- ホーム
- デイリーメッセージ
ザルツブルグコース
2009年6月20日 上甲晃 | 個別ページ
益田ドライビングスクールは、益田のM、ドライビングのD、そしてスクールのSの頭文字をとって、゛MDS゛と称していた。ところが今回出かけてみて、゛MDS゛の意味が変わっていることに気がついた。Mは、マインド、即ち心。Dは、デザイン。Sは、スクールになっている。「心をデザインする学校」というわけだ。そこには、会長である小河さんの、熱い思いが込められている。「左脳は、損か得かの計算ができる能力。24時間、損得ばかり考えるのを止めて、右脳を働かせよう」と小河さんは、MDSの持つ意味を変えた思いを語る。車の運転は技術。技術だけをどんなに習得しても、運転する人の心が成長しないと、本当に安全な運転はできないと、小河さんは考えている。
MDSと名称の中身を変更した一つの典型的な実例がある。益田ドライビングスクール全体を見渡すことのできる丘の一角に、新しいコースが完成した。そのコースの名前を、゛ザルツブルグコース゛と呼ぶ。モーツアルトの生誕地であるザルツブルグの森をイメージして名付けられた。そのコース作りをしたのは、モーツアルト部である。やがて何年か経てば、木々か育ち、深い森の中を走るコースになっていく予定である。
そもそも、自動車教習所のコースは、警察の指導の下、すべてが数ミリ単位にまで管理されている。「森の中の見通しが悪いコース」など、認められるはずがない。しかし、小河さんは、「反骨精神と自主独立の気構えがなければ、本物は生まれない」と、押し切ってしまった。「滝や橋まで作りました」と、モーツアルト部の責任者は笑う。運転技術の習得だけが、自動車学校の仕事ではない。運転する人の心のデザインまでやるのだと、関係者はおおいに張り切る。
近くには、レンガで作った迷路が完成した。迷路は、瞑想の道でもある。「人間、とどのつまり、行き着く先は自分である。すべては、自分のせいだ。瞑想は、その自分と向き合うこと。瞑想すれば、人は、右脳を働かせるようになる」と語る小河さんの口調は熱い。それにしても、゛ザルツブルグコースト゛といい、゛瞑想路゛といい、MDSの名称変更の実例は、まことにユニークだ。
「不況は深刻である。しかし、嘆いたところで、どうにもならない。不況を味方につけること。考えてみたら、゛これぐらいはいいだろう゛と手抜きしてきたツケが、どっと出たのだから、治療方法は簡単。やるべきことをやってこなかったのだから、やるべきことをきちんとやればいい。それには、損得ばかりではなく、精神性、心、愛情を注ぎ込むことだ」。明快。
レジ袋
2009年6月 6日 上甲晃 | 個別ページ
スーパーやコンビニで買い物をすると、どんなわずかな品であっても、ビニールの袋に入れてもらえる。そして、その袋は無料で提供される。環境保護が大声で叫ばれる昨今、無料でレジ袋をばら撒くのは止めようではないかと考えたのは、東京・杉並区長の山田 宏氏だ。一般論として話を聞いた人達は、「まことに結構な試みである」と賞賛してくれた。ところが、いったんそれを具体化しようとすると、利害に直接関係ある人達は、いっせいに反対派に回る。今回も例外ではなかった。とりわけ反対派の急先鋒は、区の境界線にある商店街の人達だった。中には、商店街の通りが、そのまま、隣の地域との境界線になっている地域がある。そういう所では、杉並区側の商店街は、ポリ袋有料、通りを挟んで向かいの店は、ポリ袋無料となることもある。
商売をしている人達からすれば、「そんなことをしたら、みんな隣の区で買い物をして、杉並区の店では買わなくなり、干上がってしまう」と、猛烈な反対運動を繰り広げることになる。商店街の人達が集まった会合でも、全員が反対し、山田区長も、進退きわまる場面に何度も遭遇した。
万策尽きたとも思える時、山田区長は、並み居る商店街の人達に向かって、一つの質問をした。その答えによっては、ポリ袋の有料化は断念せざるを得ないかもしれないと、腹をくくった。
「みなさんは商売のベテラン、プロばかりです。そこで敢えて教えていただきたい。ポリ袋を無料で配り続けることは、本当に正しい商売のあり方、正しい商売の道なのでしょうか」。私はその場に居合わせなかったから、会場の雰囲気は想像の域を出ない。しかし、きっと、水を打ったような静寂の瞬間がしばらく続いたのではないだろうか。
山田区長は、その時、会場で手を上げた若い商店主のことを決して忘れることはないと言う。「私も、今まで、おかしいと思ってきました。しかし、なかなか止められなかった。本音を言えば、しようがなくやってきただけです」と発言した。その声は、会場に集まっていた商店の人達の気持ちでもあったようだ。あれだけ反対していた人達が、雪崩を打って、有料化に賛成してくれた。みんなの心が、みごとに一致した瞬間だ。
杉並区は、ポリ袋を有料にした。その後、区民から、反対の声が轟々と起きるようなことは、なかった。それどころか、環境問題が声高に叫ばれれば叫ばれるほど、「早々にポリ袋を有料化に踏み切った杉並区は、先見性があり、意識が高い」と、評価されるようになった。まさに、目先の損得のために止むを得ずやってきたことを克服できた、『志』の話だ。
セールスマンの良し悪し
2009年5月20日 上甲晃 | 個別ページ
朝、地元の金融機関の投資担当責任者が二人、交代のあいさつにやって来た。今までの担当責任者と新任の担当責任者である。二人とも、かつて証券会社に長い間勤めていたことがあるというベテランだ。銀行の窓口でも、証券会社と同じように投資信託商品を扱うようになって、証券会社のOBが、急遽、担当責任者として採用されたのである。私はずばり、「おたくの銀行でも、投資信託商品を買えるようになったことは、一面、便利です。しかし、私から見たら、販売の仕方がなっていない。端的に言えば、売りっ放しで、フォローがない。その上に、担当者が次から次に変わるので、一体誰を頼ったらいいのか、まったく分からない。だから、今後、投資信託商品をお宅から買うことには躊躇します」と、率直に意見を言った。ベテランの担当責任者は、「同感です」と言う。そして、「機会があったら、私共の銀行のトップにも、ぜひとも、そのことを言ってくださいよ」と言われる。そう言われても、私も困る。
投資信託商品が、値上がりし続けている時には、担当者は、うるさいと思うほど、しょっちゅう訪ねてくる。そして、「次は、この商品はいかがですか。先日の商品は、こんなにも値上がりしました。新しい商品はいかがですか」と、矢の催促だ。ところが、最近のように、激しく値下がりすると、セールスマンはぴたっと来なくなってしまう。それどころか、いつの間にか担当者も交代している。売買の相談をするにも、いったい、誰に相談したらよいのか、分からない。まさに、売りっ放しだ。
私は、「投資信託商品が値上がりしている時には、しきりに訪問し、値下がりすると訪問しなくなるようなセールス活動をしているようでは、絶対に信頼されませんよ。私なら、値下がりした時こそ、セールスマンの腕の発揮しどころだととらえて、果敢に活動すると思います。値下がりすると、お客様は面白くない。セールスマンの顔を見れば、愚痴の一つも言いたくなる。それが嫌さに、お客様の所には行かないというセールスマンは、ダメです。値下がりした時こそ、お客様に寄り添い、お客様の愚痴もしっかりと受け止め、共に辛い思いを共有する。それが、信頼されるセールスマンになれる道だと思います」と、持論を披瀝した。
客だって、セールスマンに愚痴を言ったところで、何の解決にもならないことは、十分に承知しているのだ。それでも、愚痴の一つも言いたくなるのは、誰かに思いをぶつけたいのだ。セールスマンは、常に、お客様の思いに寄り添い、喜びや悲しみを共にする心掛けが必要だ。本物のセールスマンを見分けるのに、逆境期は、絶好のチャンスだ。
松下幸之助の教え
2009年5月 5日 上甲晃 | 個別ページ
ゴールデンウイークを利用して、佐賀・有田の陶器市を訪ねた。そして、石川慶藏さんと出会った。石川さんは、松下電器に入社後、PHP研究所に配属され、31年間勤務した。その間、松下幸之助に直接薫陶を受けた。私は、石川さんの経験に自らの経験を重ね合わせ、初対面にもかかわらず、非常な親しみを覚えた。この日、初めて会ったはずなのに、かつて、何度も会ったことのある人のような懐かしい思いがしたのだ。
有田市内にある、石川さんが副社長を務める佐賀ダンボール商会は、有田焼を梱包するケースを作ることが本業である。平成13年、妻の実家の家庭事情から、松下電器を退社して、現在の仕事に携わった。時あたかも、有田焼は、大逆境の中にあった。最盛期の3分の1に落ち込み、産地には先行きへの絶望感が漂っていた。
実家の仕事をする時、妻の母は、「松下幸之助さんの理念や言葉を、この地では語ってはならない」と釘を差した。絶望の淵に沈む産地にとって、松下幸之助の存在は、余りにも縁が遠い。いきなり松下幸之助のことを話せば話すほど、石川さんが地域から浮いてしまうという義母の心配からだ。石川さんは、義母の言葉を忠実に守り、有田では、松下幸之助のことを人前で話すことはなかった。
しかし、仕事に取り組むに際しては、徹底して松下幸之助の教えに従った。まず、「大不況は、大発展のチャンス」という松下幸之助の教えが頭に浮かんだ。石川さんが有田で仕事を始めたころ、有田焼は最盛期の三分の一ほどの規模に落ち込んでいた。産地には絶望感が漂い、人々は将来に対する希望、夢をすっかりとなくしていた。
石川さんは、松下幸之助の教えを思い起こした。「かつてない困難は、かつてないチャンス」。そうか、有田焼がかつてない困難に遭遇しているということは、見方を変えれば、かつてないチャンスにあるのだ。しからば、どうすれば、この困難をチャンスに転じることができるのか。再び、松下幸之助の教えを思い起こした。「一人の知恵には限りうる。衆知を集めれば、道は開く」。そうか、多くの人の知恵を集めればいいのだ。石川さんは、松下幸之助の教えのとおりに実践した。箱屋が、箱屋の枠を飛び越えて、新しい分野に挑戦した。万華鏡は最初のヒット商品だ。石川さんの会社で、万華鏡を手にして、私はその魅力に取り付かれた。また、洞爺湖サミットで、各国のトップに贈られたお土産は、石川さんの手で完成した有田焼の万年筆。万華鏡、万年筆が、有田に新風を吹き込んだ。そして何よりも苦難にあえぐ産地に、希望の明かりをともした。
声の直訴状
2009年4月21日 上甲晃 | 個別ページ
