岩本さんが経営する博石館を訪れて、゛夢多き男゛の新しい夢の話を聞く。「夢無くして、何の人生かな」と思っている私からしたら、岩本さんは、とかく現実世界に埋もれつつある最近の青年たちにとって、゛生きるモデル゛だ。

 夢が多いことは、苦労が多いことと、同義語である。夢を持ち、夢を実現するために七転八倒している岩本さん。夢さえ持たなければ、こんなに苦労しなくてすむはずだろうにと思いつつも、なお夢を捨てきれない男の物語。私はいつも胸躍らせて、岩本さんの話を聞いている。

 岩本さんは、若いころ、絵描きになりたかったと言う。今も、絵心は確かである。また、発明が好きだ。取得とした特許件数は、百を超えている。石の博物館とも言うべき博石館は、岩本さんの設計であり、建てたのも自分である。絵心は設計に生き、発明は建築途中の工夫の結果である。石の魅力をふんだんに引き出している博石館は、私の好きな空間である。その感性の高さに、いつも驚かされる。

 今年の岩本さんの夢は、まず、石の家。石は価格が高いとの常識を打ち破り、二百九十万円、三百九十万円、四百九十万円という破格の価格を実現した。それは、「売らんがための破壊価格」ではない。岩本さんが工夫に工夫を重ね、苦労に苦労を積み上げてきた結果が実現した価格である。「普通に注文すれば、倍以上の価格になる」と、岩本さんは胸を張る。日本の建設業界は、手間賃が高い。その手間賃を極端に圧縮したことが、驚異の価格を生み出したのである。

 石の家は、トラックで現地に運ぶ。そして一日で据え付ける。その建て方に、岩本さんの培ってきた特許技術が存分に生きている。話を聞いているだけでも惚れ惚れするほど、工夫の塊だ。外装は本物の石。内装は、本物の木をふんだんに使っている。今はやりの、高気密高断熱構造だ。まだ売り出していないのに、四十五件もの注文が殺到している。

 そしてもう一つは、石のベッド。これこそ、究極の健康ベッドである。石の下に湯が通せる構造になっていて、ぽかぽか温かい。自然の石は、昔から、薬として利用されていた。石に触れることは、石のエネルギーを吸収することでもある。石には宇宙のエネルギーが凝縮されている。既に、病院でも、効用は立証済み。石の家に住み、石のベッドに寝ると、長生き間違いなし。岩本さんの夢もまた、さらに大きく膨らむ。

『青年塾』第八期生

2004年4月11日 上甲晃 |

 三月の『青年塾』第七期生の出発式は、過去最高とも言える充実したものであった。それは、第七期生のがんばりもあるが、伝統の力が養われてきている証拠だと思った。そして昨日から今日にかけての第八期生の入塾式関連行事もまた、今までの中では最高に充実した満足感を感じるものであった。帰りの新幹線車中でこの日のデイリーメッセージを制作しながら、私は大いなる満足感に浸っていた。肉体的な疲れは別としても、精神的には疲れるどころか、いささかの高揚した気持ちさえある。

 左団扇。まさにそんな心境だ。私の思いと塾生諸君の動きが見事に一致していた。私は何も言っていないし、ほとんど何もしていない。しかし、第七期生を中心とした塾生諸君が、私の思いを汲み取り、みごとな入塾式とその関連の行事を成し遂げてくれた。私も妻も、今までのような余裕のない動きではなく、どことなく余裕を持って時を過ごすことができた。これも、初めての経験である。それほどに、先輩の塾生諸君が、主体的に、そして積極的に働いてくれた。うれしい限り。『青年塾』を始めて良かったと、心の底から思うことができた。

 それにしても、先輩塾生諸君の静かで無駄のない動きには驚かされる。バタバタ、ドタドタしていないのである。これはよほど入念な事前準備が行われていなければ到達できないことである。実行委員長の兼松 巧君は、「現地に何度泊り込んだかわかりません」と言うほどだから、会場となる場所に数え切れない回数、みんなで泊まりこみ、細かいところまでチェックとリハーサルを重ねてきたのだ。さらに、モラロジー瑞浪生涯学習センターの幹部が、「とにかく細かいところまで行き届いた仕事をされました。昨日は、早朝からこのセンター周囲の掃除もされました。たいしたものです」と、手放しで誉めていただいた。

 さらに今回は、実にたくさんの先輩塾生が手伝いのために参加してくれた。延べにして百人は下回らないとのことだから、新入塾生を上回る手伝いの塾生がいたことになる。これまた、前代未聞である。北海道から、東京から、関東から、北陸から、関西から、そして地元から、先輩が次々に現れる。ずいぶんたくさんのお金と時間がかかるはずなのに、それを少しもいとわない。それどころか、文句などまったく聞こえてこない精神レベルの高さには、私も頭が下がる。

 さらに感心したのは、実行委員長・兼松 巧君の挨拶だ。「みなさん、私たちに感動を与えてくれてありがとう」。本来、御礼を言われてしかるべき実行委員長が、逆に深々と頭を下げて御礼を言うのには驚いた。

家庭的青年

2004年4月10日 上甲晃 |

 『青年塾』第八期生の入塾式前日、ほとんどの塾生が岐阜県瑞浪市の郊外にある広池学園の生涯学習センターに集まった。山の起伏を巧みに生かしたこの生涯学習センターは、今を盛りと桜の花が満開である。空は一点の雲もないほど、青い。入塾式にはうってつけの場所であり、季節である。研修センターの宿泊室のベランダに出ると、下手な観光地のホテルも顔負けするほど、山間のすばらしい景色が楽しめる。

 この日、午後二時から、入塾式前の行事が行われた。私が三十分ほど話をした後は、恒例の自己紹介である。何事も、゛延々゛をモットーとする『青年塾』では、自己紹介も゛延々゛と行う。一人一分かけても、二時間近くはかかる。そんなことは問題外。一人一人を少しでも良く知ることが目的であるから、効率的であることはまったく考えない。私は、名簿を片手に、一人一人の自己紹介する内容のポイントを書きとどめていった。

 昨年から、新入塾生の自己紹介には、書初め方式が導入された。すなわち、その年のテーマに則して、自らのもっともふさわしいと思う言葉を書いてきて、みんなに紹介するのだ。今年のテーマは、『感動』。様式は自由である。だから、ノートの切れ端のような紙に書いてくる人もいれば、堂々たる紙に黒々とした太い字で力強く書いてくる人もいる。中には、立体方式でみんなを喜ばせる人もいるし、写真入りも登場する。

 それぞれ個性的な内容の発表ではあるが、いくつかの共通した言葉があった。例えば、「出産」、「命」、「出会い」、「笑顔」、「誕生」などは、複数の人達から出た。

 その発表を聞いていた先輩の塾生の一人が、「ちょっと気になるのは、家庭的で、自分の子供のことなどがほとんどだったこと。もちろん、それが悪いというのではないのですが、少しさびしい気がしますね」と言う。感動の世界が、小市民的空間に留まっているのが物足りないと言うわけだ。そう指摘されると、天下国家や社会的なことで感動したと紹介した人はほとんどいなかったことに気が付いた。最近の青年は、尊敬する人は家族、感動は家族にちなむことというケースが圧倒的だ。

 私は、「だからこそ、『青年塾』は歴史を学び、時事用語を研究し、志の人を探求するのだ。スタートの時にはまことに小市民的であった塾生達が、一年間かけて、天下国家に思いを馳せられるように成長するのが楽しみだ」と答えた。日本の青年は、私の若かったころに比べると、はるかに家庭的である。それは悪いことではない。しかし、その範囲にだけ留まっているのは、日本の未来を思うにつけ、問題であろう。

入塾式に向かう

2004年4月 9日 上甲晃 |

 第八期生の入塾式のために、新幹線に乗った。青い空、桜の花咲き乱れ、最高の時節である。私は、いつもこの時、「真っ白なキャンバスに絵を描いていく興奮」を少しばかり感じる。あまりに先入観を持たないために、入塾願書に目を通すのは、前の夜。「父親から言われて」、「あまり興味がなかったけれども」、「会社から突然命令されて」などと、例年と同じような消極的な言葉が随所に現れる。最初のころは、そんな一言にも、いささか抵抗を感じたものである。しかし、最近はまったく違う。やがてこの人達が、生まれ変わったように生き生きとして、積極的に、主体的に研修に参加するようになっていくようになるのが、一番楽しみなのである。「いやいや」、「しぶしぶ」と聞くと、「そうでしょう。そうでしょう」とにこにこしながらうなづいてしまう。

 研修は、゛人の変化を楽しむ゛のが醍醐味。『青年塾』に行くようになって、「あの人は少し変わったね」と聞くと、本当にうれしいものだ。成長力旺盛な人は、『青年塾』に参加したから変化したかどうか見極めがつかない。それに対し、「いやいや」、「しぶしぶ」の人が変化していくと、『青年塾』の研修のおかげと評価される。また、「いやいや」、「しぶしぶ」の人が、「いきいき」、「はつらつ」とした姿になると、我が事のようにうれしい。

 毎年、「いやいや」、「しぶしぶ」参加の人達は、七割ほどはいる。それは、『青年塾』のことをあまり知らないこともあるが、「人に言われたこと」はどんなに良いことであっても、抵抗感があるものだ。私は、塾生諸君が、受身の姿勢から、能動の姿勢に転換することに力を注いでいる。「やらされてやる」のではなく、「やりたいからやる」姿勢への転換である。人間、自分の意志がやり始めると、苦労が苦労にならない。耐えられるのだ。それどころか、苦労が感動につながっていくのである。

 今年は、結局、九十四人の応募があった。昨年は九十二人で過去最高であった。それをさらに二人上回った。北クラスは八人。東クラスは、十九人。東海クラスは、二十一人。関西クラスは、二十七人。西クラスは、十九人。それにしても、うまい具合に、各クラス二十人程度の枠に収まったものである。やはり、私が名前を覚えられる程度の人数が基本である。その意味からも、今年はさらに充実した研修ができる予感がする。

八年目を迎えて、『青年塾』の塾生は、累計で六百人を超えた。「日本に、あの六百人がいたからこそ、救いであった」と評価されるような精神的レベルの高い集団を目指したい。『青年塾』は、日本一志高い集団でありたい。私の生涯の夢であり、志である。

背筋

2004年3月31日 上甲晃 |

 森 信三先生は、「腰骨を立てろ」と教えられた。そして、子供の頃から、親や先生たちから、「背筋を伸ばせ」とも教えられた。いずれにしても、椅子に座った時に、背もたれにもたれずに背筋を伸ばし、腰骨を立てるのは、瞬間的にはできるものの、これを持続することはなかなか難しい。最初は伸びていたはずの背骨が、知らず知らずに湾曲し、腰骨がだらしなく曲がる。人から見ると、決して美しい姿ではない。

 私が意識して腰骨を立て、背筋を伸ばすのは、若い人たちの意見発表や声を聞くときである。「きちんと聞く」。それは教育する者が、教育される者に向かう時の、第一の至誠であり、姿勢であると思ってきた。過日の修了発表会は、十二時間を越える長丁場である。私は、その十二時間、背筋を伸ばし、腰骨を立てることにしている。一度も背もたれにもたれないし、足も組まない、そのために、椅子には深く座らない。椅子の前半分に腰をかけ、背筋を伸ばす。

 一年間、それぞれの困難な事情を乗り越えて共に学んだ仲間である。誰の発表も聞き逃せないし、おろそかにできない。発表している一人一人と向かい合うつもりで、背筋を伸ばして聞き入った。私は、会場の一番後ろに座っているから、他の塾生に、私の姿勢は見えない。私は、発表に聞き入る塾生諸君の聞いている態度が良く見える。すなわち私は、発表している人たちの様子と、話に聞き入っている塾生諸君の様子の二つが掌握できるというわけである。

 発表の態度や内容も大切であるが、人の発表をどのように聞き届けるかもまた、大事な研修なのである。だから私は、塾生諸君の後姿を注目してみているのだ。自分の発表が終わったら、「すべては終わった」とばかりに眠りこけるようなことは許されない。もし自分が発表している時に、人が居眠りしていたらどのように思うだろうか。失礼だと思うだろう。また、それを失礼と思わないような程度の内容の発表であれば、人に聞かせてはならない。やはり、話す方も真剣、聞くほうもまた真剣。そのような状態にならなければ、人を育てる場としては失格である。

 十二時間以上も背筋をぴんと立てることは、普通で考えると、大変な難儀である。しかし、私は、塾生諸君の一年にわたる努力の結果を受け止めるのだと思うと、少しも苦にならない。また、苦になるようであれば、ボツボツ私も潮時、引退の時期である。「聞く姿勢は、心の姿勢」である。人の話を聞くその姿に、自らの心の様子は端的に表れる。これからもまた、背筋を立てて、人の話を聞く努力を続けたい。