標高100メートルばかりの甘樫の丘に立つと、明日香村(奈良県)の柔らかな全貌が望める。ゆったりとした田園風景に、いぶし銀色した瓦屋根の並ぶ集落が、美しく調和している。春、かなたの段々畑では、黄色の菜種畑が、景観にアクセントを加える。棚田が、山に向う斜面全体を律儀に刻んでいる。満開の桜や桃の花が、別世界を演出する。目の不自由な鍼灸師だった御井敬三さんは、この景色を後世に残すため、渾身の努力をしたと聞く。私は、甘樫の丘から見える景色にため息をつきながら、「景色を見ることのできない人が、どうして、この景色に日本人の心のふるさとを感じることができたのだろうか」と、考え込んでしまった。
目の見える私には、大阪と奈良県の境の山々を起点として、飛鳥に向う開発の大波が、目の当たりにできる。マンションが無秩序に林立し、けばけばしい色の建物や看板が至る所に見える。目の不自由な御井さんが、どうしてこの開発の波から、明日香を守らなければならないと、目の見える人達以上に強い危機感を持ったのか、不思議でならなかった。
゛空気や風、匂いで明日香を感じる゛といった言葉を、明日香の地ではしばしば耳にする。御井さんは、空気、風、匂いに明日香の魅力を感じると共に、それが侵されつつある危機をもまた、空気や風、匂いによって感じたのであろうか。目の見える私には、目が見えていながら、実は見えていないものがあるのだと、強烈に教えられた。
この地を開発して経済的利益を求めることに熱心な人には、明日香の景観の素晴らしさは見えない。その目に映るものは、どこに空き地があり、そこにどんな建物を建てれば、いくらぐらいの利益が得られるかといった見方しかできない。まさに、目が見えていながらも、自分の求めるものによっては、見えないものがいっぱいあることを教えられる。明日香を守らなければならないという御井さんの悲痛な訴えが、テープに吹き込まれ、松下幸之助を通じて、時の総理・佐藤栄作に届けられた。「明日香古京は、日本民族にとって、日本の国にとって、偉大な価値を持ちながらも、今日これを保存し、これを愛し、これを活かす態勢は非常に遅れています。もしも、このままに放置するならば、近代化の波に浸蝕を受けて、いくばくもなくその価値は消滅してしまうことでしょう。日本の故里である明日香の自然と史跡は、どんなことがあっても守らなければなりません」。佐藤栄作を動かした直訴のごく一部分である。声の直訴によって、佐藤総理は明日香に足を運んだ。そして、それが明日香保存の法律を作り、明日香を開発の大波から救った。
地図から消し去られた島
2009年4月 5日 上甲晃 | 個別ページ
無数の島が点在する瀬戸内海に、ある時期、地図から抹殺された島がある。大久野島と言う。周囲4キロ強の小さな島だ。広島県竹原市の桟橋から渡ると、船でわずか10分ほどの距離にある。かつて、瀬戸内海に突入してくるかもしれないバルチック艦隊を迎え撃つために、砲台を設置した以外、歴史の場面に登場するような島ではない。
昭和2年、島に官営工場ができると聞いた時、島人の喜びはひとしおだった。昭和4年、晴れやかな開所式が開かれるころ、島人の喜びは最高潮に達した。工員を80人募集したところ、6,000人が応募したという事実一つ取っても、地元の熱い期待がわかる。しかし、島人が開所を喜んだ官営工場は、大量殺戮兵器の毒ガス製造工場であった。そのために、軍事機密として、島は、地図の上から消し去られたのである。
゛今、環境の島゛として注目されている大久野島で、今年の秋、私の主宰する志ネットワークの全国会議が開催される。下見のために、私は初めて島に渡った。そして、毒ガス製造島の歴史をつぶさに見学した。
竹原から乗った船が、島の港に近付くと、リゾート気分を吹き飛ばしてしまう巨大な廃墟が目に飛び込む。毒ガスを製造するための電力を供給する発電所の廃墟だ。枯れたツタがからむ建物の前に立った。ガラスと言うガラスは、ほとんどすべて割れている。この島が、環境の島として売り出す前、怖いもの見たさに中に入った人達が、至る所に落書きをしている。歳月と共に色あせていった多数の落書きさえ、歴史の悲しさをさらに引き立てているように感じられる。
毒ガスの貯蔵庫は、外からできるだけ目立たないように、崖の影に造られている。周りの草の色と見間違うように緑の色に塗られていた痕跡が、所々に残る。アメリカ占領軍が、毒ガスを処分するために、火炎放射器を使った。貯蔵庫の内部が黒ずんでいるのは、そのためである。大久野島で製造された毒ガスは、6,600トン。製造後、日本各地はもとより、中国各地にも配置された。工場にあった毒ガスは、終戦と共に、土佐沖の海に大量に廃棄された。しかし、敗戦のドサクサで、未だに日本各地の地中に埋もれている物も多い。中国大陸にも、行方の分からなくなった毒ガス爆弾が、無数にある。明治23年、オランダのハーグで、『毒ガスは人類にとってあまりにも残忍な兵器であるから、使わないようにしよう』と取り決めた。日本が毒ガスを作ったのは、それからはるか後のことだ。アメリカは、ベトナム戦争で枯葉剤を大量に撒き、今、ベトナムの人達を苦しみ続けている。人は、悲しいほど残忍にもなる。
送り人
2009年3月24日 上甲晃 | 個別ページ
永年の友人である本多邦年さんは、長崎県島原市で葬祭業を営んでいる。数年前、本多さんに招かれて、゛やすらぎ講演会゛と名付けられた会合で、話をさせてもらったことがある。その時、私は、「葬祭業は、本来、大変に大事なお仕事です。もしみなさまの仕事がなかったら、人はおちおち死ぬこともできません。目の前の遺体を前にして、どのように扱ったらよいか、途方に暮れてしまうことでしょう。みなさまがいてくださるからこそ、死んだ後も安心して任せておける。その意味では、本当はもっともっと胸を張ってもいいはずの仕事です。ところが、業界の人達は、必ずしも胸を張っていない。みなさんの子供さんも、お父さんの職業を聞かれた時、葬儀屋ですと胸を張って答えていないのではないでしょうか。まことに残念なことです」と話した。
永年、死を扱う仕事は、忌み嫌われてきた。死を忌み嫌う気持ちが、死を扱う仕事まで忌み嫌ってきたのである。また、葬祭業を営む人達も、みんながどうしても必要とする大事な仕事をしているのだといった使命感を必ずしも持ち合わせてこなかった。そこに、業界や仕事に対する偏見を生んできたのである。
「送り人」という映画が、最近、アカデミー賞の外国語映画のグランプリに輝いたことは、周知の事実である。本多さんは、「あの映画のおかげで、私達の仕事も随分見直されるようになりました」と言う。私も、今年の初めにシンガポールに向う飛行機の中で見た。゛送り人゛という名前もいい。また、人の死を、尊厳を持って送る仕事の意義が、見ている人達の心を打つ。まさに、葬儀業の本当の意義が見直されるきっかけになったのだ。本多さんは、「あなたから教えていただいたとおりの映画ですね」と言う。「その通り。私の言ったことを映画にすれば、゛送り人゛です」と答えた。自慢するわけではない。どんな仕事でも、儲け仕事としてやると、人に嫌われる。逆に、どんなに゛汚れ仕事゛と嫌われてきた仕事も、使命感を持てば、光り輝くのだ。
私は、本多さんに、一つの提案をした。「葬儀業という名前を改めて、゛一世一代業゛と変えたらどうですか。人間にとって、゛一世一代の舞台゛と言えば、葬式しかない。結婚式は、二度三度やる人もいるし、やり直せる。ところが、葬儀は、すべての人にとって、一回きりなのだ。゛一世一代゛そのものである。そしてさらに提案した。「セレモニーデザイナーという職業を作るのです。生前のうちに、自らの一世一代のセレモニーをどのように挙行するかを企画してくれる仕事です。私も頼みたい」。
不況期の過ごし方
2009年3月 5日 上甲晃 | 個別ページ
不況期になると、松下幸之助が、なぜか見直される。既に亡くなって21年が経過する。しかし、松下幸之助は、今もなお、経営の神様としては、健在のようである。何よりも、松下幸之助は、「好景気良し。不景気なお良し」と言う。そのたった一言が、世の多くの経営者の心をとらえるようだ。みんなは、「好景気は良し。不景気は悪し」と思っているから、松下幸之助の言葉は、ある種、衝撃的なのだ。
どうして不景気が良いのか。「好景気の時にはな、誰が経営しても、そこそこにうまく行くものや。経営力よりも、景気力が、後押ししてくれるからな。ところが、不景気の時は、経営力がなければやっていけない。だから、経営の本当の差は、不景気の時に付くものや」。私なりのとらえ方を、松下幸之助風に語ってみたら、こんな台詞になるのだろう。
経営の本当の差は、不景気の時に付く。そう言われると、私が在職中、゛松下電器は不景気のたびに伸びる会社だ゛と世間で言われていたことを思い出す。不景気のたびに伸びたら、他社との差はみるみる開いていくのは当然であろう。松下幸之助が、゛経営の神様゛などといった言われ方をしたのも、その辺りに秘密があるようだ。
なぜ、不景気は、好景気の時よりも、゛なお良し゛なのであろうか。
先ず、経営の改革は、不景気の時にしかできない、と言う。業績が好調な時は、社員に自信を与えるものの、「この調子で行きましょう」と、現状を肯定する傾向にあり、本当の反省ができない。反省がなければ、改革はありえない。反省は、改革の始まりである。さらに言えば、「このまま行けば、会社がつぶれるかもしれない」といった危機感が浸透すると、今までのやり方を抜本的に変えなければならないと、誰しもが思う。゛かつてない困難は、かつてない改革のチャンス゛だと、松下幸之助は、社員を励ましたものである。また、不景気の時は、好景気の時に手が回らなかったことに着手するのには、きわめて良い機会だ、と言う。「好景気の時は仕事が忙しい。猫の手を借りたいような時には、社員の教育をじっくりしている余裕がない。不景気は、基本的には、暇である。社員教育に一日掛けても、なお時間が余る。不景気の時にしっかりと社員を育てた会社は、やがて好景気になったら、どんどん伸びていく」。そんな言葉も、私の記憶の中に鮮明に残っている。好景気の時は忙しくて手が回らなかったことを順番に挙げていけば、不景気の時にやることが一杯、見えてくる。やることが多いと言うことは、゛不景気もまた良し゛なのだ。
死刑囚
2009年2月20日 上甲晃 | 個別ページ
免田 栄さんは、昭和23年12月、熊本県人吉市で起きた殺人事件の犯人として捕まり、死刑の判決を受けた。二審の福岡高裁で控訴を棄却されて、死刑が確定した。そして福岡拘置所で死刑の執行を待つだけの身になった。その免田さんが、死刑執行を免れるどころか、最終的に無罪まで勝ち取った事件は、゛奇跡゛とさえ言われた。
私は、熊本市内にある慈愛園の現在の園長である潮谷愛一さんを訪ねた時、愛一さんの父親である潮谷総一郎さんの話を聞いて、強い衝撃を受けた。総一郎さんが、゛奇跡゛と深く関わっていたのである。総一郎さんは、死刑執行を待つ免田さんに、教誨師として面接した。その時の印象が、逆転判決のきっかけになった。総一郎さんは、免田さんと会った時、目を見て、「この人はやっていない」と直感したのである。
総一郎さんは、免田さんの無実を証明するために、終始一貫、免田さんの心の支えとなり続けた。そればかりか、自ら、事件の経過を確認して歩いた。まるで、警察か検察の取調べを地で行くような綿密なものであった。重要な証拠になったのが、事件の起きた時間、免田さんと共にいた女性の証言である。年端も行かない女性は十代だった。警察や検察脅され、虚偽の証言をしたと言う。女性は、「本当は免田さんと一緒にいた。私の証言は、強要されたもので、嘘でした」と話した。
事件はそこから大きく展開して、34年の苦闘を経て、免田さんの無罪が確定した。死刑が確定していながら、無罪を勝ち取ったケースは、まことにまれである。総一郎さんが、免田さんの目を見て何も感じていなければ、奇跡は起きなかったかもしれない。また、総一郎さんが、無実を証明する活動をしていなければ、奇跡は起きなかったかもしれない。私は、息子の愛一さんから話を聞き、身震いする感動を、全身に感じた。
免田さんは、34年ぶりに自由の身になった。自由の身になったら、今度は、引き受ける人がいない。総一郎さんが、自らの運営する慈愛園に身柄を引き受けた。それから一年、免田さんは、ふつうの社会人としての感覚を取り戻すのに、七転八倒の苦労をした。持ちつけないお金を持って、身を持ち崩すような事件もあった。人との関係に慣れないために、様々なトラブルも起こしたこともある。しかし、その間、総一郎さんは一言も、何も言わなかった。「これから先は自分の足で立ち、自分で起こした問題は自分で解決しろという父の方針でした」と、愛一さんが言う。免田さんはそのおかげで、後に結婚し、さらには人権擁護活動に身を捧げている。それにしても、すごい人がいたものだ。
世界一の駐車に挑戦
2009年2月 5日 上甲晃 | 個別ページ
空気が違うと、私は感じた。長野県伊那市に本社のある伊那食品工業の新しい工場の社員駐車場の中を歩いている時のことだ。私と並んで歩いていた社長の井上 修さんが、「ここの社員駐車場では、今、世界一の駐車の仕方に挑戦しています」と言う。駐車場の設備や大きさで世界一をめざそうというわけではない。社員が、決められた駐車スペースの中に、世界一、整然と車を停めることに挑戦しているのだ。そう言われて、改めて駐車している車の列を見て、納得した。駐車スペースの中に、どの車も、隣の車の駐車スペースとの境界に引かれた白い線から、ぴたりと等間隔に並べられている。私がどこか空気が違うと感じたはずである。
私自身、車を停める時、そこまで考えたことはなかった。時々、駐車してから車の外に出て、「あまりにも行儀が悪いな」と、車を停め直したことはある。しかし、世界一美しく停めようなどと意識して駐車したことなど、一度もない。『いい会社をつくろう』という社是を掲げている伊那食品工業の゛いい会社度゛は、かなりレベルが高いようだ。
井上さんは言う。「車をきちんと停めることと、仕事をきちんとすることは関係ないと思う人もいます。しかし、それは間違いです。車をきちんと停めようと努力することは、そのまま、仕事をきちんとこなしていく力を養うのです」。私は、膝を打つ思いがした。多くの会社では、車を停めることと、仕事をすることを切り離して考えている。「車をきちんと停めたら経営が良くなるようなら、苦労しない」とうそぶく人もいる。それは、大きな間違いだ。車をきちんと並べる努力は、丁寧に、そしてきちんと仕事をする実力を養っていくのだ。仕事をする人の心が変わっていけば、それが仕事に影響しないわけがない。
昨年、伊那食品工業では、創業50周年を迎えた。そのご褒美に、社員全員を、希望によって、ヨーロッパやニュージーランド、オーストラリア、国内では北海道、沖縄へと旅行に行かせた。同社の塚越会長によると、「お世話した旅行社が、400人もの人が旅行に出掛けて、何一つトラブルがなかったことは、奇跡だと言ってくれました」。怪我や病気はもとより、忘れ物、スリの被害に遭うといったトラブルがまったくなかったことは、まさに同社の社員の心掛けがいかに行き届いているかを表わしている。゛社員駐車場の車の並べ方世界一゛をめざす努力と、海外旅行に出て、トラブルゼロという事実は、関係ないようで、深く関わっている。また、深く関わっていることが理解できないと、いい会社はできない。
グリーン・ツーリズム
2009年1月20日 上甲晃 | 個別ページ
夕張郡長沼町は、札幌・新千歳空港から、車なら30分ほどの距離にある。広大な平原に、豊かな農業地帯が広がっている。農家の数は、およそ800戸。稲作、畑作、果樹、酪農など、農業なら、何でもござれ。とりわけ、大豆の生産では、北海道一を誇る。その長沼町の農家には、もう一つ゛北海道一゛を誇るものがある。全国各地から来る小学生、中学生、高校生を自宅に泊めて農業体験させるグリーン・ツーリズムにおいても、北海道では飛び抜けた実績を誇っているのである。
同町が平成16年にグリーン・ツーリズムに取り組み始めてから、実績は急激に増えている。初年度は、188人であった。翌年度は、早くも1,000人の大台に乗り、さらに次の年にはほぼ2,000人、さらに3,000人台と、急速な勢いで伸びてきた。あまりの急速な伸びに、農家からは、「ちょっと一服」といった声が出たこともある。それでも勢いは止まらず、ついに20年度は5,000人の大台を突破した。地域も、首都圏、関西圏から、最近は九州にまで広がりつつある。
北海道の中には、子供達を受け入れて泊めることを営業として行うことを認可されている農家は、223軒あるが、そのうちの159軒、およそ7割は長沼町の農家。まことに、熱心である。
ここまでグリーン・ツーリズムが盛んになった理由の一つは、行政と農業協同組合が、一体になったことだ。゛小異を越えて大同団結゛することは、物事が成功する秘訣だ。もう一つの理由は、長沼町が有名な観光地でなかったことである。名の通った観光地では、ホテルや旅館が、自分達の領域を侵されると、グリーン・ツーリズムに対しては反対が強い。同町は、有名観光地でなかったことが幸いして、抵抗がなかった。
農家の人達も、この計画にはおおいに乗り気だ。次代を担う子供達に農業を教えること自体、やりがいがあり、楽しいと受け止めている。おかげで、「子供達に励まされて、これからも農業を元気に続けていこうと思える勇気をもらった」と燃えている農家が増えている。
子供達の反応もいい。「土に触ったことがない都会の子供達にとっては、すべてが新鮮な経験になっています。修学旅行の感想文が送られてきますが、観光地に行ったことよりも、農業体験のことをみんながくわしく書いています」と、町長も意気盛んだ。東京の
ある有名進学校から来た生徒は、スギナの根を辿って、 2メートルもの長さがあることに驚いた。そして、何より回りが驚いたのは、2時間、高校生が夢中に土を掘っている姿である。子供達も、何か大事なものをつかんでいるのだ。
宝貴的資源
2009年1月 5日 上甲晃 | 個別ページ
三本のパイプのうち、二本は、マレーシアから生水を輸入するものである。生水は、そのままでは飲料水としては使えない。そこで、技術的にも資金的にも優位にあるシンガポールが、生水を浄化して、残りの一本のパイプを使って、逆に、マレーシアに輸出している。
国の面積が淡路島と同じ面積のシンガポールには、高い山はない。一番高い山でも、海抜百四十メートル。新しく完成したシンガポール第一の高さを誇るビルは、その倍、二百八十メートルある。高い山がなく、国土が狭いことは、水不足をもたらす。人間、油がなくても生きていけるが、水がなければ生きていけない。自国で国民が使用する水を自給できないことは、シンガポールにとって最大のアキレス腱でもあるのだ。
一九六五年、シンガポールがマレーシアから独立する際、水を売ってもらう契約を結んだ。三本のパイプが建設されたのも、その後だ。契約は、二〇一一年と二〇六一年に更新の時期を迎える。仮に、将来、両国の関係がこじれたら、価格を今よりはるかに高く売りつけられるかもしれない。あるいは、売ってもらえないことさえ、あり得ない話ではない。シンガポールは、今、水を自前で確保することに躍起となっている。
私は、正月早々にシンガポールを訪問、「水を自給するプロジェクト」を見学して回った。水を自給するプロジェクトは、大きく三つある。まず、下水を上水化すること、海水を淡水化すること、そして溜池方式だ。
シンガポールは、水を「宝貴的資源」と呼ぶ。日本には、シンガポールの人から見たら、喉から手が出るほど欲しい水が、あり余るほどある。あり過ぎて、ありがたみが分からないことが、いささか残念である。
答え
2008年12月20日 上甲晃 | 個別ページ
ある大手証券会社の開催した会合。冒頭に、専務執行役員が挨拶に立った。「私の三十一年の証券マンとしての経験の中でも、今回のような事態に遭遇したのは、初めてです。だから、これからどうなるかといった予想もつかないし、どうすれば良いかといった処方箋を示すこともできません。そこで、今日の講演会では、講師の上甲さんに、ぜひとも、今後の対応について、答えを教えていただきたい」と、いきなり、私に向かって、とてつもない課題が放り投げられた。
私の話の中身は、もともと、時々の変化に対応する方法論とはまったく逆である。時代を越えて変わらない大切なもの、さらに言えば真理といったものを説き続けてきた。「変化よりも、不変」。だから、この日も、同じ話をするつもりであった。ところが、いきなり大きな宿題のボールを投げられたものだから、何か一つの答を示さなければならないと考えた。
話の最後に、「本物は、いついかなる時代にも生き残れます。それだけは信じても良い。それさえも信じられなくなったら、末世であります。今こそ、本物は必ず生き残れると信じる、そして、だからこそ、今、゛本物に生まれ変わるチャンス゛を迎えたと考えるべきであります」と締めくくった。我ながら、思いを端的に表現できたと思った。