黄金時代

2004年3月30日 上甲晃 |

 後に、『青年塾』の歴史を振り返った時、「七期生あたりから、『青年塾』の黄金時代が始まった」と言えるかもしれない。そんなことを、出発式の間、考えていた。七期生の出発式は、私の期待し、望む理想に近いものであった。個々に見れば、至らない点や改善すべき点はいくらでもある。それはこれから改善していくとして、「塾生の主体的な意志と情熱、そして行動力によってすべてを動かしていく」という私の理想は、最大限にかなえられたような気がした。それほど、今年の出発式は、良かった。何が良かったと問われるならば、「青年のエネルギーに溢れていた」ことである。若い人たちのエネルギーを引き出すことを主たる目的とする『青年塾』らしい出発式ができたことが、何よりうれしかった。

 このところ、『青年塾』は、下見が盛んだ。私は何も命じていないのに、塾生諸君は、自ら必要性を感じて、自ら下見に出かけてくれる。それも一度や二度ではない。何度も何度も、それこそ、自分が本当に納得できるまで、現場に出かけている。だから、机上のプランではない現実感覚があり、安心して進行を見ていることができた。

 東クラスの波呂君は、修了発表会で行うアトラクションのリーダーであった。しかし、お母さんが重い病気に罹り、ほとんど付きっ切りで看病しなければならなくなった。アトラクションどころではない状況に陥ったのである。しかし、東クラスの人達は、「アトラクションの責任者は、波呂君」と決め込み、待ち続けた。その波呂君が、最後のリハーサルに駆けつけたのは、夜中の二時とか。その一つをとっても、みんなの結束力は否応なく、高まったのである。

 今回の出発式関連行事を通じて、私が一番うれしかったのは、塾生諸君の結束力である。「共に苦労すれば、そこに心の絆が結ばれる」と私は信じている。塾生諸君の心の絆がしっかりと結ばれていたことが、何よりもうれしく、ありがたいことであった。七期生だけの結束ではない。上級生の人たちの結束力もまた、目を見張るものがあった。後輩達のために、献身的に働いている人たちが、何と多かったことか。大きな声を張り上げることなく、静かに、そして無駄な動きなく出発式や祝宴の準備を進めてくれた。かつてないほどの多人数にもかかわらず、動きの見事さは出色であった。全体の動きを頭に入れて、自分が何をしなければならないかを承知していないと、これほどの動きはできない。

 『青年塾』は、塾生の主体的な意志のもとにすべてを自主的に行うことを本旨としている。その実が上がりつつあることを、私は喜んでいる。

世も末

2004年3月 8日 上甲晃 |

 ホテルの外からガラス越しにロビーを見た時には、華やかな着物姿の群れにしか見えなかった。どこかの女子大学の卒業謝恩会が開かれているのだろうと思いながら、横の入口からロビーに入ろうとした。入口のドアーを押そうとして驚いた。入口の横に置いてタバコの吸殻入れを囲んで、着物姿の女性がかがみ込み、ぷかぷかとタバコを吸っているのだ。着物姿が華やかなだけに、その姿は異様を通り越して、醜いと思った。

 ロビーの中で談笑する女性達も、着物姿のあでやかさとはかけ離れた醜い姿をさらしていた。「酔っ払っちゃったわ」などと、大きな声で怒鳴っている人もいる。しゃべり方に、つつしみ深さや奥ゆかしさなどかけらも無い。外見の着物は上品であっても、中身の人間性はどうしようもないほどに下品である。目を覆い、耳を塞ぎたくなった。

 福岡のキャナルシティにあるグランドハイアットホテルにたどり着いて、私は自分の間違いに気がついた。私の目的とする講演会の会場はここではない。このホテルから車で十分ほど離れたところにあるハイアットリージェンシーであった。着物姿の女性達の醜さに辟易して、逃げるようにしてロビーを後にし、早々にタクシーに乗り込もうとした。そこで目撃したのも、別の着物姿の女性達が座り込んでタバコを吸っている姿であった。とても絵にならない光景だ。

 私が乗り込んだタクシーの運転手さんも、客待ちをしながら、入口に座り込んでいる女性達を呆然と見ていたようだ。タクシーに乗り込んだ途端に、「ひどいですな」と私に声をかけてきた。「着物は美しいけれども、中身の人間が美しくない」と、私も吐き捨てるように同意した。運転手さんは、「先ほどから見ていましたが、手にしているのもすべてブランド物の高級品ばかりです。贅沢なものです」とさらに追い討ちをかけた。

 日本人が、美しくなくなった。凛々しさも消えた。奥ゆかしさ、つつましさ、楚々とした様子、そんな言葉がすべて死語となりつつある。悲しいではないか。昔は今ほど贅沢ではなかった。持ち物も、質素で、つつましかった。それでも、中身の人間性は、今よりはずっと優れていた。゛外見二流・中身一流゛であった。今は逆だ。゛外見一流・中身三流以下゛。それどころか、眉をひそめたくなる醜さがある。

 若い女性だけでない。中高年のおばさん達の多くも、中身は三流。つつましさを失った姿は、醜悪でさえある。立居振舞にも美しさを求めた日本人の精神性の高さを今一度取り戻したいものだ。せめて、私の主宰する『青年塾』や『志ネットワーク』は、゛美しい心の集団゛でありたい。

隔世の感

2004年3月 1日 上甲晃 |

 『青年塾』も八年目を迎えた。もちろん私としては、過去八年間、その時々に全力投球してきたつもりである。手抜きした記憶など、まったく無い。しかし、一期生の諸君らと時々話すと、「私たちのころと今とでは、隔世の感がありますね」と言う。私は、毎年、積み上げているのでそのことが良くわからないが、一期生の人たちは、自分の学んだころと比較できるので、゛隔世の感゛などと言った言葉が口を衝いて出てくるのだろう。

 ゛隔世の感゛と言われるほど、『青年塾』の研修は、充実してきているのだ。何よりも、゛主体的に学ぶ゛姿勢、そして自主性においては、゛隔世の感゛があると、私も思う。

 『青年塾』の二大行事と言えば、出発式、そして入塾式。かつては、私が先頭に立ち、必死でお膳立てをしていた。今、私はほとんど゛左団扇゛(ひだりうちわ)である。ほとんど具体的なことについて、手出しも口出しもすることはない。「任せっきり」と言い切っても良いほど、信頼して塾生諸君に任せている。また塾生諸君は、見事に期待に応えて、「そこまでやるか」と言うほどに完璧を期している。下見も、何度繰り返されていることか。中には、深夜に準備会に駆けつける人もいるそうだ。

繰り返して行われる下見やリハーサルには、お金も時間もかかるはずだ。それでも、自らの負担感について、一度も不平不満の声が聞こえてきたことは無い。その事実一つを取ってみても、『青年塾』は、゛志の場゛として成長してきていることがわかる。

そして、塾生の間に、主体性が確立してくると、より高い目標の学びができるようになる。時事用語、歴史用語の研究についても、驚くほどレベルが高い。それは塾生諸君が優秀であるとか、ないとかの問題ではない。やる気が高まると、レベルが高くなる表れである。そして八期生は、とうとう八冊の課題図書に挑戦することにした。その八冊は、司馬遼太郎著「坂の上の雲」の文庫本。近代日本の文学では最高峰と言われるこの作品は、今年開戦百年記念を迎えた日露戦争を題材にしている。

第一期生のころ、八冊の文庫本が課題図書などと言ったら、みんなどれほど驚いたことであろう。八年の積み上げが、八冊の文庫本読破に挑戦するレベルまで上がってきたのだ。これもまた、゛隔世の感゛あり。そして八期生は、来年の一月、初めて愛媛県松山市、すなわち「坂の上の雲」の舞台で修了研修を行う。私も、これには大いに燃えている。先輩諸氏にも、ぜひとも、八冊の課題図書の読破と松山での研修には参加して欲しいと願っている。さらなる゛隔世の感゛を求めて。

リーダーたる者

2004年2月23日 上甲晃 |

 美山荘の女将の姿勢に大いに感動するとともに、リーダーたる者の姿勢を学ばせてもらった。

 リーダーは、人が喜ぶ姿を見て、喜びを感じる人なのだ。だから、四十年間、二畳一間の生活を少しも苦痛だとか、我慢しているなどと思っていない。また、「我慢に我慢を重ね、辛抱に辛抱を重ねて四十年」などと思っているうちは、本当のリーダーとは言えない。リーダーは、「人の喜びを自分の喜び」と感じているので、お客様が喜び、従業員が生き生きと働いていてくれさえすれば、それで満足なのだ。

 横浜市長の中田 宏氏は、『先憂後楽』とは、「先に苦しんでおけば後から楽ができる」と解釈するのではなく、「先に行く者(リーダー)が辛いことを我慢すれば、後に続く者が楽をできる」と説明していた。まさにその通りだ。『リーダーたる者、部下の誰よりも損をすべし』。そんな言葉が山口県柳井市近郊にある大晃機械工業さんの研修所入口の碑に刻まれていたのを記憶している。部下の誰よりも損をしていることを辛く悔しいと思うのではなく、それを当然であり、喜びと感じることができる人が、リーダーである。

 多くのリーダーは、駆け出しのころ、また創業間もないころには、自分のことなど眼中にない。少しでも資金に余裕ができれば、それをすべて事業につぎ込むことができる。自分が職場の一角に住んでいることを苦痛と感じるどころか、喜びにさえ感じる。リーダーにその心構えがある限りは、事業はぐんぐんと伸びていく。ところが、ある程度事業が成功してくると、自分が楽しむことに走る人が多い。家を新築したり、高級車を乗り回したり、ゴルフ三昧に興じるようになる人が多いのである。リーダーがそのように変化していくと、事業が低迷し始めるのも世の常だ。

 繰り返しになるが、我慢して清貧に甘んじるのではない、人が豊かさを満喫してくれるならば自らが清貧であることなど少しも苦にならないどころか、むしろ喜びでさえある。そんな価値観を内面化しないと、リーダーとは呼べないようだ。

 本物のリーダーが、概して清貧かつ質素で、謙虚なのは性癖の問題ではない。根本的な考え方において、「人々に仕える心」をもっているからこそにじみ出てくるものなのだ。すべからく経営者は、どんな時でも、心の底から、「お客さまに喜んでいただきたい。社員の人たちに生き生きと働いてもらいたい」と願い続けることだ。その思いなくして、いかなる努力も成果を上げることはないだろう。

女将の志

2004年2月22日 上甲晃 |

 「起きて半畳、寝て一畳という言葉がありますが、私は四十年間、畳二畳の部屋で寝起きしてきました」。普段、自分を語ることなどまずない京都花背の宿・美山荘の女将が、舞台裏の話を聞かせてくれた。美山荘と言えば、日本を代表する有名な宿。私は、「日本一のサービスだ」といつも絶賛して、年に何度かは行くことにしている。顧客満足度ナンバーワン、そんな私の宣伝文句(?)に誘われて、何人もの人が出かけていただいた。そして誰もが、「その通りだった」と満足された。それほど魅力的な宿の女将が、四十年間、たった二畳の部屋で生活してこられたと知り、本当に驚いた。「その二畳も、調理場の続きにある納戸のような部屋です。私どもは、自分達家族だけで食事をしたりするようなことはありませんでした。いつも従業員とともに、調理場の片隅で食事を取ってきました」とのこと。これもまた、私にとっては、大変な驚きであった。

 「私には二人の娘がいます。そして孫達もいます。しかし、その孫達がここには来ません。孫達が来ても、一緒に食事をしたり、泊めてやれる部屋がないのです。だから、孫達は、どうして花背のおばあちゃんのところへ行ったらダメなのと娘達に聞くそうです」。そんなエピソードもまた、美山荘の舞台裏をうかがわせ、ますます美山荘のことを好きになった。

 美山荘の女将である中東和子さんは、十年前にご主人を亡くされた。ご主人は、私もよく知っている。京都を代表する料理人で、その感性の良さは天下に名をとどろかせていた。「結局、主人も、自分の家屋敷を建てることなく、二畳の間で生活し続けていました」とのこと。私はここに本当のプロの心意気と生き様、そして『志』を見つけた思いがした。

 美山荘の客室の快適さは、天下一品だ。料理のうまさもまた、最高級。しかし、それを支える経営者の質素で、堅実、つつましい生活ぶりがまぶしくもある。客を犠牲にして、自分達は贅沢三昧の生活をしている経営者達には、想像もつかない世界だろう。

 今、美山荘は、調理場の改築中である。私が出かけた時には、青いビニールが掛けられて、工事の真っ最中。女将さんの二畳の間も、既になくなっている。「今度は、もう少しだけ広い部屋を中二階に作ります」と、女将はいかにも申しわけなさそうに言う。

何年もかけて、客室を全面改装し、従業員の寮を作り直し、息子夫婦のための家を建て、最後の最後に、自分の部屋もちょっと手直しする。経営者の心の美しさが、この宿の快適さを支えているのだ。美山荘は、゛美心荘゛でもあるのだ。