今こそ、「まず、本物は必ず生き残れる」と信じることだ。明日どうなるだろうかと心配する暇があったら、まず、「本物は生き残る」という真理を信じることだ。そしてその次に、「本物に生まれ変わろう」と決心することである。「本物に生まれ変わる」ためには、厳しい環境の時ほど、やりやすい。このままいけば、立ち行かなくなるのではないかと思うほどの困難に出くわせば、誰でも、自らのあり方を根本から反省できる。そして最後に、「それでは本物とは一体何だろうか」と考えることだ。
「本物は生き残る。今こそ、本物に生まれ変わるチャンス」。私の締めくくりの言葉が、聴衆にも少しばかり光明になった様子である。講演会の後の食事会では、乾杯の時も、開会の挨拶も、「本物は生き残る。今こそ、本物に生まれ変わるチャンス」の言葉が、みなさんの口を突いて出た。私自身、自分で言いながら、「そうだよな」と自ら納得した。
それにあえて付け加えるならば、「本物は、当たり前をしっかりと励む」。今回の事態に、特別な処方箋があると考えること自体、既に間違っている。「特別な方法などありえない。誰でもが知っている当たり前のこと、誰でもが当たり前と思っていることを、徹底してやりきることができること」が、本物に生まれ変わる道である。
無言の叫び
2008年12月 5日 上甲晃 | 個別ページ
「戦争は、あってはならないことなのです」。包み込むような優しい言葉遣いで話を進めてきた鳥浜初代さんが、きっぱり言いきった。言葉の後、しばらく静寂の時が刻まれる。大広間の空気が、瞬間、引き締まった。話に、まんじりともせず聞き耳を立てていた『青年塾』西クラスの塾生諸君の背筋が、いっそう伸びた。私達が座っている大広間は、かつて特攻隊員達が、再び生きて帰ることのない任務のために飛び立つ前、つかの間、魂を癒した場所である。この日の語り部の鳥浜初代さんは、゛特攻の母゛として、隊員達から母のように慕われていた鳥浜とめさんの、孫の嫁であり、鹿児島県知覧町にある富屋旅館を切り盛りしている。
私は、何度も聞いたはずの初代さんの話に、新鮮な思いを持って、引き込まれた。初代さんは、とめさんの言葉をもって、自らの思いを伝える。「僕達が飛び立っていけば、きっと戦争のない平和な世の中がくる、平和の礎が築かれる。特攻隊に散った若者達は、それを信じてこの地から敵に向かって、飛んで行きました。あの子達が命を懸けて戦ったのは何のためだったのか、今の時代に生きる私達は考えなければなりません」。私は、強い衝撃を受けた。
もはや特攻隊の隊員達の思いどころか、日本がアメリカと戦争したことさえ知らない若い人達が増えてきた今日、鳥浜初代さんの一言は、重い響きを持って、私の胸に迫る。゛無駄死に゛、そんな言葉が思い浮かぶほど、今の日本は情けない姿にある。決して、゛無駄死に゛に終わらせてしまってはいけないのである。
中でも、印象深かった言葉は、「やがて戦争を知らない人達ばかりの世の中になる。その時、亡くなってしまった゛物言わぬ空気が、ものを言う時がくる。けれども、後の人達に、それを受け取る力がなければ、何の意味もなくなるのです」。今まさに、戦争を知らない人達ばかりの時代を迎えつつある。もう十年もすれば、直接に戦争を体験した人達が、日本にはいなくなる。その時に、「戦争はあってはならないことです」と肝に銘じた先人達の思いは、受け継がれるのであろうか。
昨今、勇ましい発言が増えつつあるように思う。「武力行使も辞さない」。そんな発言が、喝采をもって国民の間で受け止められるとしたら、もはや、「戦争はあってはならない」と肝に銘じたはずの先人達の戦争体験は、無意味なものにとなり下がる。今の時代、国を守るためには、軍隊の存在も否定しきれない。しかし、その根底に、「戦争はあってはならないこと」と肝に銘じた先人の祈りがなければならない。
二人の死
2008年11月28日 上甲晃 | 個別ページ
十一月十四日、十五日と連続して、私の知人が亡くなった。二人の死に、私は大きな衝撃を受けた。
一人は、『青年塾』第六期生の小栗正育君。四十歳の若さであった。死因は、急性心不全。普段どおり出勤した働き盛りの人が、遺体となって帰宅したのである。家族の驚きと悲しみを思うと、胸が締め付けられる。
その日、小栗君は、岐阜グランドホテルで開催された、一泊二日の研修に参加していた。二日間の研修も無事に終わり、帰り支度を急いでいた時、小栗君は、隣の人にもたれかかるように倒れた。すぐに救急車が呼ばれて、五分ほどしか離れていない病院に運び込まれた。救急車の中ではまだ呼吸があった。しかし、病院では既に事切れていた。
小栗君は、愛知県に本社を置く中部飼料株式会社の中堅幹部。とりわけ豚の餌に関する研究部門では、将来を大いに嘱望された人だ。私が何より高く評価するのは、その気骨と筋を通すところだ。「最近ではまれな」と言うと語弊があるが、背筋の通った生き方は、周りの人たちに一目置かせるものがあった。
それにしても、将来を嘱望された若い人の死は、こちらの気持ちまで悲しみのどん底に陥れてしまう。葬儀の時、気丈に立って、会葬者に対してお辞儀をしている母親の側で、二人の小学生が無邪気に数珠をおもちゃにしている姿は、涙を誘う。私は遺影に向かって、「小栗君、待て。まだ早過ぎる」と怒鳴りたい気持ちに駆られた。
もう一人の死は、私が松下電器に入社して、初めて配属された報道部で、机を並べていた坂田憲一氏だ。坂田氏とは、いつも机が向かい合わせか、隣り合わせだった。遊ぶのも一緒。仕事も一緒。新入社員のころをともに過ごした、無二の親友の一人であった。年齢も私とまったく同じ。入社年次は、坂田氏のほうが一年早かったが、若手コンビで、ずいぶん暴れまわったものである。
坂田氏は、定年退職の前、広報本部長の要職にあった。とりわけマスコミの窓口責任者として、心身をすり減らすような激務に追われていた。定年退職して、すぐに胃がんの手術をした。それから後の経過も芳しくなかったようで、「たまに一杯やろう」と声をかけたら、「体調が回復してからにして欲しい」との返事であった。そしてその返事が、坂田氏との最後の会話となったのである。自らのやつれた姿を見られたくないと言い続けてきた本人の気持ちを汲み取り、葬儀は身内だけで行われた。
二人のかけがえのない知人の死に、私は、深く沈みこんでしまった。
ジレンマ
2008年11月21日 上甲晃 | 個別ページ
「本当に良い酢を使っていただいたら、味はもとより、健康にも良い。健康に良ければ病気をしないわけだから、長い目で見て、医療費も安く済む。だから、買い求める時には、多少、値段が高くても、良い酢を選ぶほうが得だと思うのですが」と、言葉を濁すのは、京都府宮津市でお酢を作る飯尾醸造の社長・飯尾 毅さん。「目先の損得、価格で九割のお客様は買い求められるように思います」と、飯尾さんは肩を落とす。残念無念の心境なのだ。
飯尾さんは、゛こだわりの酢゛作りに取り組んできた。シェアは、〇・〇五パーセント。全国四百社中の四十番目位の位置にある。しかし、自らの作るお酢については、日本一だという誇りが、飯尾さんにはある。何よりも、無農薬の新米を原材料に使うこと自体、他のメーカーの追随を許さない。しかも、原材料は、一般的な酢のメーカーの六倍から、七倍も使っている。製造時間は、自然に発酵するために、速醸酢の八倍から十倍掛けている。飯尾さんは、三年前、゛他の追随を許さない良質の酢゛を維持し続けるため、価格を大手同等製品の一・五倍から一・七五倍に上げた。「本当に良いお酢を、誰にでも買い求めていただける価格で販売したい」と考えてきた飯尾さんにすれば、断腸の思いだった。
価格を引き上げた結果、てきめんに影響が出た。それ以来、販売は低迷して、三年連続、前年を下回っている。飯尾さんの悔しい思いの原因はそこにある。「良いお酢を作っている限り、必ず世間に認めてもらえる」との信念が、時には、揺れる。名門、゛富士酢゛のピンチだ。
それにしても、飯尾醸造のお酢は、天下一品である。地元の棚田で収穫された、無農薬の新米を原材料に使うために、地元の農家から、最高級を誇る新潟・魚沼産の価格を上回る、日本一高い価格で米を買い取っている。米代だけではない。米作りに必要な資材・機材の費用、農協の手数料も、すべて農家に代わって負担している。コストダウンと、自らの利益確保のために、一番安い米を仕入れることに目の色を変えているメーカーからすれば、飯尾さんのこだわりは、とても信じられない。
それでも、最近、棚田の米を作る農家が減少してきている。そのために、飯尾醸造さんでは、社員が稲作作りに取り組むようになった。そこまでしてでも、無農薬の新米にこだわっているのだ。飯尾醸造さんには、営業部門がない。また、宣伝広告もしない。「良いものを手ごろな価格で」と思うから、お酢作りに全精力を注ぎ込んで、宣伝や営業活動をしない。本物には、どんなことがあっても、生き残って欲しいものである。
帆立貝と秋異変
2008年10月17日 上甲晃 | 個別ページ
「いつもの年であれば、この時期、作業をしている手が寒さにかじかむのですが、今年は、そんなことはまったくありません。それどころか、汗ばんでくる。とにかくこんな暖かい秋は、珍しい」と話し始めたのは、サロマ湖で、三十年にわたって帆立貝の養殖をしている舟木耕一さんである。
大阪の自宅を出る時、私達夫婦は、覚悟を決め、冬支度をした。オホーツク海に面した北の地は、最早、冬の入り口にあるのではないかと予想したからだ。ところが、連日の快晴、日中の温度は二十度を超えている。「今年、紅葉の色付きが悪いのは、朝夕の温度が下がらないから」と、地元の人達は、一様に口を揃える。北の国は、゛秋異変゛なのだ。
「海の様子もおかしい」と舟木さんは、言う。例えば、サロマ湖の外、オホーツクの海で、つい最近、本マグロが定置網に掛かった。「本マグロが網に掛かるなんてことは、ついぞなかったことです」と舟木さんも驚いている。どうやら、水温が変化しているために、漁業事情にも異常現象が現れているのだ。本マグロが網に掛かる一方では、本来この時期に獲れなければならないはずの秋鮭が網に掛からない。「水温が高いために、鮭が川に近付かないのではないだろうか」と、地元の漁業関係者は推測するが、詳しいことはまだ分かっていない。
「そう言えば、昨年の秋、帆立貝の成長がぴたっと止まってしまったことがあります。原因は分かりません。とにかくおかしいおかしいと、みんな、首をひねるばかりでした」と、船木さんは、自らの経験を教えてくれた。オホーツクの海に何らかの変化が起きていることは、事実だ。かつて、寒冷地の北海道で取れる米は、あまりおいしくないと言われていた時期がある。それが、最近は、気温の上昇につれて、おいしい米どころ゛になってきている。陸の変化と同様、海もまた変化しているのだ。