いつか花開く

2004年2月 1日 上甲晃 |

 予想されたこととは言え、大阪府知事選挙は、投票率四〇・四九パーセント。一九四七年に統一地方選挙が始まって以来、最低の投票率であった。有権者総数が、約六百九十二万人だから、四百十二万人余りが棄権したことになる。新聞は、「府政への関心低く」と見出しをつけている。しかし、その府政は、火の車。本当は、無関心では済まされないような非常事態にありながら、府民は無関心。この矛盾が、どのような結果を招いていくの、本当に心配だ。

 ちなみに、大阪府の借金は、四兆七千億円。天文学的数字である。今回再選された太田府知事になってから、借金はさらに九千億円も増えている。単年度の赤字は、二〇〇二年度、三百六十二億円。゛自治体の倒産゛と言われる準用財政再建団体への転落寸前である。要するに、大阪府民は、自らが乗り込んでいる『大阪丸』が沈没寸前なのに、その事態に対して関心がないのだ。 再選された太田知事が、大胆な改革を進めているのであれば、私も、納得する。現実は逆だ。借金を大幅に増やしただけでも、本当は引責辞任だ。しかし、各種団体、各政党は、とにかく言うことを良く聞いてくれる知事の方が、使い勝手が良い。「既得権益者にはもっとも使いやすい知事」なのだ。だから、全政党相乗り、既製団体の推薦揃い踏み。裏返すならば、「大阪はこれから五年間、抵抗勢力を潰すような改革はしません」と決めたようなのである。

  それにしても、関西改革会議の若い人たちは実に良くやった。私は関西改革会議の単なる゛言い出しっぺ゛に過ぎない。その私の思いを受けて、関西改革会議を実質的に切り回してくれたのは、若い人たちだ。多くは『青年塾』の塾生諸君である。「若い人たちが立ち上がれば大阪が変わる」と信じて、熱心に行動した。分別ある大人であれば、むなしくなるような現実に少しもめげることなく、行動をしてくれたのだ。私にとって、今回の知事選挙の大きな救いであった。

 彼らは、毎日、大阪の目抜き通りを行列して、「選挙に行こう」と呼びかけた。本当は、太田府知事を倒して、江本孟紀氏を知事にしようとした。しかし、彼らは勝手に応援する団体。選挙期間中は、江本選対と別に動くために、「江本をよろしく」とは叫べない。だから、無党派、無関心な人たちが投票に行くことこそ、江本勝利の道を開くと、投票を呼びかける運動をし続けたのだ。結果は、改革ののろしにならなかった。しかし、継続することこそ、道を開くと信じて、若い人たちにこれからもがんばってほしい。きっといつか、君達の時代がくるのだから。

政界に跋扈する

2004年1月26日 上甲晃 |

 最近、松下政経塾のことが、マスコミでしばしば取り上げられる。昨年の衆議院選挙で、二十六人もの当選者を出したことで、再び、脚光を浴び始めたのである。そして、私までもが、雑誌の取材を受けたりすることもある。「松下政経塾は創設の当初、松下幸之助で脚光を浴びたけれども、次に脚光を浴びるには、卒業生が活躍しなければならない」と言い続けてきた私としては、その時が到来したことが感慨深い。衆議院十人を目標としてきた私としては、二十六人の当選者はできすぎだ。それにしても、脚光を浴びると、世間の風当たりが強くなるのも、古今東西、当然の流れのようである。

 例えば、総合雑誌『文芸春秋』は、「松下政経塾が政界に跋扈する」とのタイトルで、最新号において、八ページの特集を組んでくれている。内容は、随所に、辛口である。内容を読んでみると、辛口の批判にうなずくところもあるが、うなずけないところも多い。

 例えば、「一人の大臣も生まれない松下の私塾の限界」とある。私からいわせれば、大臣の数をもって成功の評価の基準としているライターの評価基準の卑俗さが受け入れられない。また、松下政経塾の卒業生は、一番年齢が高い人でも、まだ五十歳になるかならないかである。大臣に早いのである。
 その中で私が一番受け入れられないのは、「政経塾OBの政治家達は、あまりにも偉大で乗り越えることのできない゛神様゛を仰ぎすぎているのではないか。彼らが、生前の松下幸之助に言動に起点を置いている限り、現実に政治の世界でダイナミックに動こうとしても、縛られて思うように動けないか、傍観しているしか手はなくなるのだ」。

 松下幸之助の枠を超えられないから、松下政経塾の卒業生の政治家はだめたというわけ。しかし、私は、松下政経塾の塾生は、起点は松下幸之助でなければならないと思っている。もし、松下幸之助を起点にしなければ、それはもはや松下政経塾ではない。大事なことは、松下幸之助を起点としてスタートして、それを超えていくことなのである。起点を外してしまうと、もはや松下政経塾ではないのだ。

 ただ、松下幸之助の枠にとどまっている間は、一つの限界があることも事実だ。『守・破・離』とはなかなか的確な表現である。最初は、徹底して松下幸之助の思想を『守る』、やがて、その枠を『破り』、『離れ』て、独自の世界を築いていく、その過程が大切なのである。やがて、松下幸之助の思想を起点としつつも、独自の世界をひらく人が必ず現れる。

主客転倒

2004年1月25日 上甲晃 |

 「最近の『青年塾』では下見を含めて準備にずいぶん力を入れていますね。また、研修中も、お世話役の仕事が大変多くなっているようです。ある塾生から、それは主客転倒ではないかと質問されました。肝心の研修の時、他の人たちの世話をするために、講師の話を聞いている時間がないからです。研修が目的なのに、研修を受けられないのは、いささか困る、そんなニュアンスで聞かれたのですが、どのように答えたらよいのでしょうか」。私の家に、全国各地から、『青年塾』の諸君が集まった席上、ある先輩塾生からそんな趣旨の質問された。

 私の答えはきわめてはっきりしているつもりだ。「問題は、何のために学んでいるかです。『青年塾』の研修の最大の目的は、人のために惜しげもなく力を差し出すことのできる心を養うことにあります。だから、研修で学ぶ講座ももちろん大切ですが、それ以上に、みんなが学ぶために自らが犠牲になることを厭わないような、もっと言えば、喜んで人のためにお役に立てる機会こそが、大切な学びの場なのです」。

普通に考えたら、みんなが勉強しているのに、自分達は世話役活動に忙しくて、勉強する時間がない、それは本末転倒ではないかと疑問をもつのは、当然だろう。決して悪いことだと決め付けられない。しかし、『青年塾』の目的は、単に知識を増やすことにはない。高い志をもった若い人を育てるところに最大の目的があるのだ。高い志の第一歩は、人のために惜しげもなく自らの力を差し出せる心を養うことにある。だからこそ、下準備を含めて、みんなのために働く機会を大切に考えているのだ。さらに言えば、「みんなのために惜しげもなく苦労する人こそ、一番学びの多い人であり、感動の多い人である」。

人間、自らが学ぶこともうれしいが、人に喜んでもらうことのほうがもっとうれしいものだ。他の塾生諸君から、「いゃあ、ありがとう。あなたのおかげで、大変良い勉強ができました。感謝します」と言われたとき、「やってよかった。ずいぶん苦労したけれども、みんな喜んでくれてありがたかった」と感じるものだ。『青年塾』では、その喜びをできるだけ多くの塾生諸君に感じて欲しいのである。

人のために働くことは損なことではない。いつの間にか、人のために働くことを、損なことと思う風潮が広がっていないだろうか。「私ばかりこんなことをやらされて損だ」、そんな声がしばしば聞こえてくる。人のために働き、人に喜んでもらうことが、大きな喜びであると思える心。『青年塾』の一番大事にしている心である。わかってくれるかな。

成人式

2004年1月21日 上甲晃 |

 「今年の成人式も、全国各地で、ずいぶん荒れました。中には、ディズニーランドで成人式を行うことも検討されていると聞きます。何のための成人式か、成人式の目的は一体何か、疑問に思います。萩の成人式は、今年もまた、厳粛な雰囲気のうちに行われました。日本でも、一番厳粛な雰囲気の中で行われた成人式ではないか、そんな自負もしています」と話してくれたのは、萩市長の野村興児さん。成人式で、一升瓶をラッパ飲みしているような映像を見るたびに、苦々しい思いをしてきた私は、野村市長の話をまことに新鮮に受け止めた。

 野村市長は、成人式が荒れる原因の一つとして、主催者の責任を指摘する。「市長の挨拶文の原稿を見たら、十年一日のような決まり文句ばかり、これでは、新しく成人になった人が、心を新たにすることなどできない。挨拶一つも、新成人の心の響くような内容のものを年々考えなければならない。次々と挨拶に立つ来賓諸氏が、お決まりの退屈な挨拶を延々としていたら、若い人たちが暴れたくなるのも当然だ。また、主催者が、何のために成人式を行うのか、その意義をしっかりと理解していないから、目的からどんどんと離れて、若い人に迎合するような内容のものばかりになる」。若い人たちに問題があるというよりは、主催する側に問題ありとする姿勢は、私も大いに共鳴共感するところだ。

 「今時の若い者は」と切り捨てることは簡単だ。しかし、若い人たちもまた、時代の子である。親の世代がしっかりとしておれば、決しておかしなことにはならないはずだ。大人の責任。それを痛感する。大人をさらに限定して言うならば、「若い人たちを導く立場にある大人たち」である。私などもその範疇に入る。広く言えば、゛おじさん、おばさん達゛だ。

 どうやら、成人式が荒れるのは、゛おじさんやおばさん達゛が若い人たちになめられている証拠ではないだろうか。言葉を変えれば、若い人たちは、゛おじさんやおばさん達゛を馬鹿にし、軽んじているのだ。

 おじさんやおばさん、さらにはおじいさんやおばあさんが、若い人たちから畏敬の念をもって迎えられていないことに、まず気づかなければならない。若い人たちが一目置くような生き方を過去にしてきたか、今現在しているか、これから先もしようとしているか、それを鋭く問われているのだ。歳を重ねるに従い尊敬される生き方をする。それがおじさんやおばさんの責任であり、おじいさんおばあさんの責任だ。

 明治維新を起こした萩の町には、いささか気骨や気概、格式が残っているようだ。若い人たちは、それを敏感に感じ取っているのだろう。

松下村塾を訪れる人たち

2004年1月20日 上甲晃 |

 山口県萩市に住む松田輝夫さんは、私にとっては、吉田松陰への手引きをしてくれる、大切な師匠である。市内の公立小学校の校長を最後に教壇を去ってから、既に十九年。その間、ずっと郷土の歴史を研究するかたわら、ボランティアとして、萩の町を訪れる人たちの案内役を買ってきた。間もなく八十歳になる高齢だが、なぜか三十歳でこの世を去った吉田松陰の風貌に実に良く似ているのだ。瓜実(うりざね)顔で、面長。松下村塾に掛けられている吉田松陰の肖像画にそっくりに見える。私は、松田先生の話を聞いていると、吉田松陰の話を聞いているような錯覚に陥ることさえある。

 今年の萩講座でもまた、松田先生の話を聞いた。何度も聞いた話ではあるが、私には、新鮮で、感動的だ。とりわけ松田先生の話は、わかりやすい。「大事な話をわかりやすく話ができる人」は、物事を正しく、深く理解している人だ。その点でもまた、松田先生を尊敬できる。

 「退職して十九年、多くの人たちに萩の町を案内しました。最近気がついたことですが、萩の町を訪れる人にも、一つの傾向がありました。最初にやって来られたのが、学校の先生をはじめとする教育関係者。教育者としての吉田松陰に学ぼうというわけです。次にやって来たのは、公務員や政治家。町おこしの盛んな頃でした。この古い町から何かを学ぼうと、全国から視察に来られました。そのブームも、いつの間にか、すっと消えてなくなりました。そして今、中小企業をはじめとする企業の若い経営者や幹部が、たくさん来られています」。松田先生は、自らの体験を通して感じている、訪問者の傾向をまず紹介された。

 どうして、今、中小企業を中心として、企業の人たちに、萩の町は人気があるのだろうか。その答えを、松田先生は、次のように説明してくれた。「厳しい競争を生き抜くために、企業は血のにじむような努力を重ねてきました。そしてあらゆる努力をした結果行き着いたのは、意欲のある人を育てることこそ組織にとってもっとも大切であるということ。松下村塾のように、地域のごくありふれた子供たちを集めて、天下を揺り動かすような人に育てた吉田松陰、松下村塾から何かを学ぼうというわけです」。

 明治維新に向け激動期を生き抜いてきた人たちの中でも、松下村塾に集った人たちは、ごくごく普通の青年達たちである。その普通の青年達が、明治維新という大改革を成し遂げていった。企業の関係者は、その歴史の中に、自らのこれからの進むべき道を探ろうとしているのだ。「人はつくるものではなく、育てるもの」と、松田先生は言う。

新刊本

2004年1月 6日 上甲晃 |

 私にとっては、七冊目の本が、新年早々に刊行される。タイトルは、『気がついたらトップランナー』。前の水俣市長である吉井正澄さんとの共著である。私は八年間、毎年水俣市に通い続けた。そしてその間、多くの魅力的な人たちと出会った。中でも、昨年まで市長として二期八年の任期を務められた吉井さんにはぞっこん惚れこんだ。その政治姿勢、人柄は、私のもっとも尊敬できるものであった。「いつかこの人から水俣病事件に立ち向かった経験談を徹底的に聞き出して、詳しく後世に残しておきたい」、そんな私の思いが、ついに一冊の本を完成させるところまでこぎつけることができたのである。その意味では、私にとって、感慨ひとしお、うれしい本の完成である。

 戦後の日本で一番悲惨な公害病事件を体験した熊本県水俣市は、経済発展という視点から見れば、もっとも遅れたランナーとして走り付けてきた。言わば、最終ランナーの部類であった。ところが、時代が変わり、世の中が環境保護に目が向き始めてから、風向きが変わってきた。二度と同じ過ちを繰り返すまい、このいまわしい経験を前向きに生かしたいとの思いから進めてきた環境への取り組みが注目され始め、「気がついたら、環境最先端都市になっていた」のである。

 本を出版するに当たり、私は、京都の美山荘で、吉井さんと一泊二日の合宿をした。合計の時間は、八時間にものぼるだろう。吉井さんの奥さんとわたしの妻が、そばに付き添った。吉井さんは、ほとばしるように、事態の推移と自らの思い、行動などを極めて具体的に話された。それはまことに臨場感溢れるものであった。また、改めて吉井さんの話をまとまった形で聞いて、天下の難題であった水俣病事件を解決にするために、リーダーがいかにあるべきかを教えられた気がした。

 しかし、燦葉出版社の白井隆之社長は、対談のテープを聞きなおして愕然としたらしい。「とてもこれでは本にならない」。そんな印象だったのだ。話と、文章の違いだろう。それから、吉井さんは、丹念に文章を書き加えられた。私もまた、新しく文章を書き足した。吉井さんは、多くの写真も提供された。私は、昨年の「水俣講座」にカメラを持参して、その風景をとりまくった。結局、半年以上の時間がかかった。「結果的には、十分に満足のいくものができました」と、白井さんは安堵の胸をなでおろしたそうである。

■案内  『気がついたら、トップランナー』 1,500円+税
      燦葉出版社発行  1月15日から発売

江本さんへの提言

2003年12月25日 上甲晃 |

 これは、大阪府知事選挙に立候補を予定している江本孟紀さんへの提言であり、ある意味では、エールである。

 拝啓 江本孟紀 様
 あなたが、大阪府知事選挙に立候補されることに対して、私は、心より敬意を表し、声援を送りたいと思います。もしあなたが立候補されなければ、大阪府知事選挙は、現職と共産党候補者の一騎打ちという極めて低調な選挙で終わるところでした。そして、大阪府民はさらなる低迷と諦めの四年間を迎えなければならなかったのです。そこへ、現職の参議院議員であるあなたが、単身、それこそ徒手空拳、知事選挙に出馬される決意をされたことは、俄然、大阪府民を熱くしつつあります。

 今回の選挙は、従来の常識からすると、あなたにはきわめて不利な選挙情勢にあります。例えば、経済団体、労働組合、既成政党、宗教団体など、ほとんどすべての既成組織・勢力が、現職を推しています。これではとても勝ち目がないと考えるのが、今までの常識であります。しかし、私はそのような情勢をまったく心配していません。これは、大阪を"根こそぎ変えていく挑戦"なのです。"根こそぎ変える"のに、既成の組織は、抵抗勢力になりこそすれ、味方になどなりうるはずがありません。第一、経済団体、労働組合などの既成の組織は、大阪をここまで低迷させてきた責任を負わなければならない存在です。既得権益を守ることに汲々としている抵抗組織を敵に回すことは、大阪を"根こそぎ変える"上では、避けて通れません。それどころか、抵抗組織を倒すことこそ、『江本変革』の出発点であります。まさに、望むところであります。

 しからば、誰を味方とするのか。答えは明確です。抵抗勢力に組み込まれなかった一般の府民、政治から遠ざけられていたり、遠ざかっていた府民こそが、あなたの味方なのです。あなたが、単身、府民の中に飛び込み、『府民とともに考え、行動する運動』を期待します。

 大阪は、かつて、中央政府に依存しない自主自立の精神が真骨頂であり、民間の自由な精神と発想、旺盛な行動力が最大の長所でありました。今、大阪はその長所をすっかり失いつつあります。大阪を"根こそぎ変える"ためには、お上(官)への依存心をきっぱりと捨て、自らの自由な発想と旺盛な行動力が存分に発揮できる条件を整えることです。そして、それは政治の果たすべき最大の使命であります。

 大阪府民には、元来、自由で旺盛な発想と行動力があります。それは、"なにわのど根性"とも呼ばれるほど、全国にその名をとどろかせていました。この"なにわのど根性"が戻ってくれば、大阪が元気になることは目に見えて明らかです。

 具体的な提言は、次の通りです。

1.「官」の力を必要最低限に抑制する。(府の組織の大改革)
  そのために必要なことは、大阪府の体制を抜本的に改革すること。府庁職員の大意識改革、組織のスリム化、経費の徹底した効率運用。肥大化した既得権益の解体。

2.大阪全体を地域主権の「民間活力特区」にする。
  自由な活動を進めやすくするためには、「官」の許認可や規制を大胆に緩和すること。そのために、中央の政府と戦う姿勢が必要。「自由な活動ができる大阪」に生まれ変わるならば、大阪には世界中から、 日本中から有能で興味ある人が集まる。"面白い大阪"づくりである。

3.「関西州」推進の中心的役割を果たす。
  もはや都道府県単位の発想では、限界である。大阪府が中心的役割を果たして、関西全体としての大胆な発展を大胆にめざす。中央からの大幅な権限委譲を勝ち取り、府県の特徴を特化させる。

4.世界の大阪作り"をめざす。
  日本の大阪では話は小さい。アジアの大阪、世界の大阪をめざす大構想を打ちたて、これから長期にわたって計画を進める。「世界の商都構想」だ。そのためにも、規制が極端に少ない特区になることが、一番の道である。とりわけ、東京の二番煎じのことは絶対しない。

5.関西独特の文化を育てる。
  元々大阪商人は、地域の文化を育てた。経済発展だけではなく、文化も振興させる懐の広さがあった。豊かな民間の力は、文化の面でも大いに発揮されるべきである。なお、政策についても、大きな枠組みを持って、府民の中に飛び込み「大阪を一緒に良くしよう」との呼びかけにより、府民の面白くユニークなアイデアをどんどんと吸収していく運動も、選挙戦の特徴として打ち出すことが良いのではないでしょうか。松下幸之助は、それを、「衆知を集める」と言いました。『衆知を集めた政策』を選挙期間中に発表されるのも、一案ではないでしょうか。

 あなたが言われるとおり、「知事に大阪を良くしてもらう」のではなく、「一緒になって大阪を良くする」ことが、基本の姿勢であることを歓迎します。そして、それを選挙の戦略の中心に据えられることを勧めます。
             上甲 晃

早足は過去の話

2003年12月22日 上甲晃 |

江本さんと 大阪府知事選挙に出馬を表明した参議院議員の江本さんと二時間ほど話した。選挙情勢や応援のあり方について話し合うのが目的であった。江本さんは、高知県出身。野球選手として、南海ホークス、阪神タイガースに在籍していた関係から、関西とも縁が深い。当然のことながら、関西の事情、あるいは大阪の事情についてもなかなか詳しい。

 その江本さんが、面白いことを言った。「かつて大阪の人は歩くのが早いと思っていました。とにかくせっかちで、足が速い。私なども、大阪の街を歩いていると、いつも追い立てられるようで、何となくせわしい気がしたものです。ところが、久しぶりに大阪に戻ってきて気が付いたことは、大阪の人たちの歩くスピードが非常に遅くなったことです。私から見ると、とろとろ、もたもた歩いているような気がしてなりません」。

 なるほど、かつて大阪の人たちは、歩くスピードが速いことで有名であった。歩くスピードが速いことは、゛生き馬の目を抜く゛ような大阪の商売人の積極的な姿勢の現われでもあったように思う。大阪では、車を運転している人は、まっすぐ前の信号を見ないで、横の信号を見ていると言われた。そして、横の信号が黄色になれば、前の信号が赤であっても発進するとも言われた。それもまた、大阪人のせっかちさの現れであると受け止められてきた。そのことは、大阪に来て人たちから、ずいぶん指摘されて記憶がある。

 大阪の人たちの歩くのが遅くなったばかりか、とろとろ歩いていると聞いて、大阪の低迷ぶりはそんなところにも現れているのかと、驚いた。確かに、人間、活力がなくなれば、歩き方にまで力がなくなることはうなずける。逆に、元気な時は、さっそうと、そしてはつらつと早足で歩くものだ。元気がなくなってくると、うつむき加減になり、とぼとぼとした歩き方になるのも当然の結果かもしれない。

 また江本さんはこんなことも言った。「大阪の電車に乗る時には、みんな競い合うように扉に殺到した。ところが、最近は、きちんと列を作って並んでいる。これにも驚きました。礼儀正しくなり、マナーが良くなったわけですが、何となく大阪の活力のなさにも見えてくるから不思議です」。

 私も同感だ。大阪の人たちに特有のぎらぎらとした活力が消えている。
その中にずっといると、気が付きにくいことも、しばらくぶりに訪問したりすると、変化に気が付く。江本さんが大阪に帰ってきて、知事選挙に出るのに期待したい。変化を通じて、大阪の問題点をしっかりと見てもらえば、新しい政治への期待が高まる。

今時の若い者 

2003年12月 9日 上甲晃 |

 「大阪から日本を変えよう」とのスローガンのもとに、大阪市内で、『関西改革会議』が開催された。この会議は、最初の運動として、大阪府の窮状を取り上げ、「崖っぷち大阪゛救命大作戦゛」に取り組んでいる。

今回の会合を中心になって主催したのは、『青年塾』関西クラスの塾生諸君。寸劇による大阪の現状の紹介、ディへートによる論点の明確化、活動方針の発表など、なかなか充実した内容となった。集まった人たちも、およそ百六十人以上。大阪府知事選に立候補表明した江本孟紀氏も特別参加して、雰囲気を大いに盛り上げてくれた。それにしても、この会合は、とかく政治に無関心と言われている若い人たちが、熱く燃えている姿が印象的であった。

 関西改革会議なるものを提案したのは、私である。世に言う、゛言い出しっぺ゛である。しかし、この関西改革会議なるものを粘り強く軌道に乗せてくれているのは、私ではない。私の思いに呼応して行動を起こしてくれた若い人たちである。゛今時の若い者゛は、実に良くやると私はつくづく感心させられた。大したものである。

 「関西から日本を変えよう」。それは、関西改革会議の思いである。日本の中でも、最近、関西の低迷振りを、私は大いに嘆いている。低迷には色々な原因がある。とりわけ、私が問題だと思うのは、政治に対する 無関心だ。政治を馬鹿にすればするほど、そのツケが自分に回ってくると、私は考えてきた。関西、とりわけ大阪にその傾向がなお強い。そこで、政治に目を向け、良い政治家を支援していく運動を提唱したかったのだ。大阪の投票率は、いずれの選挙も低調。ほとんど全国最下位をさ迷っている。なかでも、若い人たちの投票率は、十パーセント台。政治への無関心は、目を覆うものがある。
 私は、大阪を変えるためには、大阪の若い人たちが目覚め、立ち上がり、行動を起こすことだと確信している。『関西改革会議』は、若い人達だけの力で運営されてきた。しかも、若い人たちは、毎週、会合を粘り強く開催して、準備してきた。その継続力と執念には頭が下がる。電子メールがまるで、雨嵐のごとく行き交い、熱気がひしひしと伝わってきた。私はそれだけでも、大阪を変える運動の手ごたえを感じた。若い人たちが立ち上がると、その勢いは、情熱的で、しかも爆発的である。

 挫折しそうな事態も何度かあったはずだ。別段自らの利益と直接何の関係もないのだから、何時投げ出しても構わない。しかし、みんなは我慢強く、全力を尽くしてきた。その努力が、少しずつ実りつつあるようだ。 

銀行マンに告ぐ

2003年12月 7日 上甲晃 |

 「常にベストを尽くす」ことをモットーとしている私ではあるが、この日の講演にはいっそう力が入った。三井住友銀行の部長・支店長クラスの人たちを対象にした講演会である。会場は、大阪市内の元住友銀行本店。今は、三井住友銀行大阪本店。この日の講演は、東京の本社でも、二百人ほどの人たちが聞いている。テレビ中継により、大阪での話も、即時に東京に通じるようになっていたのである。
 力が入った理由は、簡単だ。この際、銀行の幹部の人たちにどうしても訴えたいことがあったからだ。まして、大手都市銀行の代表格である三井住友銀行である。私の思いを伝える場所としては、これ以上ありがたい場はない、格好の機会が与えられたのだ。