舟木さんの船に乗って、サロマ湖の帆立貝の養殖場を見せてもらった。「海の異変も不大変だが、円高も痛い」と言う。帆立貝と円高が関係すると知り、思わず、「どうして?」と質問した。「帆立貝は、八割が輸出です。だから、円高になると、もろに影響を受けるのです」とのこと。最近、中国でも、帆立貝の養殖が盛んになり始めている。激しい競争下にあって、円高なると、国際競争に勝てないのだ。自然環境の異変、経済環境の異変に、帆立貝も翻弄されているのである。
今年、日本列島への台風の襲来が少なかった。サロマ湖は、海につながっている。「海の掃除という観点から見ると、海がシケないのは、水質面から問題が多い」と舟木さん。゛帆立貝事情゛も、容易ではない。
師の教え
2008年9月19日 上甲晃 | 個別ページ
「地位、肩書きで、人は切れない。人を切るとは、人を魅了するといった意味だ」。そんな強烈な一言を、私の背骨に叩き込んだのは、伝記作家の小島直記先生である。小島先生は、地位や肩書きばかりを追い求め、ありがたがる人を、゛俗物゛と決め付けて、極端に嫌っていた。例えば、名刺の裏にあらゆる肩書きを得々と並べて誇る人と出会った時などは、みるみる不機嫌な顔になった。また、世間では立派な人物と評価されている人達の、虚飾の仮面を引き剥がす小説は、痛快そのものだった。私が、人生において、最も影響を受けた師の一人だ。
その小島先生が、亡くなられた。月曜日の朝、いつものように、日本経済新聞の朝刊に目を通していた。社会面の下に、顔写真入りで、「伝記作家小島直記氏、死去」とあった。新聞の記事は、「明治以降の政財界人の人生を描き、独自の伝記文学の世界を築いた作家の小島直記氏が、十四日午後二時十四分、多臓器不全のため神奈川県内の自宅で死去した。八十九歳であった。告別式は近親者のみで行う」とある。
すぐに妻に伝えた。「うそっ」と、妻も驚く。「本当だ」と私。地位・肩書き、位階・勲章を極端に嫌い、「権勢を誇るような葬儀はまかりならぬ」と常々言い続けてきた先生の声が、記事の行間から聞こえてくるようだ。
私は迷った。すぐ駆けつけるべきか、日を改めて弔問すべきか。身内だけでひっそりと送ろうとしておられるのに、私が出掛けていくことは、かえって失礼ではないだろうかとも考えた。しかし、妻が横から、きっぱりと言う。「後から来られるのは、かえって迷惑。日を改めるのは、こちらの都合でしょ」と言う。私は、その一言に促されて、すぐに航空便を手配して、神奈川県の逗子にある、小島先生の家に向った。小島先生にひときわ可愛がられた松下政経塾卒業生の金子一也氏も一緒だ。
小島先生の自宅は、静まり返っていた。玄関のベルを押したら、平服姿の奥さんが出てこられた。側にお孫さんが立つ。家の中にいるのは、二人だけだ。持参した花さえ、何となく場違いな感じがするほど、家の中は普段のままである。小島先生は、狭い寝室に置かれた夫婦のベッドの一方に、入り口に頭を向けて横たわっておられた。顔に掛けた白い布がなければ、静かに休んでいる老人の姿だ。私は、小島先生の額に触れた。冷たかった。「大事なことを、色々教えていただきありがとうございました」と頭を下げた。ベッドの脇に、静かに線香が焚かれていた。
「地位・肩書きで人を魅了することはできない。高い志を持て」。そんな厳しい声が、聞こえた気がした。
りんご哲学者
2008年9月 4日 上甲晃 | 個別ページ
木村さんは、不思議な優しさをかもし出す、魅力的な人である。先ず何よりも、言葉遣いが良い。私は、言葉遣いの良い人が、大好きである。言葉遣いの良い人は、思考が哲学的で、物事の真理をつかんでいる。それは、高い志を持ち、理想に燃えて、血のにじむような実践を続けてきた人達が到達した゛名人の台詞゛でもある。
「りんご栽培の主人公は、りんご。私が育てていると思っている間は、うまくいかなかった。私は、ただのお手伝い」。
「こびりついた常識。常識をまず、疑ってみなければならない。私達が常識と思い込んでいるうちの半分は、間違っている」。
「食べる物を通して、心は良い方向に働くもの。食べ物が脳の一部を刺激して、人間の心を輝かせる」。
「消費者を教育しながら、生産者の意識を改革していく」。
そもそも木村さんが、無農薬、無肥料の農業に取り組み始めたきっかけは、奥さんの病気にある。りんごに農薬を盛んに散布していたころ、一緒に作業している奥さんの体調が非常に悪くなった。その様子を見て、農薬を使うものだという常識を疑ってかかった。農薬を一切使わない、肥料も一切使わない。りんごそのものが持つ゛育つ力゛を存分に発揮させるように土を整える。木村さんの挑戦は、苦闘の連続であった。最初の七年間は、りんごが実らなかった。りんご農家にとって、りんごが実らないことは、死活問題だ。周りからは、当然のごとく、冷笑された。その苦労の歩みは、NHKの番組を通じて、全国に知られた。
木村さんの話を聞く『青年塾』塾生達の周りに、りんごが豊かに実っていた。木村さんが育てる無農薬・無肥料のりんごは、今や、貴重品だ。
枝豆の誕生
2008年8月19日 上甲晃 | 個別ページ
「あっ、枝豆ができている」。そんな孫の驚きの声が、聞こえてきた。私は、すぐさま、孫のそばに走り寄った。二十九本並んでいる大豆の茎の一本に、確かに枝豆が三つ付いている。そっと上から触ってみたが、鞘の中にマメの手ごたえはない。これからが楽しみだ。
私が主宰する『青年塾』の今年の研修課題の一つは、大豆の栽培と加工に取り組むことである。今、全国各地で、八十人以上の塾生諸君が、自宅で大豆を育てている。私も、大豆を栽培することにした。
まず、゛地大豆゛探しから始まった。「そもそも、゛地大豆゛とは何か?」。こんな時、すぐにインターネットに飛びつくのが普通だ。ところが、インターネットで、゛地大豆゛という言葉は検索できないと聞いた。゛インターネット依存症゛にかかってしまっている時代に、インターネットで調べられない課題を決めたのは、大正解だった。インターネットがだめなら、自ら足を運んで、調べて歩くしかない。それが、私の願うところなのだ。
四月、入塾式の時、それぞれの土地に固有の伝統種である゛地大豆゛を全員が持参した。中には、゛地大豆゛と、地納豆とを間違えて持ってきた人もいる。また、ある人は、「絶対に内密」との約束で、農家からもらい受けた人もいた。要するに、゛地大豆゛を探し出すだけでも、みんなは思いのほか、苦労した。『青年塾』では、苦労することこそが、学びの基本と考えている。塾生諸君は、゛地大豆゛を身に染みて、理解したはずだ。
私は、農業関係の会社に勤務する姪に頼んで、゛地大豆゛を確保してもらった。その名を、「さちゆたか」と言う。大阪府茨木産だ。六月中旬に撒くようにと教えられたので、六月十五日きっかりに、三粒づつ、三十センチ間隔で撒いた。場所は、わが家の裏の塀沿い。斜面になっているので、日当たりは申し分ない。それなりに、畑らしく一畝を耕した。やがて、芽を出し、花が咲き、枝豆が付いた。来週から始まるサマーセミナーには、「枝豆持参」との宿題が出ている。はたして間に合うか。
農業を営む塾生から、「あなたの゛自分自給率゛はどれくらいですか?」と聞かれた時は、ショックだった。日本の食糧自給率がカロリーベースで四十パーセントを切っていることは、国として大問題だと指摘してきた私ではあるが、自身の食料自給率はゼロだった。食糧難に陥れば、最初に飢饉に見舞われる組だ。これからは、゛マネー゛より、゛命゛の時代だ。
どれほどお金を儲けても、食べる物がなければ生きられない時代を迎えている。゛自給自足゛こそ、時代のキーワードになってきた。
※このデイリーメッセージは「アイビーエム・ユーザー研究会」ホームページにも掲載しています。
花と武士道
2007年1月14日 上甲晃 | 個別ページ
世の中、園芸ブームである。゛ガーデニングブーム゛と呼ぶ。イングリッシュガーデンは、とりわけ人気があるとも聞く。私の家の付近でも、実に色とりどりの花を咲かせて楽しんでいる人達が多い。ところが、昔、肥後藩では、殿様の肝いりで、花作りを精神修養として励んできたと聞いて、大いに驚いた。と同時に、昔の日本人は、花作りを単なる趣味としてではなく、花を栽培し、鑑賞する方法について、高い精神性を求めてきた事実に、改めて感心もし、誇りにも思った。
そもそも私がそのことを知ったのは、全日空の機内誌を見ていた時のことである。「日本人のたしなみ」に興味を持っていた私は、熊本に本拠を構える再春館という名の製薬会社が出していた広告の片隅にあった、虫眼鏡がなければ読めないほど小さな文字に注目した。「細川藩第六代藩主の細川重賢は、武士の精神修養として、肥後六花を栽培し、観賞した」とあった。初めて、肥後六花のことを知り、熊本の人達に詳しいことを聴いてみた。残念ながら、誰も名前こそ知っているものの、詳しいことを知らないと言う。そこで私は、熊本県庁に勤務する山下慶一郎さんに、「これは宿題」と言って、調べてもらうことにした。
山下さんは、私が熊本を訪ねた日、「熊本の植物界では第一人者」と言われている大御所を伴って、私の講演している会場に現れた。その人の名前は、今江正知さんと言う。膨大な資料を持参しておられるので、いささかたじろぐ思いをした。専門的なことを知りたいわけではない。いったい、細川藩では、園芸を通じて、どのような精神修養をしていたのかを知りたかっただけである。大御所にお出ましいただくほどのことはない。恐縮しながら、大御所の横に座った。
大御所はいきなり、「園芸はそれを育てる人達の思いや考え方によって、作り上げられていくものであり、文化の反映である」と言われる。「園芸にはひとつは、商売人が作る花があります。それは、見た目が良いものです。それに対して、武士が育てる花は、人の目にどのように映るかよりも、自分の価値観に合い、自らの生き様にふさわしい物を作ります」とのこと。なるほど、武士は自らの価値観を、園芸に投入したのである。
ちなみに、武士はどんな花を好んだのか聞いてみた。「武士がめざしたのは、気品があって、清明、端正、豪壮な花です」と答えが返ってきた。まさに、゛花と武士道゛である。肥後六花とは、菊、朝顔、芍薬、椿、花菖蒲、山茶花を指して言う。私は、だんだん興が乗ってきて、身を乗り出した。実にいい。日本人は、やっぱりすばらしい感性を持つのだ。
『青年塾』諸君への手紙
2006年12月 5日 上甲晃 | 個別ページ