 概して、最近、銀行の評判はすこぶる悪い。不良債権問題で懲りたはずの銀行が、『悔い改めた』様子が伝わってこない。それどころか、『懲りない面々』の様相がある。そのために、多くの企業経営者は、銀行に対する不満が絶えないように思われる。曰く、「銀行は詐欺師だ」、「銀行は血も涙もない」などと。
 ゛銀行の志゛。私が訴えたかったことだ。「何のために銀行は存在し、何のために私たちは働き、何のために仕事をしているのか。銀行の方々には、今こそ、ぜひその原点に戻っていただきたい。志とは、相手の利益を大きくする心です。それに対して、野望・野心は、自分の利益を大きくする心。ぜひとも、銀行もまた、野望と敢然として訣別して、高い志を取り戻していただきたい」。私は、声を限りに訴えた。またこんな話もした。「信用こそすべての活動の原点。銀行に今一番必要なことは、利益をあげることではありません。信用の回復こそ、急務です。信用が回復すれば、業績は必ず回復する。そのことを信じて歩んでいただきたい」。

 銀行が、顧客に対して厳しい姿勢を貫くことは構わない。問題はその厳しさが、誰のためかである。自分たちの利益のために相手に厳しいのでは、恨まれるだけ。相手の利益を確保することに対して厳しいとすれば、その姿勢は必ず認められ、信頼されるはずだ。

 講演の後、無理をお願いして、かつて住友銀行本店であった当時の面影を残す一階のフロアーを見学させてもらった。三十一本の大理石の柱、バルコニー、見上げるような高い天井。そこでは、今も百人以上の人が働く。「余りにも威風堂々としたオフィスで、ちょっと圧倒されます」と、案内してくれた執行役員が言う。かつて銀行の仕事ぶりは、威風堂々としていたのである。ぜひその誇りを取り戻して欲しいものだ。

松下幸之助の知名度

2003年11月27日 上甲晃 |

 松下幸之助の生誕日である。松下政経塾出身の卒業生諸君は、この日を覚えているのだろうかと、ふと思う。松下幸之助が亡くなったのは、平成元年四月二十七日である。まるで、昭和天皇の後を追うかのように、崩御の直後に、松下幸之助は九十四歳の生涯を閉じた。ちなみに美空ひばりが亡くなったのも、この年である。昭和の終わりを告げるかのように、昭和の代表的な人物が相次いで亡くなったのである。もし、松下幸之助が今も生きておれば、百九歳。「百二十歳まで生きるのだ」と口癖のように言っていた年齢に近づいている。

 昨日、名古屋市内で、中部生産性本部の主催する研修会に出かけた。参加者は、二十七名。受講者の大半は、愛知県か岐阜県の企業から派遣された若い人たちである。中には、髪の毛をすっかりと染め抜いた若い人も混じっている。

私は心配になって。話を始める前に聞いてみた。「みなさんの中で、松下幸之助という人をいささかでも知っている人、手を挙げてくれませんか?」との質問をぶつけたのである。数こそ数えなかったものの、「知っている」と答えた人が、三分の二だ。あとの三分の一は、「そんな人知らない」と言う。とりわけ、髪の毛を染め抜いたような若い人たちは、「知らない」と答えた方にほとんどが入っている。
 私も瞬間、戸惑った。私の話から松下幸之助を抜いたら、後に何が残るのたろうと思うと、話がとどこおる。話は、まず松下幸之助という人を紹介するところから始めなければならない。「松下幸之助は、小学校中退して働き始め、ついには現在の松下電器をつくった人です」。そんな説明をしながら、これではみんなぴんとこないだろうなと反省した。しかし、「経営の神様、商売の神様と呼ばれていました」と説明しても、「国民の間で大変に人気のある経営者でした」と説明しても、今ひとつ迫力がない。松下幸之助の名前さえ知らない人に向かって話す苦労を途端から味わった。

 それだけではない。「松下政経塾という名前を知っている人」と質問を続けると、今度は、半分ほどしか手が挙がらない。私の話から、松下幸之助と松下政経塾を除いたら、後は壇を下りるしかないようだ。そこでいささかやけくそ気味に、「河合塾を知っている人」と聞いてみた。こちらの質問に対しては、全員が知っていると手を挙げた。

 松下幸之助も没後十五年。どんどん忘却のかなたに消えていきつつある。それだけに、松下幸之助の志を忘れてはならないのだ。

運動会

2003年11月18日 上甲晃 |

 こんな運動会は初めてである。
運動会の会場になったのは、休校になった世屋小学校の体育館。床にぺたりと座り込んでいるのは、ほとんどがお年寄り。と言っても、老人会の運動会ではない。世屋地区としては、年間で一番大きな行事であるこの運動会に集まったのは、世屋地区の住民である。「世屋地区住民の半分ぐらいの人が集まっています」と、公民館長の橋本智明さんが説明してくれる。今までは、五つの地区の集落が、地区別に競争をしていた。今年は、競走するための選手の数が少ないために、紅白二つのチーム分けになってしまった。

ちなみに住民の数を集落別に聞いてみた。畑が二十八人、木子が十二人、下世屋が七十人、上世屋が二十二人、松尾が八人である。これではとても集落別対抗などは無理だ。
この日の競技は、十二もある。風船割から始まり、パン食い、ざる引き、玉入れ、魚釣り、樽ころがしなど、お年寄りに配慮したものばかりだ。競技別に出場する人を選ぶのが大変だ。腰の曲がった人や歩くこともおぼつかない人が、駆り出される。無理やり競技に駆り出されて、「無理するなよ」と声がかかるのも面白い。ここではあまり、「がんばれ」の声援がない。あまりがんばり過ぎると、何か事故が起きても困る。

「この地区では、ゲートボールをする年寄りがいない」と橋本さんは言う。農業を営んでいる人がほとんどだから、時間さえあれば、ついつい畑に出てしまう。体が起き上がれる間は、畑で働くこと。そんな習慣が身に染み付いているから、ゲートボールでもしながら、ゆったりと過ごすことを知らないのである。勤勉な農村のお年寄りらしい。
この運動会に、『青年塾』の塾生が特別参加した。もちろん、地元の熱い招請を受けてのことである。お年寄り中に若い人たちがたくさん混じったので、「いつもの運動会と雰囲気が変わった」と、地元の人たちに大いに喜ばれた。地元青年の綱引き大会は、みごとに『青年塾』の負け。地元の人たちは、とても青年とは思えない人たちが主力であった。それでも、農作業で鍛えた体力は、若い者には負けんとばかりの力強いものであった。

この地区の小学生の数は、わずかに三人。そのために、子供の競技ともなると、三人は休む間がない。少子高齢化、そんな言葉が頭の中をよぎった。過疎化した地域の特別な風景と思われているものが、やがて日本全国で当たり前になる日は、そんなに遠くないのだ。

中国人の目

2003年11月11日 上甲晃 |

 東京大学客員教授で、中国社会科学院日本研究所教授である金さんの話が、とにかく面白かった。「昨年、中国で話を聞いた時と比べると、ずいぶん丸く穏やかになられましたね」と言う人がいるほど、北京で開催した『中国理解講座』の懇親会で会った時と、今回東京で話を聞くのとは様子が違う。北京では、究めて急進的な意見の持ち主に思えたが、今回は、とにかく話が面白い。それでいて、内容は明快で、興味津々。

 ある『青年塾』の塾生は、「東京で話す時は、大胆な内容になりますか」と質問した。金さんは、「そんなことはありません」と即座に否定した。「中国は相対的に政治が小さくなっていますから、北京でも自由に物が言えるようになりました」。それほど、大胆な発言も多かったのである。

 金さんの語録を拾ってみよう。
「中国の外交には基準はひとつしかない。それは、経済発展のためになるかどうかだけ。それ以外の基準など何もありません。だから、見方によっては実にわかりやすい」。
「国民に先行きに対する自信がないと、市場経済は回らない。日本人の七割は、先行きを暗いと言う。中国人の九十パーセントは、先行きが明るいと言う。日本がだめになり、中国が良くなるのは当たり前です」。

「経済発展のために中国政府が何をしたか。何もしていない。したことと言えば、開放、すなわち許すことだけです。改革とは、開放すること。それを中国語では、゛放権譲利゛と言います」。
「社会は、経済成長期になると、金持ちになりやすい。だから、これからは、アメリカンドリームに代わって、チャイニーズドリームの時代になる。すでに海外に出ている野心的な中国人や優秀な中国人が、中国に続々と帰ってきている」。

「中国人はみんな、お金儲けのことしか考えていない。それを中国語では、゛向前看゛をもじって、゛向銭看゛と言います。もはやお金儲けについては、抑制が効きません。天安門事件の時の闘士たちも、今やお金儲けばかり。あの頃は幼稚だったと、笑い飛ばしています」。
「中国人にとって、家族以外は他人です。他人のことなど誰も構っていない。自分だけ、自分の家族だけ良ければいいのです」。

「中国脅威論、中国崩壊論など、色々あるけれども、みんな一つの面を指摘しているだけ。それぞれ間違いです。中国はもっと多面的で、複雑で色々な顔を持っています」。

 最後に、「衆議院選挙を見ていても、日本は外交が見えない」とずはり。

中国最新事情

2003年11月10日 上甲晃 |

 「中国には、゛トラに乗って走る゛という諺があります。漢字で書くと、『騎虎難下』と書きます。どういう意味か。トラに乗って走ると、トラから下りられない。万一下りてしまうと、トラに食べられてしまう。だから、走り続ける以外に方法はない。そんな意味です。現在の中国は、まさに、゛トラに乗って走る゛の状態にあります。中国の乗っているトラとは何か。それは、経済発展です。もはや経済発展を止めるわけにはしかない。経済発展というトラを止めてしまうと、食べられてしまいます」。中国の最新事情について、いきなりから、わかりやすく、しかもきわめて面白く話してくれたのは、東京大学客員教授で、中国社会科学院主任教授の金 煕徳さん。来年の三月まで日本に滞在すると聞いて、私の主宰している『日本の進路研究会』の講師を依頼した。

 「環境問題が深刻化したから、少し経済発展を抑えようとの発想は、中国にはありません。経済発展をより進めるためには、環境問題もなおざりに出来ない、それが中国の考え方です」。金さんは、答え方が明快だ。「教育競争は激しすぎる。お金儲けするために、ますますエスカレートしている。だから、ぼつぼつ抑制しようとの動きもあります。日曜日は勉強を止めよう。みんなはそのように考えています。ただし、自分の子供を除いて。それが中国人です」。これまたわかりやすく、納得だ。
 その金さんによれば、日本は社会主義国、中国は資本主義国だと言う。一般には、日本が資本主義国で、中国が社会主義国のはずなのに。「もはや、中国はイデオロギーなどで動いていない。中国は、お金儲けだけで動いている」。言われてみると、その通りだ。会場は、爆笑の連続だ。金さんの話は、妙に納得性があるから不思議だ。

 こんな話も納得だ。「中国は十三億人がいる。これだけの巨大人口の国が、経済発展に挑戦するなど、世界ではじめての試みです。余りにも巨大なために、多様性が一つの大きな特徴になっていることを理解していただかなければなりません。超先進国、中進国、途上国、最貧国、その四つの顔が入れ混じっている。それが中国です。だから、最貧国には援助を必要とする。日本人は、有人ロケットを打ち上げる国に、どうしてODAが必要かと言う。それは、中国の多様性を理解していないから出てくる意見である。有人ロケットを打ち上げる一方では、外国からの援助がなければ生きていけない地域、人々もたくさんいる。それが中国なのです」。面白い話は続く。「中国人は、会社のものを家に持って帰る。日本人は、家のものを会社に持ってくる。それが中国と日本の違いです」。

士風頽廃

2003年11月 1日 上甲晃 |

『青年塾』山形・庄内講座。かつて、志高く生きた庄内藩士たちの生きざまに学ぶことが講座の目的の一つである。庄内藩は、日本海岸に面した山形県の鶴岡市や酒田市一帯に広がっていた。元和八年、千六百二十二年、徳川四天王の一人である酒井忠次を祖として、明治時代に至るまで酒井氏がこの藩を治めていたのである。

 庄内藩は、幕末、戊辰戦争に敗れた。その戦いぶりの勇ましさは定評があり、また実際に強かった。東北の雄藩がつぎづきに負けていく中で、最後まで闘ったのは庄内藩である。また、最後の最後まで、敵に自らの領地内に足を踏み入れさせなかったことも、今に語り継がれる強さの現れであった。しかし、庄内藩は、ただ単に戦いに強かっただけではない。その礼節の厚さもまた、つとに名高い。

 例えば、庄内藩士たちは、どこの地においても、略奪行為をしなかった。当時、戦いの場において、略奪は日常茶飯であった。罪のない一般の人たちを襲い、食糧などを無理やり奪い取ることは、戦場の常識でさえあった。ところが、庄内藩士たちは、決して略奪をしなかった。そのために、庄内藩士たちは、敵地においても、「庄内さん」と尊敬の心を込めて呼ばれていたということだから、確かに立派だ。

 また、敵側の死者を手厚く葬ったことでも有名である。敵側の死者をお寺に運び、自らお金を払って、供養をしてもらい、霊を慰めたとのことである。そのために、敵であるはずの秋田藩からは、庄内藩に対して、食糧の差し入れさえあった。私はそんなエピソードの一つ一つを聞きながら、改めて、庄内藩士たちの志の高さを学ぶ気がした。

 庄内藩士達がどうしてそんなに志が高かったか、私はそこに一番関心をもった。致道博物館の館長であり、酒井家の次の当主である酒井忠久氏は、次のように答えてくれた。

 「九代目の藩主であった酒井忠徳の時代、藩の財政の困窮と士風の頽廃というきわめて困難な状況に直面しました。そこで、忠徳は、この困難を打開していくためには、教育しかないと判断をして、『致道館』と名づけて藩校を創設しました。一番遠回りではあるが、人を育てることこそ国を立て直す根本であると考えたのです」。

 どの時代も、どの国でも、またどの組織でも、人を育てることこそ、すべての基本であり、すべての出発点なのである。人間が仕事をする限り、人間を良くすること以外に、仕事を良くする道はないのである。ところが、私たちは、成果を急ぐあまり、時間のかかることに取り組めないのだ。

引き立て役

2003年10月15日 上甲晃 |

 「帯というものは、あまり目立ちすぎてはいけない。主役はあくまでも着物です。帯の役目は、着物を引き立てることにあるのです。だから、この作者は、できるだけ控え目で、柔らかなデザインの帯作りに取り組んでおられます」。そんな説明をしてくれたのは、松下美術苑『真々庵』の苑長である徳田樹彦氏。徳田氏からは、今までから何度も、松下美術苑の地下に展示されている人間国宝の作品について説明を受けたことがある。そして今回もまた、説明を聞きながら、なるほどと大きく納得し、うなづくことがあった。それは、すべての作品には、脇役、引き立て役の存在が大きいことだ。

 帯が主役である着物の存在を引き立てる重要な働きをするように、人形の置き台や置き板もまた、うえの人形を引き立てる重要な働きをしているのだそうである。私もそんなことを知ったのははじめてである。そう言われて人形の下にある板を見ると、絶妙の働きをしている。真っ黒に塗られた板もあれば、波の様子をそこはかとなく表した板もある。すべて、まったく自己主張することなく、主役をいっそう引き立てている。

 あるいは有名な焼き物の、柿右衛門。白い生地の上に、鮮やかな赤い色の花が生えている。私はどうしても鮮やかな色彩に目が向くが、柿右衛門の真髄は、皿全体に広がっている白地にあるのだそうだ。「この白い生地は、真っ白ではありません。米のとぎ汁の白さです。柿右衛門の真髄は、この米のとぎ汁の白さを出すことにあるのです」と説明されると、初めて生地の目が向く。確かに、純白ではない。これを、"濁手"というと教えられると、すっかり"通"になった心境である。ここでもまた、濁り手の白い生地が、鮮やかな赤い色を引き立てているのだ。

 まだある。江戸小紋。天眼鏡を近づけて見なければ、とてもその文様が識別できないほど繊細である。その驚くほどきめの細かいデザインは、極限まで削り上げられた刃物、ミクロの極致である紙型など、下支えする技術や道具のおかげである。作者は、「最高水準の技術や道具の上に、私はちょこんと乗っかっているだけ」と言う。謙遜の言葉であると共に、真実の言葉でもあるのだ。

 最高級の作品は、引き立て役があって、初めて輝いているのだ。作品を見る時には、引き立て役を見ることが一つのポイント。江戸小紋のような極限の繊細さを誇る作品を作る時に、紙型を作る人たちは、どうしても失敗を恐れる。そこで作者は、失敗した作品もすべて買い取ることを約束する。それによって、引き立て役が大胆に挑戦できるのだ。

読み書きソロバン

2003年10月14日 上甲晃 |

 読み書きソロバンをしっかりと勉強することは、「生きる力」を育むというのが、公文教育研究会の理念である。知性の原点は、読み書きソロバンというわけ。確かに、読む能力がないと、書を読めない。書く能力がなければ、手紙一つ事けない。ソロバン、すなわち計算能力がないと、物一つ買うことができない。読み書きソロバンを励むことは、人間の学びの出発点であり、生きていく原点だ。公文教育研究会は、読み書きソロバンの能力を育てるために、五千段階の連続した教材をそろえていることが最大の特徴だ。

 しかも、その五千段階の教材を、自らの実力に合わせて取り組むことのできるのも特徴。『ちょうど』の学び、自分の実力に『ちょうど』の教材に挑戦できるのである。

 その公文の教材が、今、幅広く注目されている。学校教育にも公文の教材を取り入れるところが出てきたことを、ある日刊紙が紹介していた。

また、老人のぼけ防止や痴呆症の治療に威力を発揮していることを知った。公文教育研究会の副社長である福島眞治さんによると、既にいくつかの老人福祉施設で、公文の教材が治療用に採用されているとのことである。読みかソロバンというと、子供の教育ばかりを考えていたが、老人の頭の活性化に有効であると初めて知った。

「私の父親も、軽度のアルツハイマー症状があります。その父に、公文の教材に取り組んでもらっています。母によると、効果てきめんで、父親の生きる力が回復してきているとのことです」。一つ一つの課題を達成していく実感を味わうことにより、「やればできる」との自信を取り戻し、生きる力が再び生まれてきているのだ。これは、まことにすばらしい読みであり。朗報である。

 お年寄りが、自らの『ちょうど』に合わせて、読み書きソロバンに挑む。一つの段階を達成して、"できた"という達成感を味わう。そして、次の段階に進む。向上心の実感である。そしてそれを達成する、また挑戦する。

一足飛びではなく、一段一段と確実に登っていく教材は、まことに優れもの。「やればできる」と感じることが、生活のすべてにわたって活力を和えてくれるようになる。

 そもそも真理は平凡の中にあるのだ。読み書きソロバンなどというと、いかにも幼稚に受け止めるのは、大きな間違いである。基礎をしっかりと身につけることは、生きていく

熊野人

2003年9月29日 上甲晃 |

 「紀伊半島の南部は、兼業農家さえ成り立たなくなっています。農業と何かを兼ねて働きたいと希望しても、その何かに当たる仕事がありません。それほど、すべての産業が衰退しています。例えばかつて盛んであった漁業も、今や高齢化の波に洗われて、後継者がいない。ミカンは、生産過剰と激しい競争のためにジリ貧。だから、人口はどんどんと減っています。ちなみに私が今住んでいる三重県熊野市は、人口わずか二万人。しかも、高齢化先進地域です。この紀南地方開発について、住民の人たちの県政に対する批判はまことに厳しいものがあります。全国にその名を馳せた北川知事をもってしても、お手上げの状態でした」。そんな深刻な地域事情から話を始めたのは、松下政経塾第一期生の橋川史宏氏。『青年塾』熊野講座での話。今、三重県が新設した「地域振興プロデューサー」として、熊野市に住み込み、がんばっている。

 地域振興プロデューサーなる仕事は、そもそも苦肉の策であった。数年前まで、紀南地方再開発の決め手として、ミカン畑の真ん中に、温泉とゴルフ場を建設する大計画が進められていた。しかも、その推進方式は、イギリスで成功した民間と行政が一体になった方式。新しいものを積極的に導入することのお得意な北川前知事は、さっそく飛びついた。しかし、民間側は、どんなに計算しても採算性に乗らない計画から下りてしまった。紀南地域の人たちは、途方に暮れた。そして、県庁に対して、「何とかしろ」と迫った。その結果が、地域振興プロデューサーなる新しい仕事だ。「有能な専門家が地域に入り込めば、地域を元気にする方法を考えてくれるかもしれない」との思いだ。三重県伊勢市出身の橋川氏は、公募によってこの仕事に選ばれた。

 単身赴任で、地域振興プロデューサーの任に就いた橋川氏は、熊野の人たちの気質と付き合うことを余儀なくされた。「この地域の人たちは、地勢の関係から、外部との交流が少ない。そのために、外の人たちには冷淡というか、なかなか心を開くことができない。反面、自分たちの身内の関係が濃い。親類縁者が、がんじがらめに絡まって住んでいます。選挙は、親類縁者の数が多ければ多いほど、勝つ。そんな土地柄です。だから、まずよそ者に冷淡な壁を潜り抜けて、結束の固い縁者の中に入り込まなければなりません。今、その努力をしています。熊野の人たちの気質を理解しなければ、何もできないと承知しています。少し時間はかかるでしょうが、大いなる仮説、大胆な仮説を立て、大きな夢を描きつつ、一歩一歩固めていきます」。橋川氏は、きっぱりと言い切った。

熊野、そして那智

2003年9月28日 上甲晃 |

 熊野古道が、今、人気である。間もなく、世界文化遺産に登録されるとも言われ、人気に拍車がかかっている。平安時代から、熊野詣は、天皇から庶民にいたるまで、大勢の人たちでにぎわった。蟻が行列を成しているように、お参りする人たちが途切れることなく列をなす様子は、『蟻の熊野詣』と言われたほどである。そんな話を聞くにつれ、熊野は日本人の精神の原点を表わしているような気がしてならなかった。我々の先祖が、都から、あるいは全国各地から、一カ月、二カ月の時間をかけて、熊野に参拝したと知り、私もまた、是非行ってみたいと願い続けていた。その私の思いを受けて、『青年塾』第七期生関西クラスの人たちは、熊野大社のすぐ側で研修する手はずを整えてくれた。

 大阪の天王寺から乗った特急は、本州最南端の駅である串本からさらに紀伊半島を三重県のほうに回る。やがて紀伊勝浦に到着する。大阪市内からの所要時間はおよそ三時間半。紀淡海峡から太平洋を望む沿線の景色は美しいが、とにかく遠い。駅に着くと、マグロと鯨の看板がやたらと目に付く。ここ紀伊勝浦は、生マグロの水揚げ基地として全国第一の実績を誇る。鯨は、近くの大地が有名だ。漁業の衰退、主力農業であるミカンの低迷などで、産業は干上がりつつあると聞いた。駅前の商店街は、典型的なシャッター通り。昼下がり、人の姿はまったく見えない。駅から車で二十分。那智大社にいく途中の宿が、今回の研修会場である。゛おく勝浦゛と名乗る宿は、古くて、庶民的。宿の台所を借りて自炊した。食器は、各自持参。掃除すべて自己負担。

 最終日、熊の古道を歩いた。杉の木が林立する山に、苔むした石畳の階段が続く。過ぎ去った千年の時間に、私たちの先祖は、どれほどこの道を信仰の心を胸に秘めて歩いたことであろうか。うっそうとした杉の山は、すべてを静寂の中に包み込んでしまっている。先人たちの踏みしめた石の階段を、先人達が息を弾ませながら上ったように、私たちもまた、息を荒げた。しかし、心が静まる。信仰の地に至る道には、言葉には表現しにくい霊的雰囲気があるようだ。

 那智大社に参り、それから滝に回った。滝の高さと熊野大社と西国三十三所一番札所・青岸渡寺とは、すべて同じ高さにある。古代の人たちの敬虔な心と深い思いに打たれる。那智の滝そのものが、一つの神様である。日本人は、百三十三メートルの高さから白いしぶきを上げながらまっすぐ落下する水に、神を感じたのだ。滝壷に虹が出た。みんなが歓声を上げた。虹に、神を見たような喜びの声がひときわ大きかった。

大阪、なんとかしよう

2003年9月 5日 上甲晃 |

 「大阪から日本を変えよう」とのスローガンのもとに、大阪府の知事や市長を自らの手で選ぶ運動に着手した。もっとも、今のところは、まことに小さな動きであり、とても天下の耳目を集めるようなものではない。昨晩は、「第一回戦略会議」と称する会合を大阪市内で開いた。いつまでも総論を展開していたのでは、選挙に間に合わない。具体的にどのようにするのかと言った戦略を決め、早く活動に着手しないと、入口の段階ですべては終わってしまう。

 参加者は、およそ五十人。夜の六時から八時まで、みんなで熱く語り合った。最初に私が、過去の枠組みや常識を乗り越えて、新しい政治の風を起こしていくことを提案した。「今まで投票所に行かなかった人たちが動き始めたら、すごいことが起きた」。そんなすごいことが起きるためにはどうしたら良いかを話し合ってもらうことを提案した。

 まず大阪の良いところ、悪いところを上げてみようではないか、そんな提案が出た。さっそく、ホワイトボードが持ち出され、みんなの意見が書き加えられていった。「大阪は元気がない」、「大阪は空気が悪い」、「大阪は治安が悪い」、「大阪は景気が悪い」、「大阪は緑が少ない」、「大阪は文化が貧しい」などなど。欠点は、いつの場合も、数限りなく上がってくるものである。ただ、多くの人たちが、現状の大阪に対して、このままではいけないと言った危機感を持っていることだけは事実であった。