クラス別の研修も、第三回目に入りました。北クラスと東クラスは、既に第三回目の研修も終えました。そしてこれから、東海クラス、関西クラス、西クラスを、三週連続で開催します。三回目のクラス別研修が終わると、いよいよ、一月に開催する松山講座、二月に開催するクラス別自主講座を経て、三月九日からの出発式へと向かいます。゛第三期生の研修も、日程的には、いよいよ最終盤に入っていきます。しかし、エネルギー的には、これからが本番とも言えるでしょう。いっそう、本腰を入れていただかなければならない時がきたようです。
クラス別に現状を見ると、非常に雰囲気が盛り上がっているところもあれば、いささか先行きの運営に不安感が伝えられるところもあります。しかし、私はあまり心配していません。すべてのクラスを最高の状態で仕上げるのは、私の責任です。これから、諸君とともに、「最高の青年塾」、「十期が最高」と胸の張れる仕上げをしていきましょう。゛終わり良ければ、すべて良し゛です。
一人一人の心に、゛志の樹゛を根付かせたい
そのためには、何よりも、みんなの『志』が問われます。諸君の心の中にしっかりと、『志の樹』が育ってくれば、どのクラスも最高の状態で仕上げられるはずです。もし、何らかの事情で、クラスの運営がギクシャクするとすれば、塾生諸君の『志の樹』が、成長不良になっているからです。
先日、東クラスで訪問した山形県長井市。農業者が、市内五千世帯の台所から出る生ゴミを活用して土作りを進め、その土で有機野菜を生産し、再び台所に戻す運動を展開しています。名づけて、゛レインボープラン゛。台所と農家の間に、゛夢の虹橋゛を架けようという、実に壮大な『志』の取り組みです。゛レインボープラン゛の最大の特徴は、行政主導ではなく、農業者から発案されたところにあります。農業者の『志』から生まれた構想であるところが、私がこの構想に惚れ込んでいる理由の一つです。
長井市のレインボープランに学ぶ志
長井市には、志の高い農業者が、何人もいます。中でも。つい最近まで、゛レインボープラン゛の会長職にあった菅野芳秀さんは、『青年塾』の講座のたびに塾生諸君に話をしてくれます。その話の内容に、私は、惚れ込んでいます。何よりも、言葉使いが良いのです。こんな風な言葉遣いのできる人は、よほど哲学的な思考ができる証拠であります。 言葉の裏に潜む哲学的思考に、私は、ぞっこん惚れ込んでいると言うべきかもしれません。
「食糧の危機は、国家の危機」と、菅野さんは言います。食糧飢饉を本気で心配しているのです。゛飽食日本゛の中で、食糧飢饉を心配する人など、まれです。「日本人は、北朝鮮の食糧飢饉を気の毒に思うかもしれないが、食糧自給率は七八パーセント。それに対して日本は、穀物で二七パーセント、カロリーベースで四〇パーセント、北朝鮮のことを云々している場合ではない。日本の農業は、回復不能。もはや戻ることのできない危機にある」と、現状の深刻さを訴えます。
「嘆き節からは何も生まれない」
「しかし」と、菅野さんの持論が始まります。「嘆き節からは、何も生まれません。与えられた条件の中で、常に最善を尽くすことが大切です」と切り出して、熟した柿にたとえます。「熟した柿はやがて朽ちて滅びます。しかし、朽ちた柿の実の中には、ちゃんと種があり、未来への可能性を秘めています。危機の中にも、可能性がいつも秘められているのです」と言います。うまい言い回しに、私は、思わず引き込まれました。このあたりが、菅野さんの話の実に魅力的なくだりです。
私が、ぜひとも塾生諸君に伝えたいと思ったのは、次の一言。この言葉をぜひとも心に刻んで、これからの各クラスの仕上げに取り掛かっていただきたいと思います。
「批判と反対からは、基本的に、何も生まれてきません。批判と反対は、仲間の心を、離れ離れにする心の冷たさを持っています。仲間を肯定し、相手を肯定するところから、プラスのエネルギーが沸いてきます。どんな時でも、対案と建設的意見を持って参加すれば、そこに希望が生まれ、足し算の論理が成り立つ。あなたはすばらしいと認められた時、人は、私は認められている、私は必要とされていると感じられるのです」。まさに、『青年塾』で、私がいつも求め続けている姿です。
「人の批判をするな。゛せめて私が゛の心構えだ」
「人のことを言うな。そのように思うのならば、せめて私は、先頭に立ってみんなのために力を尽くそう」。『青年塾』塾生の基本的な心構えです。もしも諸君がそのような心構えで人生を送ることができたら、既に諸君は、゛人間一流゛の道に入り、幸せな人生を手に入れることができること間違いなしです。私達は、人を批判できるほど、立派ではないのです。「人に求める前に、自らを正す」のです。
組織の中で、「誰が悪い、彼が悪い」などと、厳しい批判をしている人の言葉を聞くにつけ、私は、「そんな風に人の批判をしているあなたが、組織に悪い風を吹かせている張本人」と、厳しく問いかけたい気持ちになります。仲間を肯定し合う風土は、青年塾の目指すべき、一番の特徴です。ぜひとも、そのことを心がけて、山場を乗り切ってください。
『青年塾』塾長 上甲 晃
『青年塾』諸君への手紙
2006年11月28日 上甲晃 | 個別ページ
クラス別の研修も、第三回目に入りました。北クラスと東クラスは、既に第三回目の研修も終えました。そしてこれから、東海クラス、関西クラス、西クラスを、三週連続で開催します。三回目のクラス別研修が終わると、いよいよ、一月に開催する松山講座、二月に開催するクラス別自主講座を経て、三月九日からの出発式へと向かいます。゛第三期生の研修も、日程的には、いよいよ最終盤に入っていきます。しかし、エネルギー的には、これからが本番とも言えるでしょう。いっそう、本腰を入れていただかなければならない時がきたようです。
クラス別に現状を見ると、非常に雰囲気が盛り上がっているところもあれば、いささか先行きの運営に不安感が伝えられるところもあります。しかし、私はあまり心配していません。すべてのクラスを最高の状態で仕上げるのは、私の責任です。これから、諸君とともに、「最高の青年塾」、「十期が最高」と胸の張れる仕上げをしていきましょう。゛終わり良ければ、すべて良し゛です。
一人一人の心に、゛志の樹゛を根付かせたい
そのためには、何よりも、みんなの『志』が問われます。諸君の心の中にしっかりと、『志の樹』が育ってくれば、どのクラスも最高の状態で仕上げられるはずです。もし、何らかの事情で、クラスの運営がギクシャクするとすれば、塾生諸君の『志の樹』が、成長不良になっているからです。
先日、東クラスで訪問した山形県長井市。農業者が、市内五千世帯の台所から出る生ゴミを活用して土作りを進め、その土で有機野菜を生産し、再び台所に戻す運動を展開しています。名づけて、゛レインボープラン゛。台所と農家の間に、゛夢の虹橋゛を架けようという、実に壮大な『志』の取り組みです。゛レインボープラン゛の最大の特徴は、行政主導ではなく、農業者から発案されたところにあります。農業者の『志』から生まれた構想であるところが、私がこの構想に惚れ込んでいる理由の一つです。
長井市のレインボープランに学ぶ志
長井市には、志の高い農業者が、何人もいます。中でも。つい最近まで、゛レインボープラン゛の会長職にあった菅野芳秀さんは、『青年塾』の講座のたびに塾生諸君に話をしてくれます。その話の内容に、私は、惚れ込んでいます。何よりも、言葉使いが良いのです。こんな風な言葉遣いのできる人は、よほど哲学的な思考ができる証拠であります。 言葉の裏に潜む哲学的思考に、私は、ぞっこん惚れ込んでいると言うべきかもしれません。
「食糧の危機は、国家の危機」と、菅野さんは言います。食糧飢饉を本気で心配しているのです。゛飽食日本゛の中で、食糧飢饉を心配する人など、まれです。「日本人は、北朝鮮の食糧飢饉を気の毒に思うかもしれないが、食糧自給率は七八パーセント。それに対して日本は、穀物で二七パーセント、カロリーベースで四〇パーセント、北朝鮮のことを云々している場合ではない。日本の農業は、回復不能。もはや戻ることのできない危機にある」と、現状の深刻さを訴えます。
「嘆き節からは何も生まれない」
「しかし」と、菅野さんの持論が始まります。「嘆き節からは、何も生まれません。与えられた条件の中で、常に最善を尽くすことが大切です」と切り出して、熟した柿にたとえます。「熟した柿はやがて朽ちて滅びます。しかし、朽ちた柿の実の中には、ちゃんと種があり、未来への可能性を秘めています。危機の中にも、可能性がいつも秘められているのです」と言います。うまい言い回しに、私は、思わず引き込まれました。このあたりが、菅野さんの話の実に魅力的なくだりです。
私が、ぜひとも塾生諸君に伝えたいと思ったのは、次の一言。この言葉をぜひとも心に刻んで、これからの各クラスの仕上げに取り掛かっていただきたいと思います。
「批判と反対からは、基本的に、何も生まれてきません。批判と反対は、仲間の心を、離れ離れにする心の冷たさを持っています。仲間を肯定し、相手を肯定するところから、プラスのエネルギーが沸いてきます。どんな時でも、対案と建設的意見を持って参加すれば、そこに希望が生まれ、足し算の論理が成り立つ。あなたはすばらしいと認められた時、人は、私は認められている、私は必要とされていると感じられるのです」。まさに、『青年塾』で、私がいつも求め続けている姿です。
「人の批判をするな。゛せめて私が゛の心構えだ」
「人のことを言うな。そのように思うのならば、せめて私は、先頭に立ってみんなのために力を尽くそう」。『青年塾』塾生の基本的な心構えです。もしも諸君がそのような心構えで人生を送ることができたら、既に諸君は、゛人間一流゛の道に入り、幸せな人生を手に入れることができること間違いなしです。私達は、人を批判できるほど、立派ではないのです。「人に求める前に、自らを正す」のです。
組織の中で、「誰が悪い、彼が悪い」などと、厳しい批判をしている人の言葉を聞くにつけ、私は、「そんな風に人の批判をしているあなたが、組織に悪い風を吹かせている張本人」と、厳しく問いかけたい気持ちになります。仲間を肯定し合う風土は、青年塾の目指すべき、一番の特徴です。ぜひとも、そのことを心がけて、山場を乗り切ってください。
『青年塾』 塾長 上甲 晃
今村大将
2006年11月 6日 上甲晃 | 個別ページ
今村 均などといった名前を、今の若い人は誰も知るまい。大東亜戦争の時、ジャワ(今のインドネシア)に派遣された部隊の総大将である。私も、今まで、名前程度しか知らなかったから、若い人に偉そうなことは言えない。『夢甲斐塾』の研修として、今村 均大将について詳しく知る機会があった。正直なところ、「こんなに責任感のある、立派な指導者が日本軍にいたのか」と驚くとともに、大いに尊敬の念を抱いた。指導者とは、かくあらなければならないと、教えられた。