 大阪の良いところも出た。「気さく」、「庶民的」、「平等」、「笑い」、「食べ物がおいしい」などなど。良さを上げているうちに、何となく、大阪人らしい運動の仕方があるのではないかと、みんなが考えたことも事実であろう。ひょっとしたら、「大化けするようなすごい運動を、大阪から起こせるかもしれない」と私は思った。大阪人独特の乗りで政治を変えようと取り組んだら、大いに燃え上がることだろう。

 その中で私が背筋を伸ばしたのは、ある中小企業を経営している女性の意見だ。「私は本気です。中小企業の経営者として、本当にぎりぎりのところを歩いている。人によっては、こんなところに来ている余裕がないほど追い詰められている人もたくさんいる。しかし、だからこそ、何とかしなければならないと立ち上がらなければならないと、ここに来ました。私は、本気なのです。本気で大阪が変わらないと、私たちの経営にも明日がないのです」。その意見を聞いているうちに、「政治に目を向けている余裕がないほど苦しい時だからこそ、政治に目を向けなければならない」と痛感した。本気な人たちが立ち上がることも、変革の一歩だ。

納豆

2003年7月19日 上甲晃 |

 「この三十年間で、消費量は八倍になりました。納豆の消費量はずっと増え続けています。ちなみに、同じ大豆製品である豆腐や油揚げは二倍ほどの伸びですから、納豆の成長ぶりがわかります。とりわけ、最近は関西地区での伸びが著しい。私どもでは、岡山に工場をつくるなど、関西での販売に力を入れています」と話してくれたのは、株式会社タカノフーズの社長である高野英一さん。このところ不景気知らずの伸びを続けている納豆は、日本人の食卓に、今や欠かすことのできない大切な食品になりつつあるようだ。

 昨日、私は、タカノフーズさんの幹部研修を担当させていただいた。社長と専務のほか、役員一同が集まった研修は、合計六時間の長丁場であった。タカノフーズは、"おかめ納豆"の愛称で、業界トップの位置にある。シェアーは、三割近い。水戸納豆の名で有名な茨城県に本拠地を置く。ちなみに、納豆を生産する会社は全国に四百から五百社ある。そのうちの半分が茨城県にある。水戸納豆は、納豆の主力なのだ。

 どうして納豆がこんなに伸びているのだろうかと、素朴な疑問が湧いてきた。昼休み、高野社長に質問した。「それは、業界挙げて、納豆を育ててきたからです。全体のパイを大きくすることにみんなで取り組んできたから、ここまで伸びてきました」との答え。まさに、志である。自分さえ良ければいいとの狭い考え方に立ち、人のものでも分捕ることを考えていたのでは、今日の姿はなかったことになる。

 「みんなが良くなれば、自分も良くなる」とうたった"志ネットワークの誓い"にある文書のモデルケースである。「全体のパイを大きくすることには誰の反対もない。納豆が健康食品であることを訴え続けてきたことが、成長の一番の原因です。当社単独でも、納豆の効用を訴える広告宣伝活動に力を入れてきました。業界トップにあるものの責任でもあるわけです」。うれしい言葉だ。それに比べると、納豆の消費量の一・五倍ある豆腐や一・二倍の油揚げは、あまり伸びていない。一万数千軒ある豆腐屋さんが、豆腐そのものを育てるところまで手が回らなかったからのようだ。企業規模が小さいからやむを得なかったのかもしれない。
 タカノフーズさんは、次は、豆腐や油揚げに力を入れようとしている。豆腐や油揚げに最も合う大豆を育てるところから着手していく方針である。日本伝統の大豆関連商品が見直されて、伸びていくことは、まことにうれしい。日本人以外は、納豆や豆腐をほとんど食べない。まさに、伝統の食材を大切にするスローフード運動の日本版だ。

日本人の心

2003年7月17日 上甲晃 |

 「愚か、愚かだね」。そう言いながら、顔を曇らせるのは、奈良市内にある春日大社の宮司の葉室頼昭さん。私がかねてからお会いしたいと思っていた人である。

 葉室さんは、元々は、大阪市内にある名門の病院の外科部長であった。外科部長から、宮司へという転身にも興味があったが、この人の著した本を読んでいるうちに、すっかりと共鳴・共感してしまった。日本人の心のありようについて、神道を基本に据えて説き起こされている。それがまことに平易であり、しかも本質を突いている。一度機会があればお目にかかって直接話をお聞きしたいものだと願い続けていた。願えば叶うとはよく言ったものだ。たまたま岐阜県でお会いした多和田さんが、良く存知あげているので、紹介してあげようと、労を取っていただいた。お目にかかるまでには数ヶ月を要したが、とうとうこの日、実現した。

 梅雨の雨に現れた春日大社の境内には、鹿が悠然と歩いている。うっそうとした緑の森が、神域をさらに深みのあるものにする。社務所に立ち寄ると、貴賓館でお待ちしていますとのこと。少し改まった気持ちで、靴を揃えて、案内された部屋に入った。

 葉室宮司は、秘書を伴って、入ってこられた。私は、来訪の思いを伝えた。「春日大社は、既に千二百年の歴史があります。神を理屈で説いていたら、とても千二百年も続かなかったでしょう。理屈ばかりの世の中になってしまいました。理屈で考えるから、神を信じないという人もいる。医者の私が、目に見えない神を信じて、祈っている。何でも理屈で考えるから、物事がどんどん行き詰まってしまうのです。愚かだね。愚か」。最先端の医療に携わってきたご本人が、神の力に頼らずして医療などありえないと言われる。私はその言葉に惹かれて、葉室さんの世界にのめりこむ。

 ちなみに、春日大社では、『宮司さんのお話』と題するパンフレットを作成しておられる。その中に、「病気の治りやすい人、治りにくい人」という短文が掲載されていた。「診療に来るたびに、少しでもよくなってきたことを感謝する人は治りが早い。感謝の気持ちがまったくない人、病気をつかんでいる人は、なかなか良くなりません」とある。

 およそ一時間半、葉室宮司さんも気分が乗り、私も大いに乗った。実に愉快で、魂の共鳴・共感する話ばかり。結論は、日本人の魂の原点を見据えなければ、日本は絶対に良くならないこと、そしてそのことに、とりわけリーダーと言われる人たちが気づかないことに及んだ。

葉室宮司の話

2003年7月16日 上甲晃 |

 春日大社には、鹿がたくさんいる。奈良公園の中にもいる。どうしてここにこんなにたくさんの鹿がいるのか。松下政経塾卒業生の政治家である高市早苗さんにその話をしたら、彼女は、さっそく周囲の政治諸氏に聞いてみたらしい。みんなは、「餌をやるからではないか」と答えたそうだ。日本の国を動かす政治家がその程度の答えしかできないのが悲しい。奈良の鹿は、飼いならしたわけでも、野生でもない。人間と鹿の共生している姿なのである。しかも安心して、ここの鹿は、悠然と人間と付き合っている。この共生の姿こそ、日本人の心。理屈で考えるから、物事の捉え方が非常に浅くなる。その典型だ。

 人を思いやる心こそ、日本人の心の原点である。自分の回りのものをすべて自分の仲間と思い、共生していくころ、それを忘れている。最近、"若返り"がしきりに叫ばれる。そして、年寄りを馬鹿にし、粗末にする。とんでもない間違いだ。人間の身体の細胞はすべて衰えるが、脳だけは衰えない。これは、自らの体験を若い人たちに伝えていくためである。そして最後は、自らの死ぬ姿をもって、死に方までを後世に伝える。年寄りとは、そんな大切な役割を負っている。だから、人生の三大お祝い事は、生まれること、結婚すること、そして死ぬことであった。

 すべてのものと対立することなく、共生する、そして「相手が幸せになれば、自分も幸せになれる」と考える、それが本当の日本人である。戦争の後、日本人は、自国の戦死者だけではなく、敵国の戦死者までも弔う。この春日大社でも、そのまつりごとがある。

 人を幸せにすることにより、自分が救われると考えるのが、本当の日本人の心をもった人だ。日本人にとって『働く』とは、はた(周囲)を楽にすることである。欧米人のように、『働く』ことは、苦役ではない。だから、リストラで首切りすることがまるで美談になっているが、周りの人たちを犠牲にするような考え方は、滅びの道である。人を苦しめて、自分が生き残ることなど、日本人のすることではない。「情けないね。情けない」。

 社会の低迷を救う道は、時代を担う子供たちを元気にすることだ。子供たちに生命力がよみがえれば、国は救われる。今の子供たちには生命力がない。昔、おじいちゃん、おばあちゃんが、昔話を聞かせて、子供たちを育てた。おじいちゃん、おばあちゃんの経験が、子供の生命力を育んだのである。今は、おじいちゃんもおばあちゃんも、だらしない。おかあちゃんが国を滅ぼすのではないかとも思う。

 日本は、命の力が衰えてきている。

互助

2003年6月18日 上甲晃 |

 「全員出席。それを目的にして、みんなで手分けして声を掛け合いました。今年は、入塾した人は、一年後に揃って出発するとの方針が示されましたので、どうしても全員出席を実現したかった。しかし、結果的には、一人の欠席者を出してしまいました。みんなで、協力し合って、手を尽くしました。けれども、その人からは返事がなく、なすすべがありませんでした。それにしても悔やまれるのは、一度だけ留守番電話にメッセージが入っていたことです。どうしてあの時に、留守番電話になってしまっていたか、悔しいです」。そんな風に話し始めた『青年塾』東海クラスの代表世話人である水野君は、途中から少しばかり涙声になっていた。

 弱肉強食の社会、「切捨て」が大流行である。「付いていけない者は去れ、付いてこれない者は切り捨てる」。それが、昨今の社会全体の風潮である。みんな、生き残ることに精一杯である。だから、人が去り、切り捨てられることは、自分が生き残れるチャンスが増えることを意味する。「来ない者は来なくていい」、「やりたくない者はやらなくてもいい」とみんなが考えたとしても、不思議ではない。そんな社会風潮とは逆行するようなことを私は、『青年塾』の諸君に求めている。「落伍者を出すな」と。それは甘いからではない、共に助け合う努力なしに、切り捨てるような『青年塾』でありたくないのである。

 『青年塾』は利益追求の団体ではない。人間鍛錬の場である。人間鍛錬の場である限りは、「落伍者を一人も出さないようにする」ことも大事な研修だ。それも、基準を大幅に下げて落伍者を出さないのではない。基準を上げつつ、落伍者を出さないようにするにはどうしたら良いかを考え、実践することは至難の業だ。「付いていけない者はどんどん切り捨てろ」といった言い方は、いかにも厳しい姿勢のように聞こえるが、それは無責任だ。「切り捨てる」よりも「落伍者を出さない」方がどれほど難しいことか。難しいことに挑戦してこそ、人は成長する。

 私には、水野君の涙が尊いものに見えた。参加できない人のことを思って涙が流せる人は、「来たくない人は来なくていい。捨てておけ」と言う人よりも、はるかに人間的に魅力がある。

 私は水野君に一つ忠告した。「とにかく出席してもらおうと考えて、みんなで手を尽くすことも大事だ。しかし、参加したくない時に、余りにも強く勧められると、かえってかたくなになったり、意固地になってしまうものだ。無視するのではなく、関心をもちながら、そっと見守ることもまた必要だよ」とアドバイスした。それもまた、勉強だ。

生きた勉強

2003年6月16日 上甲晃 |

 「色々勉強になりました」。研修が終わった後、そんな程度の感想しか出てこないような学びでは弱すぎる。私は、最近、「厳しく学ぶ」ことを、『青年塾』の人たちに求めている。人材教育のための研修は、様々な形で行われている。しかし、私が見てきた範囲では、受講者をお客様にするような研修が多すぎる。すなわち、研修の受講者は、黙って座っておればいいといった程度の学び方である。

 講師が次々に現れて、受講者はただ座って聞いているだけ。そんな学び方では、これからの厳しい時代は生き残れないと思う。もちろん、生き残れないといった表現が適切ではないだろう。「骨身に刻み込むような学び方をする研修」が、これからの時代には強く求められると言ったほうが適切であろう。

 "受け身で選ぶ時代"から、"主体的で、能動的で、積極的な学ぶ時代"である。そのために、今回の東海クラスで強調したことは、「教えてもらうのではなく、つかみとれ」。何か一つでも良いから、確かなものをつかむ、何かをつかまなければ帰るものか、そんな厳しい学び方である。そして、つかむためには、求める意識、強烈な問題意識がなければならない。もし、今回の研修でも何かつかむぞといった気構えで出席すれば、目つきも変わってくるはずだ。目つき、らんらん、ぎらぎら、そんな気風がみなぎっていたら、『青年塾』はいっそう実りの多い学びの場に変わることができることであろう。

 来年の塾生募集のキャッチフレーズは、「教えません。つかんでください」としようかなと考えている。「手取り足取り教えるようなことはしない。自ら何かをつかみ取る」、そんな意味をこめている。

 研修のまとめとして、東海クラスの全員には、「何をつかんだか」について発表してもらった。「こんなことが勉強になりました」と言った人には、「勉強になりましたではだめだ。これをつかみましたと発表して欲しい」とやり直しを命じた。言葉のあやのようであるが、そうではない。「つかむ」という言葉には、主体的な意志、積極的な学び、能動的な姿勢が表れている。それに対して、「勉強になりました」という言葉は、どことなく受動的で、静的で、消極的に聞こえてならない。

 もう一つ、「つかむ」との言葉には、「その学びを生かす」といった姿勢が含まれている。今必要なことは、"生きた学び"である。"生きた学び"とはいったいどのような学び方か。それは、自分の人生に生きる学び方、自分の仕事に生きる学び方、普段の生活に生きる学び方である。

 学んだことは、生きなければならない。「何かをつかむ」ことにより、その瞬間からその学びによって変わる自分がいなければならないのだ。『学ぶことは変わること』である。もちろん、すぐに変化の現れる変わり方もあれば、ゆっくりと時間をかけて変わる学び方もある。その遅速は別としても、変わらない学び方は、「勉強のための勉強」でしかない。

 実社会での学び方は、学びを普段に生かす。学びを仕事に生かす、学びを行動に生かす、学びを人生に生かす、すなわち、"生きた勉強"をしなければならない。「つかむ」という言葉には、そのような意味も込められていることをよく承知しておきたいものである。

 例えば、今回、『青年塾』では、歴史用語の勉強をした。発表が終わったら、「やれやれこれでおしまい」と思う人は、研修のための研修、学びのための学びで終わっている人である。それに対して、そのことをきっかけとして歴史に目を向けて、いっそう歴史に興味をもって自分なりに勉強をし始めるひとは、既に、「学ぶことにより、変わった人」なのだ。

 あるいは、研修の中で、座布団の前後ろを初めて知った人が、家に帰ってからは、常に座布団の前後ろを意識し始めて、常に正しく揃えることができるようになったら、「学ぶことによって変わった人」となる。「つかむ」内容は問わない。しかし、研修のたびに「一つつかみ」、「一つ変われば」、一年間でどれほどの変化が現れることであろうか。想像もつかないぐらいに、成長していくはずである。

 「生きた勉強」とは、学んだことを自分の人生に生かす努力によって実現できる。『青年塾』は、「生きた勉強の場」である。また、「生きた勉強の場」でなければならないのだ。

出逢い

2003年5月26日 上甲晃 |

 北海道・栗山町。札幌から一時間足らずの距離にある、人口一万五千人の町である。この町に、三年前、一人の元プロ野球選手が、私財を投じてつくった少年野球のグラウンドがある。栗山英樹さんは、かつてヤクルトスワローズで活躍した人気の選手。今は、野球解説やNHKの料理番組でもおなじみの人である。この日、『青年塾』の研修のために、栗山町を訪問した私たちを、栗山町長の川口孝太郎さんが、栗山さんがつくったグラウンドに案内してくれた。

 芝生が青々としても手入れの行き届いたグラウンドは、右翼七十メートル、左翼八十メートルの広さがあり、本格的である。芝生の緑が美しい。左翼の小高い所にログハウスがある。ログハウスの中には、栗山さんが集めた有名野球選手のユニフォーム、愛用のバット、写真、人形などが提示されている。栗山コレクションともう言うべき値打ちもの。

 展示されているバットを手にして、「へえー、これがイチローの使っていたバットか」などとしげしげと見つめていた。その時、栗山さんが今千歳空港に到着して、間もなく到着するとの連絡が入った。栗山さんの志に魂の共鳴するものを感じていた私は、本人が現れることに興奮した。

 やがて栗山さんは、腰の低い、第一印象の良い人だ。かつて人気のプロ野球選手であり、今はテレビでおなじみの有名タレントとはとても思えない謙虚さがすばらしい。すぐその場で、今日の『青年塾』で、三十分でいいから話してもらえないかと頼んでみた。そしてさらに、このログハウスを研修会場として貸してもらうことまで頼んだ。随分あつかましい話だ。

 しかし、栗山さんは快諾してくれた。そして、およそ半時間、このグラウンドをつくった思いを話してくれた。「アメリカでは、高収入を得た人は、それを社会に還元するのが一般的である。大リーグの有名選手も、少年たちに夢を与えるために、私財を投じてグラウンドなどをつくることが当然のように行われている。私も、是非とも少年たちの夢につながるような野球場をつくりたいと、各地を調べ歩いていました。なかなか適当な場所がないので、もどかしい思いをしていた時、栗山町の若い人たちから、「全国で活躍している栗山さんに集まっていただくような試みをしたい」と話が持ち込まれました。私は、名前だけを貸すような形ではなく、何かお役に立ちたいとこの地を訪問して、すばらしい土地柄に惚れ込みました、そこで、かねてからの夢であった少年野球のグラウンドをつくることにした次第です」と語ってくれた。三十八歳にしては、惚れ惚れする志ではないか。自らの贅沢に金の糸目をつけない成金とは違う。

進学塾の志

2003年5月15日 上甲晃 |

 講演が終わった後、主催者から抱きつかれたのは、初めてのことである。この日、北海道千歳市にある村上進学塾の講演会に招かれた。対象は、同塾に通う中学生と高校生、そしてその父母など、およそ四百人。中には小学生もいた。主催した村上進学塾の塾長である村上  さんは、私を七年も前から呼ぶことを計画していただいていたとのこと。私としては、それだけでも大感激であるが、村上さんの講演会開催にかける思い入れは、私が恐縮するほど強いものであった。一時間五十分、中学生と高校生に向かって話したのは、私としても初めての経験である。

聞いていただいている人たちの真剣さに励まされて、私も力が入った。予定の午後九時、うまくしゃべれた満足感を感じながら、控え室に戻った。その私の後を追うようにして部屋に飛び込んできた村上さんは、顔を紅潮させているが、言葉が出ない。私の手を思い切り強く握りながら、身体を九十度折り曲げて、お礼の心を表された。そして次の瞬間、私の体に抱きついてこられたのである。私も、感極まって、村上さんの背中を何度も叩いて応えた。

それにしても、村上進学塾の志は、なかなかに高い。「単に受験のための偏差値を上げるような塾でありたくない。塾生の一人一人が、人間として成長し、立派になっていくことまで含めた教育をしたい」と村上塾長は言う。村上進学塾は、小学生から中学生、そして高校生に至るまで、志を持つことの大切さを教えているのだ。私が招かれるのも、そのような教育方針を具体的に実現していく一環であった。

村上進学塾は、世間一般の塾のように、有名校への進学実績を誇るようなことはしない。「実績は、かなり上がっています。東京大学に入る子もいる。しかし、それを宣伝材料にして、ことさら誇るようなことはしたくない。塾生が、志をもって、世の中の役に立つ人間として成長して欲しい。それがこの塾の目的です」と語る村上塾長は、熱い心の持ち主だ。話をしていると、こちらまで段々と熱くなる。
今、五百人の塾生がいる。しかし、数は追わない。「塾生の数を増やしすぎると、人間教育が行き届かなくなる。挨拶、掃除、履物をそろえる。そんな当たり前のしつけも厳しく行います」とのこと。翌日、私は塾を訪問した。日曜日の午前中、塾のすべての教室で授業が行われていた。背筋を伸ばして勉強に打ち込む塾生たちの姿は、私の心をとらえた。そして玄関の下駄箱を見ると、塾生たちのすべての靴は、ひとつの方向に向けて、きちんと並べられていた。これは、並みの塾ではない。

人間教育

2003年5月14日 上甲晃 |

 北海道千歳の村上進学塾が開催した講演会に、岡山から参加している塾経営者がいた。この人は、村上進学塾の村上塾長と同じ志をもって、塾の経営に当たっている。村上さんも熱い志に燃えていたが、この人もまた、子供たちの人間教育に対しては、激しい情熱を燃やしてぶつかっている。私と同じホテルに宿泊されていたので、朝食を共にした。そして、塾における人間教育の具体的な話を色々と聞かせてもらった。

 そのひとつ。「私の塾に、事故のために片腕を無くした子供さんが通っていました。お母さんから、車で塾に通わせても良いかと相談を受けた時、私は、自転車で通うように勧めました。片手で自転車を運転するのは危ないのではないかとお母さんは心配されましたが、私は、十分ほどの距離だし、自転車にしてくださいと言いました。その子が、ある時、自転車の運転を誤って、道端の水溜りに落ちてしまいました。他の子供たちが、私のところにそのことを知らせに走ってきました。そして、先生、早く助けてあげてと頼みました。私は様子を聞いていて、命には別状ないことを知り、助けなくてもよいと言ったのです。生徒たちは、どうして助けないのだと私に詰め寄りました。しかし、私は助けなかった」。そんな話を持ち出された。私は、助けなかった先生の気持ちがわかるので、思わず話の続きに耳を傾けた。

 「その子は、泥にまみれながら、自転車を担ぎ上げました。片手ですから、自転車を持つことさえ容易ではありませんでした。やっとのことで這い上がってきた時、その子もまた、どうして助けてくれなかったのかと私を責めました。私は言いました。君を助けることは簡単だ。しかし、君はこれから一生、片手で生きていかなければならない。今日のような困難なことが一杯目の前に立ちはだかることだろう。その時に、人に頼るのではなく、自分で何とか解決することが求められる。私は、君が片手のハンディキャップに負けずに、自分で這い上がるような人間なって欲しい」。

私はその話を聞きながら、本当の教育のあり方を学ぶ気がした。生きる力を与えることこそ、本当の教育なのだと、改めて納得した次第である。

 片手の子供が自転車から転落して、困っている時、助けることがはたして本当に良いことだろうか。世間は、助けることをもって、美談とする。

しかし、本当にそのこの将来を考えた時、助けないことのほうがより望ましいこともあることを、教育するものは知るべきだろう。人の援助の手を差し伸べることにより、人の自立心を奪うとしたら、援助は偽善のそしりを免れない。美談は、しばしば、偽善の仮面をかぶっているものだ。

老いて衰えず

2003年5月 7日 上甲晃 |

 伝記作家の小島直記先生ご夫妻と、何年ぶりかでお目にかかった。新潟に本拠地を置く歯科のチェーンである徳真会が、新しく新潟診療所と研修センターを開院した記念の行事で、小島先生が記念講演された。私もまた、同じ会合に招かれていたので、小島先生ご夫妻と久しぶりにお目にかかることができたのである。私が独立して間もなく、七年半になる。その間にたった一度しかお目にかかっていない。小島先生は八十五歳、そしてこの日に誕生日を迎えられた奥様は、八十二歳。結婚して六十年目のお二人だが、共にかくしゃくとしておられる。私たち夫婦は、ご夫妻のはつらつとした姿に接して、大いに感化を受けた。妻もまた、「すばらしいご夫妻の生き方だ」と驚いた。

 「人生には、三つの出会いが必要だと、学生時代に教えられた。一つは、師との出会い。二つには、友との出会い。そして三つ目は、書との出会い。私は、東京大学に学んだが、嫌な大学だった。師に当たる教師連中は、出世競争をあおるようなことしか言わない。仲間は、人を押しのけてでも自分の利益追求に目の色を変えるやからばかり。師にも、友にも恵まれなかったが、唯一つ、書には恵まれた。私の人生の拠り所となった書は、佐藤一斎が著した『言志四録』。中でも、<一灯をささげて暗夜を行く。暗夜を憂うるなかれ。ただ一灯をたのめ>との言葉は、生涯の心の拠り所であった。しからば、一灯とは何か。そこが人生の問題だ。札束を集めることを、一灯だと思う人もいるだろう。しかし、暗夜の中では、札束は数えられない」。講演は、いつもの小島節。健在だ。

 私は、小島先生のふだんの生活ぶりを聞いて驚いた。「最近は、講演や、執筆は断ります。だから、午前中は、本を読む。それもフランス語の原文が一番面白い」、そんな一言からして、八十五歳の老人のせりふではない。「昼からは、碁会所通い。これが一番楽しみ。後は、古今東西の名作と言われる映画をビデオで見る。ビデオが山のようにある。それを何度も見る。最近は、ジョンウェインの西部劇が一番面白い」などと話される。日々のようすが目に浮かぶようだ。

 佐藤一斎の言志四録にある、『壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず』。まさにその一言とピタリ符合する生き方を目の当たりにする思いだ。肉体は歳とともに衰える。しかし、精神や心は、いつまでも若々しく、みずみずしいままでおれるのだと、大きな勇気を与えられるようだ。自らの一灯とは何かを探求していく限り、人間は衰えないものだと、久しぶりにお会いした師から学ばせてもらった。

『青年塾』入塾式にあたり

2003年4月16日 上甲晃 |

 第七期生の入塾である。今年は、最終的には、九十三人になった。過去最高の人数である。ちなみに昨年は、九十一人。過去一番多かったのは、三年前の九十二人。『青年塾』の塾生は、合計五百三十四人になる。少なくとも、千人の゛未来への希望の種(たね)゛を育てるところまではがんばり