今村 均大将は、いつも聖書と歎異抄を携えていた事実一つ取ってみても、人間的に立派であったことは、よくわかる。しかし、その人間性の立派なことは、戦争後に遺憾なく発揮されたのある。戦犯としての囚われの身から開放された後、自らの自宅の庭に、三畳一間の小さな小屋を建て、八十四歳で亡くなるまでの十四年間、部下に対する責任を果たすために、自ら謹慎の伏屋の中で謹慎をし、亡くなった兵隊達の霊を慰めるために、全国を行脚したのである。
今、今村大将が、自ら、謹慎するために建てた伏屋は、山梨県韮崎市の小高い丘陵の上にある。今村大将のかつての部下であった中込藤雄さんが、大将の亡き後、焼き捨てる運命にあった小屋を貰い受けて、自らの家の庭に移築し、今日まで守り続けてきたのである。九十歳になった中込さんは、まるで今村大将の魂を守るかのように、伏屋を大切に維持管理するとともに、多くの人達に紹介してきた。
私達一行は、中込さんが開けてくれた伏屋の中に入った。押入れと上がり口のたたきを除けば、畳三枚だけ。聞くところによると、巣鴨刑務所の独房と同じ広さ。違うのは、刑務所には三畳の中にトイレがあるが、ここにはない。今村大将は、家族の誰にもこの部屋に入ることを許さなかった。ひたすら、自らを慎み続けたのである。戦後、位に就き、あるいは財を成した元軍人幹部とは、対照的な生き方を選んだのだ。
私達八人が入ると、三畳の間は身動きが取れない。「中は、閣下が生きておられた当時のままです」と、中込さんが説明してくれる。伏屋の中で書を読む今村大将の写真がある。押入れを開けると、大将が片時も話さなかった聖書がある。そのほかに、戦後、几帳面に集めた新聞などの切抜きをしたノートが並んでいる。既に変色した新聞の切抜きを見ていると、戦後の世相や社会風潮に対する深い嘆きが伝わる。細かい字で書き込んである鉛筆書きの文字もまた、今村大将の国を思う気持ちにあふれていた。
第29回『志ネットワーク』全国会議を開催
2006年10月15日 上甲晃 | 個別ページ
第29回『志ネットワーク』全国会議を開催
大荒れの天候下、参加予定者が全員集合
青森・八戸で熱く交流
横殴りの雨。傘を飛ばしてしまいそうな勢いで吹きまくる風。八戸駅にたどり着くまでが大変だった。八戸駅の裏口に停車しているバスに乗り込んだ時には、上から下まで、ずぶ濡れである。出迎えのバスに乗って待っている参加者達は、異口同音に、「いやあ、手荒い歓迎ですな」と言う。第二十九回『志ネットワーク全国会議』は、青森県八戸市で開催された。八甲田山の紅葉を楽しむのにはこの時期が最高、ということから決められた日程である。しかし、当初の思惑とは反対に、台風並みの低気圧に見舞われた。発達した低気圧に、台風が合流したのだから、並みの荒天候ではなかった。
会場は、太平洋をすぐ目の前に楽しめるはずのホテル。この日は、怒涛のように押し寄せる高波の海である。シーガルビューというホテルの名前は、゛カモメが見える゛といった意味だ。ところが、カモメの姿など、どこにも見えない。荒れ狂う波と風雨が、ホテルの窓を叩く。何よりも、参加者は、会場までたどり着くのに、大いに苦労した。お互いが顔を合わせると、まず苦労話で盛り上がる。
東北新幹線がほぼ平常どおり動いていたのは、助かった。飛行機を利用した人達が、一番苦労したようだ。青森の空港に着陸できないので,欠航になったり、引き返したために、容易にたどり着けなかった。「海外旅行以上に時間がかかった」と言いながら、最後に到着したのは、大阪組の四人。既に夜の八時を大幅に過ぎていた。しかし、一人の欠席者もいなかった。参加の申し込みをした人達は、全員、万難を排して、会場までたどり着いたのである。今回の会議の世話役である八戸在住の畑中大吉さんは、「こんな天候にもかかわらず、一人の欠席者もなかったことがうれしい」と、感激する。天候が大荒れすると、みんなが顔をそろえただけでも、感動と感激が広がるのである。
スケジュールは、初日、シーガルビューホテルでの勉強会。元八戸市長の中里信男さんが、「北奥羽の沿革と将来像」について、また八戸みなとみらい漁協組合長の熊谷拓治さんが、「人間、このすばらしきもの」と題して、講演していただいた。そして、八戸が誇る食材を駆使した夕食会で、大いに盛り上がった。また二日目は、十和田にある稲生川取水の用水を見学した後、八甲田、奥入瀬渓流、十和田湖を巡った。そして解散した翌日、秋の空は抜けるように青かった。
「荒天候、それもまた良し」。ある人は、「この大会のことは決して忘れないでしょう」と言う。行くのに苦労した分、旅の記憶が鮮明に心に刻まれる。いつまで、「八戸での全国会議は、すごい風雨でしたね」と、語り草になるはすだ。
幹事役の畑中さんと、畑中さんを手伝った、八戸在住の『青年塾』塾生諸君の働きは、実にすばらしいものであった。天候が荒れれば荒れるほど、応用問題がたくさん発生する。朝の魚市場の見学は取り止め。バスを降りると、決まって雨の中を歩かなければならない。困難の連続である。しかし、困難が、かえって印象深い全国会議を演出してくれた。
プランクトン
2006年8月 2日 上甲晃 | 個別ページ
畠山さんの本拠地は、奥まった湾の、さらに入り江になっている中にある。気仙沼の港から乗った観光船は、そこに静かに横付けされた。赤松の生い茂る、緑豊かな地である。海は、まるで池のように静かである。入り江の入り口に当たるところには、牡蠣のいかだが並んでいる。畠山さんは、「この海もすっかりよみがえりました。森に木を植え始める前、海にはゴミも多く、赤潮が発生して、ひどいものでした。私の目から見ても、海はよみがえってきています」と教えてくれる。
私達一行は、畠山さんのところにある二隻の船に乗り込んだ。一隻は、懐かしい伝馬船である。ただし、櫓が四本あり、六人でこぐようになっている。「誰かこいでみたい人いませんか」と、畠山さんが呼びかける。早速、手が挙がる。妻も、「やりたーい」と、手を挙げる。櫓をこぐ指導してくれる元漁師さんが、「学校の生徒達が来た時にも、こいでもらいます。なぜか、生徒達はすぐにこげるようになるのに、先生方がいつまで経ってもこげないのです」と、面白いことを言う。
何人もの塾生諸君が、伝馬船の櫓をこぐことに挑戦する。元漁師さんは、「この人達は物覚えが言い」と感心する。常に現場で身体を使って仕事をすることを教えてきている成果が、こんなところに現れるのかと、こちらがかえって新しい発見をした。頭で櫓をこぐことはできない。全身を使って動くことを、これからもしっかりと教えていきたいと、改めて教えられた気がした。妻も、子供のころを思い出して、嬉々として櫓に挑んだ。
畠山さんが、プランクトンを採取してくれる。筒状になり、末端に採取用の容器が付いている白い布を海に落とす。そして引き上げて、目をこらして見ると、海水にプランクトンの混じる様子がわかる。畠山さんは、海水をコップに移して、見やすいようにしてくれる。
塾生の誰かが、「飲んでもいいですか」と聞く。「牡蠣や魚のえさになるものですから、有害ではありません。多くの人達が飲みましたが、お腹をこわしたとは聞きません」と畠山さん。誰かが、少し口をつける。このあたりも、すぐに行動に移す『青年塾』の特徴だろう。私も、口にしてみた。海水の塩味がする。プランクトンに味などない。
カツオのえさになるカタクチイワシ、あるいは牡蠣、アワビやウニなどは、プランクトンをえさにしている。畠山さんたちが十七年間、水源地に落葉樹を植え続けてきた成果が、ここに現れたのだ。海水と川の水が混じる汽水域で取れる海産物は年間二十億の売り上げです。そのうちの九割は、大川が運んできた養分のおかげだそうだ。
森は海の恋人
2006年8月 1日 上甲晃 | 個別ページ
館ヶ森のアーク牧場から、三陸海岸の気仙沼に向かう途中、地元産品の直売所に立ち寄ったのは、トイレ休憩のためであった。直売所の看板には、室根村とある。かなたに、室根山が見える。この室根山が、これから訪ねる畠山重篤さんが、十七年間、木を植え続けてきた山である。
畠山重篤さんは、私達一行を、船着場で待っていてくれた。畠山さんは、「会議室のようなところで話をするよりは、船の上で説明をしましょう」と、申し出てくれた。おかげで、気仙沼湾の美しい景色を舟から眺めるというすばらしい機会を与えられた。大きく入り込んだ内海、そして海に突き出た唐桑半島。長雨にたたられていささかうんざりしていた私達一行を歓迎するかのように、空はどんどん晴れ上がり、陸地の緑がますます映える。海の青さと木々の緑が、印象的である。
畠山さんが、マイクを握る。「気仙沼と言うのは、アイヌ語で、ケセモイといいます。ケセは゛終わり゛、モイは゛入り江゛の意味です。つまり、アイヌの人達から見れば、端の港なのでしょう。この気仙沼は、カツオの水揚げでは日本一です」と言いながら、港に並ぶカツオ船を指差す。「あれが三重県から、あれが鹿児島県から、あれが和歌山県から」と次から次に現れる船が、どこから来たかを教えてくれる。畠山さんの説明を聞くうちに、カツオ船が全国のあらゆるところから気仙沼に集まっていることが、よくわかる。「なぜ、この気仙沼でカツオ漁が盛んなのか?」、畠山さんの話は、船のスピードに合わせるかのように、確信に入っていく。
「カツオのエサは、生きたカタクチイワシです。カツオは冷凍のイワシでは食いつかない。生きたイワシの群れに飛びつく。そのために、生きたイワシが手に入りやすい気仙沼が、カツオ漁の基地になったわけです。それでは、なぜ、カタクチイワシが、気仙沼で手に入りやすいか。カタクチイワシは、川が海に流れ込む汽水域に生息します。気仙沼湾には、大川から豊かなプランクトンが流れてくる。そのために、カタクチイワシが、大量に取れるのです」。畠山さんの話は、早くも核心に迫る。
牡蠣の養殖は、汽水域で行う。「何もエサはやりません。ただ海水の中に吊るしておくだけで、牡蠣が育つ。かつて漁師達は、海からエサが来ると思っていました。ところが違った。エサは、川の流れに乗ってくる。それは水源地にある落葉樹が豊かであればあるほど、豊富になる。カタクチイワシが集まるのも、牡蠣が立派に育つのも、すべて、プランクトンが川の流れに乗って海に入り込むからです。だから森に木を植えなければならなかったのです」。゛海は森の恋人゛の理由が解き明かされた。
小泉内閣メールマガジン 特別寄稿
2006年7月20日 上甲晃 | 個別ページ
公務員こそ、『志』!
4月6日、国家公務員合同初任研修2日目。「君の志を問う!」と題した1時間半の講演を終え、肩で息をしながら、控え室に戻った。全身に汗が流れる。その汗をぬぐう間もなく、「受講生の1人がお目にかかりたいと来ておりますが、通してよろしいか」と、主催者が聞く。断わる理由はない。「どうぞ」と、私は控え室の入り口に向かった。そこには、1人の背の高い青年が立っていた。
「公務員になって、志の話を聞くのは初めてです。感動しました。ありがとうございました」。青年は、いっきにしゃべった。私は、「ありがとう。君にそのように言われたたけで、僕はここに来たかいがある」と感謝の言葉を述べながら、「公務員こそ、『志』です。ましてあなたのようなキャリアの公務員(1種職員)は、全身、『志』の塊でなければならないし、そこに公務員であるあなたの生きがいがあるはず」と激励した。
「公務員は、安定しているから」と、就職の理由に挙げる人が多い。私はかねがね、それがいかに本音であったとしても、公務員たる者は、口にすることさえ、許されないと思ってきた。公務員は、「天下のために、自らを捧げることの出来る精神を持った人」である。だから、『志』のない公務員は公務員と呼ばない、"私務員"である。
公務員が社会的評価を得るのは、許認可権限を持つからでもなく、生活が安定しているからでもない。公務員が尊敬される理由はただ一つ、『自らを犠牲にしてまでも、天下のために献身的に働く』からである。その意味で、公務員は、国民の鑑(かがみ)であるべきだ。その鑑が、いつの間にか、こなごなに割れてしまってはいないだろうか。
公務員宿舎の家賃が、相場の10分の1といったケースもある。公務員が、『天下のために献身的に働く』姿を国民が目の当たりにしていたら、世論は、「私達のためにこれだけ働いてくれているのだから、当然だ」と思うだろう。逆に自分の利益のためにだけ働いていたら、「けしからん。許されないことだ」と思う。
公務員こそ、公のために献身的であれ。公務員の精神の建て直しは、日本の建て直しの第一歩である。
高野さんの志
2006年6月15日 上甲晃 | 個別ページ
リッツ・カールトン・ホテルについて、日本支社長の高野 登さんは、二時間、熱く語ってくれた。私は、いきなりから、話に引き付けられた。高野さんは、まずリッツ・カールトン・ホテルの歴史から話を始めた。「千八百年代の中ごろ、パリのパンドーム広場にホテル・リッツが開業しました。創業者のセザールリッツさんは、゛ホテルの非常識゛をいくつも試みました。当時のホテル業界では考えられないような非常識なことを次々に試みたのです。例えば、ホテルのロビーに、大きなお花を飾りました。各部屋にシャワーをつけました。お客様の好みに関する顧客情報を記録して管理するようにしました。また、レストランで、自分の好きなものが食べられるようなアラカルトを始めたのも、セザールリッツさんが初めてです。いずれも、今は゛ホテルの常識゛になっていることばかりです。しかし、当時は、ホテル業界の誰もが考えたことのない、゛非常識゛だったのです」。
リッツ・カールトン・ホテルは、セザールリッツさんの゛非常識への挑戦゛の遺伝子を受け継いでいると、高野さんは、話を切り出した。「リッツとカールトンの二つのホテルが一つになり、一九八三年、ホテルをヨーロッパでなく、アメリカで展開し始めた。ホテルの建設が始まってから、本当に新しいホテルが必要なのか、我々が新しくホテルを作ることにどんな意味があるのか、そんな議論を徹底して行いました。結論は、ノー。わざわざ我々がホテルを開く意味がないということになりました。そして、我々がやる限りは、ホテルをもう一つ作るのではなく、社会に゛ラグジュアリー(豪華な豊かさ)゛を創造するところに意味があるとの結論に到達しました。私達が、ホテルのサービスやホスピタリティに対する考え方を変えることが出来るかどうか、私達の真価は、そこで問われるのです」。
高野さんの話には、DNA、遺伝子という言葉がしばしば登場する。企業としての゛遺伝子゛とは、その企業の存在に関する根本的な意義とも言える。リッツ・カールトン・ホテルは、名前はホテルではあるが、実際には、「ラグジュアリー(豪華な豊かさ)を新しく創造し、提供する」ところに存在理由を求めているのである。
この点は、まことに大切なところである。自らの存在の根本理由が明確でないと、サービスの方向も従業員が力を発揮する方向も決まらない。私が高野さんの話に共鳴・共感する最初のポイントはここにある。企業のDNAとは、私なりの表現では、『志』である。企業に、『志』がなければ、力強い活動など出来るはずがない。
アグリツーリズムを体験
2006年6月14日 上甲晃 | 個別ページ
アグリツーリズムを体験来年の三月末から四月初め開催
感動を独り占めしないのが、私の方針。自らが感動したら、その感動を多くの人達と分かち合いたい、それが私の思いです。かねてから、イタリアのアグリツーリズムが魅力的だと聞いていました。農家に滞在する旅行がはたしてどんなものか、今年の春に、夫婦で実際に経験してきました。二十年前からイタリアが力を入れてきたアグリツーリズムだけに、なかなか快適であり、滞在型の旅行として感動的でありました。゛アグリツーリズム゛は、イタリアが先進地。農村ホテルに滞在して、農家の暮らしを体験するツアーです。今年、私達夫婦が滞在した゛丘の上ホテル゛は、日本人旅行者としては、初めて。しかも、あまり観光化し過ぎていないところも魅力的でした。おいしいワイン、素朴な人情、美しい景色、来年はご一緒にいかがですか。皆さんのご希望があれば、ツアーを計画したいと思います。宿の主人には、「今度は友達を連れてくる」と約束しました。今回は、初めての試みとして、「みんなで作りあげるツアー」を考えています。すなわち、最初に希望者に手を挙げていただき、内容はみんなで考えながら進める方式です。日程だけは、来年の三月末から四月初めの一週間から十日を予定しています。「今のところ参加してみたい」と思う人の参加を募集します。応募いただいた方々と、これから一年近く、様々な相談をしながら、そのことも一つの楽しみにしたいものです。とりあえずの案としては、農村ホテルに半分滞在して、後の半分は、フィレンツェ、シェナ、ローマなどの歴史のある街に滞在することを考えています。゛お仕着せのパックツアーから、゛自分たちで作りあげる旅゛へ。旅の進化をめざしてみたいものであります。
リッツ・カールトンの人気
2006年6月14日 上甲晃 | 個別ページ
十年前、大阪駅のそばにリッツ・カールトン・ホテルが開業した時、「ヨーロッパスタイルのいいホテルが出来たな」といった程度にしか受け止めていなかった。知人の中には、「迷路のようなホテルだ」と言う人もいた。確かに、フロントの位置やエレベーターの位置がなかなかわからない。廊下もまっすぐになっていないので、部屋を出てから、しばしば面食らうこともある。そんな変なホテル(?)に関心を持ったのは、日経ビジネス誌で、「サービス日本一」として取り上げられた時からである。とりわけ、ザ・リッツ・カールトン・ホテル日本支社の支社長である高野 登さんと知り合って以来、その魅力にすっかり取り付かれるようになってきた。高野さんは、私よりも一回り下の巳年生まれ。初めて北九州で出会った時、その紳士ぶりが気に入り、話が大いに弾んだ。わずかな回数しか会っていないのに、゛魂の共鳴・共感゛が起きて、何十年来の友人のように親しくお付き合いを始めた。『リッツ・カールトン・ホテルのサービスに学ぶ勉強会』は、そんな出会いの経過から生まれたものである。
それにしても、リッツ・カールトン・ホテルの人気振りには驚いた。最初の計画段階で、私は、何とか五十人には集まってほしいと思った。ところが、呼びかけ始めると同時に、次から次へと申し込みが相次いで、あっという間に五十人を越えた。あわてて、会場をさらに大きな部屋に変更して、定員百十人までの研修室を押さえた。その定員も、とうとう満員になり、大盛況の勉強会になった。それほど、リッツ・カールトン・ホテルの人気は高かった。私はまずそれに驚いた。
夕食会は、予算一万五千円。「立食は嫌。きちんと座って食事をする方式」と、私が強く要望した。食事会の会場は、ドアーを開けた途端、驚くほど豪華に、そして華やかに設営されていた。照明の具合も、ムードを盛り上げてくれる。椅子はすべて白いカバーが掛けられて、快適だ。勉強会参加者を対象に、希望者を募集したところ、ほぼ半分の五十四人が参加、豪華な夕食会を堪能した。アルコールはフリー、食事は大変においしいと、参加者の間で、大好評だった。
宿泊希望者は、食事会参加者のほぼ半分。宿泊代金となると、ぐんと高くなる。大阪のホテルの中では、最高級ホテルの中でも、さらに一ランク高い。それでも、この機会にどうしても泊まりたいと、たくさんの方々が申し出られた。それにしても、リッツ・カールトン・ホテルの人気